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2011年12月31日土曜日

2011 〆

世界は現象の蓄積の結果である。
社会は起こっていて存在は発生している。
その一つ一つの背景に蓄積された確かな過去が存在し、それぞれに概念的な死が予定されている。
「私」という存在が能動的に起こした現象をただひたすらに蓄積させることにより、純然たる堆積物が生まれる。
その堆積物こそが私が世界に在るという確証であり、私の対峙する世界そのものである。

巨視的な時間軸から見た一つのある時代に「私」は発生している。
人間存在は時代という単位と切り離して考えることは不可能だ。
ということは、私という存在は今という時代を体現していることになる。
私から生まれる作品も同じことで、そこから日本の、亜細亜の、世界の、人類の、地球の、太陽系の、宇宙の堆積された過去へと紐解いていくことができる。
また、作品とはそうしたものだと考える。
表現とは、その背景が必然的に色濃く反映されるものである。
いや、むしろ能動的必然性により激烈な意志をもって反映させるべきものなのだ。

時代というものは相対的にしか認識し得ない。
「今」を認識するためにiPadやハイブリッドカーを並べたところでそれは当たり前のことで、「今」への認識としては弱い。
逆に、江戸時代の資料(明治でも昭和でもいいのだけれど)を見せられるだけで、自然と「今」ということに意識が向く。

つまり、「今」の対岸に「過去」があり「今」は「過去」との相対で認識される。それは「過去」ではなく、「未来」という想像や予想でもかまわないが、厳然と存在していた時間と比べることで、より「今」の輪郭がはっきりする。
「今」の後ろに「過去」が在り、「過去」の後ろに「今」が在る。
この関係は物事の認識・知覚と相対性という関係のみならず、「存在は常に不在の事象を隠している」ともいえる。
原発の問題は何も解決してなどしてはいないという事実、常識という名のもとに隠された非常識、見えない有害物質で汚染されていく大気や森林や海、我々の影で確実に絶滅へと追いやられていく動植物...
それらの時物の相対性と存在が孕んでいる存在の意味上での相対性は同義である。
それが、ひいては藝術の社会における存在意義だといえる。

しかし、私は藝術をもってして安直な人間批判を主張しているのではない。
当たり前だが、シーシェパードに顕著なまるで暇の産物のような愚劣かつ稚拙な利己的批判精神を持っているわけでもない。
なぜなら我々もまた地球に発生した生物の一部であるため、生物であれば、「生きる」・「増殖する」ということが当たり前の本分であるからだ。

ただ我々は生物として、人間としてたった一つのことを忘れている。
それが「常識」だ。
常識の名のもとに非常識は隠されているが、世界は非常識が大半を占めている。
つまり、本質的には、非常識が巧妙に意識させられていないだけで、その非常識の影で息も絶え絶えに咽び泣く常識というものがあるのだ。
常識とはなんであるか。
故小田実が「これは「人間の国」か」で書き残した読むべき、知るべき文章を載せておく。

以下参照↓

常識は、人間の長い文明形成の歴史の中でかたちづくられてきたもので、それを欠いては人間は人間ではなくなるという基本の共通認識(コモンセンス)である。
常識なくしては、文明は形成されていない。たとえば、困っている人は助ける。人を殺してはならない。もちろん、世界はその常識通りにはなっていない。しかし、だからと言って、常識が常識でなくなることはないだろう。
常識は常識であることによって、常識をそうしたものとして人間が持ち続けることによって、それは事態をただす力になる。
原理とは、根本的にその常識というものに基づいている。思想は人間全体にあいわたる普遍をもつとき、原理の名に値するものになる。
そうでなければ、ただの個人的思考、あるいは、妄念にとどまる。いかに新奇、すばらしいものであろうと本質的にそうだ。


「人間全体にあいわたる普遍」。

人間の能力は象の鼻やキリンの首のようでなければならない。
科学技術が平和利用されることは当たり前のことなのだ。
なぜなら、人間の能力は人間のためであり、人を殺してはならないなんて当たり前すぎる衆知の常識だからだ。

しかし、これらは現在の在り様において「当たり前」ではない。
虚偽を正し必要な勉強をしなければ「当たり前」には辿り着けない。
無論、教科書などというものは糞の役にも立たない。
教育は学級崩壊やモンスターペアレンツの前に本質的に崩壊している。

私は私の対峙する「今」という複合的な世界を表現する。
私が蓄積をテーマとして重要視しているのは、世界の在り方の根源であるからだ。
「在るべき未来への原点回帰」は人間批判でも資本主義批判でもなく、ただただより善き世界を創るためだ。

世界は私が創るわけではない。
我々が創るのだ。
だから、私は社会へ提言をする。

私が蓄積の影に表出するのは、植民地支配という重い非常識を背負った日本であり、原発に代表される虚偽と矛盾に溢れた社会であり、私が育ち学んできた日本であり、私の、人間に対する愛情である。

傷付いた人には、私という存在を見て何か少しでも励みになってほしい。
社会には、私の作品を見て「人間粒」という本来を感じてほしい。
かつてドイツの彫刻家、ハンス(ジャン)・アルプがこの「人間粒」という言葉を使った。
私は人間存在の本質を言い表すとてもよい言葉だと思う。

「我々はより善き人間粒ではなかったか」

― 私が蓄積させるための手法としてなるべく単純な運動を選ぶのは、一つには蓄積というテーマをはっきりさせるためであり、もう一つには、所詮は全て原始的な運動の枝葉としてしか語れないという考えに基づいてのことだ。

より根源性を高めたいがために、造形性などの余計な要素も省いてある。
余計な要素の一つには、「全て手仕事」も省いている。
私は努力賞が欲しいわけでも、産業革命や資本主義を否定しているわけでもないからだ。
ただ、それを扱う人間の意識に今大事件が起きていると感じているだけだ。

私の作品は、「存在における不在の本質」「社会における本質の不在」ただそれに尽きる。
分かりやすく言えば、存在における本質と社会における本質のことだ。

何も難しいことではない。

存在はより根元的かつ本質的な強度が増すほどに、相対的作用により不在の本質が背景として色濃く滲んでくる。
私の表現したい不在の本質は目下、我々人間存在の「常識」だ。

人間と存在は別々ではない。
哲学者がなんの屁理屈を捏ねようが、「私が今ここに在る」ということが本質なのだ。
在るからには人間の役に立たねばならない。
なぜなら、我々の能力は我々のためにあるからだ。
当たり前のことなのだが、「自分のため」を突き詰めれば、他者の存在は絶対的なものであり「自分のため」はイコール「他者のため」であることに気が付くように、「人間のため」とは「地球のため」と同義である。
動植物や昆虫が住めないところに人間は住めない。
この「当たり前の事実」と人間の「常識」とは直接的に繋がっている。

また「原発反対」もそこに連なり、私の作品もそこに繋がっている。

私の思想には批判や反対の精神があっても、作品それ自体は批判や反対の精神を纏ってはいない。
あくまでも作品は私にとっての本質の体現であり、作品の解釈には自由を伴うからだ。

しかし、作品と対峙すればするほど、作品を紐解けば紐解いていくほど、私の思想の深淵に近づくこととなる。
それは同時に私の覚悟とも近づくこととなる。

行き着くは、激烈なる一蓮托生。

作者と鑑賞者の間における、理想的な感覚ではあるまいか。

私は「今」においての日本の藝術は、示唆的なものではなく啓示的なものであるべきだと考える。
それは正に東日本大震災とそれに次ぐ原発メルトスルーによる放射性物質拡散の人災を背負っているからである。
日本社会の中に居る以上、震災と人災(「東日本大震災」のように、人災にも人々の心に刻む名前をつけるべきだ)の以前と以降という思考的なテーマからは逃れることはできないし、間違いなくこれからの全ての主題であるべきだ。

「何事もなかったような」

は許されない。

無能無知蒙昧な官僚はそれを肝に命じておくべきだ。

私が美術においてこういった考えを元に発信をしていくことは、「原発反対」の文字を作品にあしらうことではない。
それはデザインやメディアのするべきことで、私は人間存在の本義から抗議する。
それぞれがそれぞれの分野においてこうした独自の運動を展開すればこそ、それは大きなうねりとなり国民(司馬遼太郎風に言えば「住民」)の総意となるはずだ。

以前、高円寺のライヴデモに行ったが、デモというにはそこに集まった群衆は思想的一体感に欠けていた。
「原発反対」なのだろうが、何を持ってして「原発反対」なのかを語れる人間はいかほどに居たのだろうか。
その時以来、私はデモへは一度も参加していない。
もはや今は「デモ」の時代ではない。
各人がしっかりと未来を見据え、本質的な考えを持ち、各人のメディアできちんと発表をしていくべきだ。
それでなくして、何のフェイスブックでありツイッターなのか。
「腹減ったナウ」や「今日の出来事」では、もはや時代が赦さない。

作品の解釈は自由を建前としながらも、もはや鑑賞者に委ねきるだけの余裕はない。
「考えさせる」では感受性の衰退と無関心の蔓延には追い付けない。
だから、示唆ではなく啓示なのだ。
人間の意識は魔術的な観念や思い込みからの解放などはあり得ない。
ある意味ではデュシャンは夢だった。
解放ではなく、ただの刷り変わりであったのだ。
事実、「造る」ということを異常に遠ざけてきたコンセプチュアルアートの系譜がそうではないだろうか。
コンセプチュアルアートが行き詰まった後は資本と商品性だけが取り残されて、ただの玩具的な作品がいたずらにマーケットを遊泳している。
無論すべてがそうだというわけではないが、村上隆このかた震災・人災以降も変わらず玩具的な作品が出回っている状況を見ると、日本の社会的・意識的末期状況を危惧せずにはいられない。
日本及び日本人は、戦争も水俣病もオウムも、そして今や3月11日の大震災、福島における人災でさえも全て全力で「なかったこと」にしようとしている。

隠蔽に未来なんてあるわけがない。
払いきれなかったツケは必ず後でまわってくる。
官僚という人種はそれを人生で学んでこなかったのだろうか。

アートも社会も人間も、そして私もあなたも決して世界と無縁ではないのだ。

例えば、星空に響くジェット機の轟音に気付くこと。
例えば、いつも誰かの見えない善意において社会はギリギリの人間性を保ち続けているということ。

そういったことが重要で、そういったメタファーが美術としての、藝術としての表現に啓示的な示唆を与えているのだと私は考える。

そして、必ず、こうした作品の意味上での背景が見る人には本質的に伝わるのだ。

だから私は藝術を、美術を信じる。
いつか我々は故郷として地球を想い、郷愁に泪するだろう

すでに、人の業がそれを物語っている

月の詩

世界は全てが不確かである

物質が安定を求めるのも、我々の精神が安定を求めるのも、全てが不確かであるからだ

しかし、不確かだからといって個の知覚する時間への焦燥はなかなかに棄てがたい

不確かさにおののいているうちに、我々は確実に老いていくからだ

まずは、その時間の蓄積と終末への兆しの中に自分が『生きている』とすることから始まる

しかし、それすら不確かなことを忘れてはならない

もしかしたらこれらは全て夢かもしれない

なぜなら我々はあまりに現実かと見紛うほどの夢をみるから

それは月のせいかもしれないし、もしかしたらアルコールという人を宇宙へと解き放つ魔法の物質のせいかもしれない

だからまず、私は生きている、ということとする

そして私は世界を知覚する

世界は私に知覚されながら私を緩かに包み込む

私は世界に包括されながら、世界もまた私なしには存在しない

なぜなら、これらは全てが月の夢かもしれないからだ

月の魔力を信じぬ者に泪のわけは分からない

月の魔力を信じぬ者は彼岸と此岸を知覚することは叶わない

この世界に向こう側があるということを

知ることなしには此処も存在しないのだ

2011年11月13日日曜日

美術は音のやうに消えはしない

Jazzにはウィスキーとワンルームが似合う

できれば窓から何がしかの羨望を抱けるような高層マンションやなんかを見上げられると尚更よい

そして聞くときは部屋の明かりを消して一人でいることだ

僕には、目を瞑ると橋桁で一人奏でるサックス奏者が朧気に見えている

サックス奏者の感情が昂ってくると、そこにどこからやってきたのか、ピアノ奏者が感情が激した彼を何処かへと導こうとする

二人は連れ立ち次なる美しき世界へと消えていく

人間は人間に感動する

自然は自然
粒は粒
私は私

金はブルジョワジーのもの
芸術はプロレタリアートのもの
表現は僕のもの

東京のワンルーム

彼女の帰った、一人にはいささか広いその部屋で

Jazzを聞いても僕はどこへも消えはしない

世界は厳然とそこに存在し

僕は今日も藝術を模索する

ノストラダムスの声が聞こえる

知覚する側の感覚が世界の感覚である。

なぜなら世界は知覚されるものだからだ。

有史以前からかわらずそこにあるものを、宇宙の全てを包括するものを、知覚してから世界は始まる。

創世記は、今この瞬間にも始まっている。

トレースされ書き換えられ永遠の変容のスパイラルの渦中に我々はいる。

大事なことは、渦の中心を意識することだ。

渦の外側へ行けば行くほど中心へは戻りづらくなる。

渦の中心は動かない。

有史以前の香りがまだそこには残っている。

いささか磨耗し、風化してはいるけれど。


地下鉄の看板。

ゆるやかに看板が液晶のものへと移り変わってきている。

人々は止まっている看板を見ない。

この世から、少しずつ動かないものが消えていく。

メタボリズムの渦の中。

中心さえもが消えかかる。

人間という存在は、中心を失ってまで存在しうるのだろうか。

自己を滅亡へと導く自殺願望の塊のような人間の所業は、我々の未来をどう暗示するのか。

“人間”の真水は、“人間”の世界は、このままでは終わらない。

こんなふうには終わらせない。

世界は勇者と啓示を求めている。

バーチャルの世界の話ではない。

現実の、リアルの中に、世界を救う物語は今序章を迎えている。

立つのは誰だ。
仲間は誰だ。
救いを求めているのは何者か。
次に行くべきところは見えている。

啓示を読み解け。

最後の黒幕は我々自身かもしれない。

2011年9月30日金曜日

吐露

全ての物質がそれぞれ自分勝手なバランスをとろうとし、結局は多様性の飽和状態を生み出す。

それはとても刺激的で、生命が最も躍動し胸踊るような状態だ。

人間は自然とテクノロジー、もしくは人間とテクノロジーの間にいてこそ丁度よい。

明治維新から戦争に入るまでの奇跡的なロマンは、発酵し熟成したまろやか且つコクのあった文化的背景も大いに関係があるが、おおよそそういったことでも生まれ得た奇跡だと私は思う。

そんなことで、私は藝術家として常に何かと何かの間に自分を置きたいと考えている。

そこでバランスをとろうとし、もがきたゆたっている状態でこそ藝術家たる本分であるように思うから。

かつての大天才のように、常に意識せずとも非バランス的で代謝の激しい人間を別にして、私のような凡人出の藝術家志望はそうでもしなければ生きてはゆけない。

そしてもう一つ。

私は現代の「情報」を軸とした均一化へ向かいつつある社会への不満と危惧がつのるばかりであるからだ。

ボーダレスでグローバル。

およそ「アートは...」で始まる常套句はそんなことをうたっている。

私は本当にそうなのかな。と、疑わずにはいられない。
確かに米国や西欧ではそんな雰囲気があるとは思うが、日本ではそもそも「アート」という言葉さえ定着していない。
日本では、アートはよく分からないものであり、芸術は油絵であり、工芸は陶芸であり、彫刻は木やブロンズの具象物体であり、アーティストとはJ-POP歌手である。

それに加え、我々を培ってきた気候や風土とネイションステート入りするまでのかくも香しい私の愛してやまない日本に対しては、そのこだわりこそが無駄なのだと言わんばかりではないか。
全く異なった気候風土で育った概念を亜細亜においてまで無理やりに当て嵌めて、いまなお鼻の高い青い目の金髪に憧れ続けている日本人は、恐るべきスピードで恐るべき均一化を果たさんとしているように見受けられる。

均一と安心ほど邪悪かつ恐ろしいものはない。
均一と安心は怠惰と慢心しか産み出さない。
平和で何もかもが満ち足りて、都合の悪いものは何でも隠して、無能無知蒙昧な政治家は民をメタボリズムの促進剤としてしか捉えられていないような現代は、情報の鬼畜的なスピードと目まぐるしく変わる為替と甘ったるい自分以外への陶酔型偽善的擁護に満ち満ちて、すでに全世界的に均一化しつつある。

ここで断っておかなければならないのは、あくまで均一化というものがまずいのであって、平和は大賛成だ。
平和あってこその人類である。
しかし、なんとも均一化というのはまずいと思うのだ。
このままでは、人類は早急に宇宙に出なければならない。
均一化され何をやっても満足が得られないような世界は、濃度の濃いガスが溜まっているようなもので、常に大爆発の危険をはらむ。
しかし、我々人類はまだ宇宙での生活など始められるほど成長してはいない。

未だ我々はヨチヨチ歩きのままなのだ。

同種で殺し合いなどしているうちは。

私の考えるこの恐るべき均一化に対する打開方法は二つ。

それは、破壊かゆるやかな後退だ。

前者を選ぶならば核戦争後の人類絶滅の色が濃い。
まるで小松左京のSF小説のようだ。

後者は、時間もかかるし何より人間自らが気付き、人類単位で選択し行動しなければならない。

果たしてかくも欲深さを蓄え、醜くいびつになった現代の我々人間粒は今更ながらさも美しい調和を奏でることは可能であろうか。

宇宙からして全ての物質は死へ向かっているのにもかかわらず、それに対抗しうるというのだろうか。

宇宙の内に在る物質は、全てが宇宙に支配されている。
もし宇宙が永遠に拡張を続けるのならば、我々もまた種としての永遠を選択できるかもしれない。

しかし目下、それぞれの物質は進む方向を曲げられず、決められた寿命で天寿を全うする。

だが、私は願わずにはいられない。
そして誠に小さい声ながら、主張せずにはいられない。

我々の子供達への申し訳や人類の可能性や選択肢を。

何より人類がより善き明日を生きてほしいから。

しかし、私は細かくどこをどうすればいいのかは正直わからない。
が、問題点を逆説的に体現し表現することはできる。

世界を変える力のある人間に、私は気付いてほしい。

空や雲や風や土や火や水などの、あまりに馬鹿馬鹿しいほどの当たり前なことが我々の内から無くなりつつあることを。

我々は我々のために在る。
そして我々は我々を憎み、我々は我々に殺される。

我々は日々の鬼畜的なスピードに呑み込まれながらも、人間を見失ってはとうてい生きてはゆけない。

まだ人間は人間を見失ってはいない。
が、失わないともかぎらない。

私は自らの身を削り唯々、願う。

人類よ、人間本来に気付いてくれと。

一人の人間があらん限りの力を使い、農耕民族さながらの連続・反復性の中に自身を埋没する。
私の言いたいことは、その埋没した中に全て埋まっている。

2011年9月28日水曜日

無題

言葉があふれるような時がある。
それは美しい事象に触れた時やなんかにふいにくる。
我々の中や世界中に眠る膨大な宇宙の記憶を垣間見た時や、美しい言葉や現象、景色に触れた時。

松岡正剛を読んだ時には、僕と茫洋とした巨大な記憶やこの國の風や土を一緒に捉えられて、その視点からの物事を考証してみたくなる。
自然は当たり前に圧倒的な自然さで、土は静かに息をしている。
しかし、美しい言葉はなかなかあるものではない。
言葉も表現であって端的には発言者そのものであるのだから、ほんの小さなところでの整合性を欠いたりしただけでなんとなく嫌な感触を得ることがある。
「素直に美しい」とは同時に「好き」でもある。

僕は最近はじめて池澤夏樹の小説を読んだ。
そして今も読んでいる。
まだ二冊目だからそうそう言い切ることはできないけれど、僕には記憶の彼方の堀辰夫の文章が美しいというぼんやりとした記憶と重なる。
堀辰夫を読んだのはもうずいぶん昔のことで、確か結核で隔離された美しい女なんかが出てきたような気がする。
僕はそういった場面・人物設定が大好きだ。
もちろん直接的には、堀辰雄と池澤夏樹では似ても似つかないのだけれど。

池澤夏樹の小説で最初に読んだのは「スティルライフ」
次は一緒に綴じてある「ヤー・チャイカ」
どちらもすこぶる大好きで、「スティルライフ」の冒頭は抜粋するに値する。
著作権とか馬鹿みたいなことに問題が無ければ、以下↓

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。

二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。



今は「マシアス・ギリの失脚」を読んでいる。
そこでも冒頭にある島の朝の描写と鳥の伝承が爽やかな風のように快い。

こんな時、西田敏行のもしもピアノが弾けたなら♪を思い出す。
そう、弾けたならば思いの全てを唄にしてあなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に美しい詩が詠めたなら、あなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に池澤夏樹のような文章が創れたのならばきっと、あなたへ思いのすべてをもっと上手に伝えられたことでしょう。

考えてみれば、僕はなんと偶然なことに美術という立派な表現媒体を持っている。
しかし、趣味と職業とが決定的に異なるように僕にとって美術は僕のためにあるのであって「あなた」のためにあるのではない。
表現とはどんなに生ぬるい捉え方をしようとも絶対的に個人的なものだからだ。
まぁ、僕にとってはだけど。
だから、僕がもし美しいとされる絵や彫刻を造ることができたとしても、それは「あなた」への思いを伝える媒体にはなり得ない。
もしもピアノが弾けたなら♪をいかにロマンチックに捉えようとも、美術が引き合いに出されたとたんに「いやいや、大事な気持ちは言葉なんかじゃ伝わらないよ。行動行動。実感覚がなにより大事でしょ。」とか言い出す始末。
趣味なら言えることが本気でやってると言えない。
趣味なら趣味と割りきって集合的な評価や賛同を得ようとは考えないから楽に一元的にもできるけれど、本気になるとそうはいかない。
幾次元にも捉え否定し再考し考え抜いたうえでまた失敗。
生きていきたいから評価も欲しいし金も欲しいし。
とかとか。

なんとか楽になりたいもんだ。

もし楽になったら、その時はもしかしたら「あなた」への想いをカタチにして受け取ってもらえたらと僕は思う。

いや僕は、もしかしたら本当はそれを夢みているのかもしれない。

そんな気もする。

2011年9月20日火曜日

反省

二足の鞋

僕は二足の鞋が好きである

二足どころか三足も四足も履けばよいと思っている

それだけのキャパシティがあるのなら

今の日本はアメリカからもらった鞋しか履いていない

しかもあまりに履きづらい鞋だ

日本は戦後このかた履けるはずのないはずの鞋を履きこなそうとするだけの66年間だった

所詮、日本のサイズに合わない鞋を履きこなすなど土台無理な話だ

しかし、それならば二足の鞋を履けばよい

システムは外人さん、文化は日の本

何をもってして日本人の趣味趣向・性質・価値観まで外人さんにしたがるのか

学生紛争このかた、未だに無能な政治家達は民衆を恐れ人民の管理に明け暮れ、外国に萎縮して本人達はアメリカ人並にブクブク太っていくだけだ

我々は虚しいただの人間粒だ

己の力に慢心し、己に対して欺瞞を持ち、己が己を殺すのだ

しかし、それは己が己を愛し己が世界を救うのだと言い換えることもできる

己は他の鏡、他は己の鏡

どちらを選択するかはまったくの自由だ

生き方はいつでも変えられる

僕らはその根元的な選択の自由を示唆できるにとどまるが、それは傲慢でもなく下らなくもない、ただただ小さい個人的な愛なのだ

かつて内村鑑三が言っていた

武士道に足りないのは愛だけだと

ならば武士道に愛が備われば、素晴らしい精神規範・行動規範になるのではないか

我々は、我々というアイデンティティーは、失っていいものなのだろうか

今、日本としての在り方を論ぜずしていつ論ずるのか

吉田松蔭がいまここにいたならば、我々は我々の不甲斐なさによって松蔭を泣かせるだろう

なぜアメリカと仲良くしたいだけのために被爆し国土を汚染しなければならないのか

中国・北朝鮮・韓国・ロシアを牽制するためか
アメリカさんからの旨い汁がそこまで旨すぎるためか

ならば、国民を護るという大義名分の上に国民国土を汚すのは本末転倒ではないのか

無能無知蒙昧で傲慢かつ高慢な人間達

悪者は誰か


それは我々人間だ

一度でいい

立ち止まり、ゆっくりと話を聞いて譲り合いより善い世界を造りませんか

まるで小学校の学級会のように

それだけ我々は大事なものを置き忘れて生きてきてしまったのではないだろうか

我々はあまりに稚拙に堕落しすぎた

2011年9月12日月曜日

9.19 さよなら原発5万人集会

http://sayonara-nukes.org/

今

感動― 感覚が動く、心が動く

我々はいったい何に感動するのだろう

ビルの屋上も空からの眺めも地中の部屋も、あるはずのない、できるはずのない、本来ならば人間の範疇でないことも、それらは全て人間の所業である

象の鼻は象のためにあり、キリンの首はキリンのためにある

そして、我々の能力は我々のためにある

我々は我々に感動するのだ

自然といわれる宇宙や地球規模のもの、我々を包括する世界には、我々は感動どころか圧倒される

今、美術は「何のために何をやりどうなったのか」を知る安心、またはマーケットでこねくりまわされ磨耗するただの商品...
それだけのものになっている

我々は我々として、在るべき人間粒としての在り方を忘れてはいないだろうか

私は今一度ただ一粒の人間粒に立ち返りたい

人間存在の生命をみてみたい

そして私の生命を捧げたい

何故、何をしてどうなったかを知ることができたところで、問題が解けた現代人の些末な悦びを促すだけだ

先人達の藝術に通ずる人間存在の言霊、人を人たらしめるはずの藝術は、象の鼻のようであり、キリンの首のようなものではなかったか

私は私の考える本質を世に問いたい

時間は戻らない
しかし、知ることはできる

有史以前、太古に遡る悠久の時間と、我々が慌ただしく絶望と希望の間を右往左往している現在は、確かに繋がっているのだと

テクノロジーにしろシステムにしろ、全ては原始的な行動の枝葉としてあるはずだ

私は唯々、時間と現象と気と体力を媒体に託して蓄積する

いつしかホモサピエンスとしての我々の一端を、垣間見るのを夢みながら

2011年9月9日金曜日

Memory Code

私は普遍的かつ本質的なものを表現したいと考え日々作品制作をしている。
それは、たとえば土のようであり、忘れられた祠のようなもの。

世界のあらゆるところに介在する内と外の関係性は、蓄積された時間に由来する。
DNAの蓄積情報や木の年輪や石の積層、大地の断層…のように。

人は心を強烈に揺さぶる何かに出会った時、動けなくなったりふいに涙がでたりする。
それは意識と無意識の間の出来事。

生きづらく、捉えづらくなった世界でも、どこかに必ず真水のようなものが存在する。
我々の鼓動や代謝、それらの蓄積。

我々は日々エネルギーを摂取し消費して生きている。
その蓄積が意味を取り込み人生というものをかたどるのだ。

万物は蓄積から始まる。
私は積層された 断面を示唆する。
断面は有史以前の世界を暗示し、唯の懐古趣味でなく、我々をあるべき未来への原点回帰へと導く装置となる。

より善き世界を生きるため。

しかし、それらはあくまで多世界解釈の域をでることはない。

世界には確かなものも不確かなものも存在してはいないのだから。

より善きものは、私の内にしか存在していないのだから。

2011年8月19日金曜日

藝術の言葉 言葉の藝術

デュシャン以降、藝術は観念の藝術となった。
それは藝術が専ら哲学と思想へ大幅に傾くことを意味しており、今や死語たる「デッサン」は省みるだけ損をするようなものとなってしまった。

鑑賞者の感心は目の前の作品との交感から作者の動機とユーモアと表面的な驚きに向けられる。
もはや鑑賞者は個人にとっての価値ではなく相対的(資本主義的)価値観に左右され、作品は「あぁ、そうだったのか」の低俗な安心を得るためだけの道具となった。
それだけ世の中で価値観の指針を打ち立てるのが難しいという今の生きづらい世相を反映しているかのようでもある。

しかし、それはあくまで言葉と視覚のみの世界であって、幾次元にもまたがる情報と現象の蓄積たる藝術品はその中では永遠に理解されることはないだろう。
皮肉なことに、マルセル・デュシャンが促したアウラからの解放は、より強いブルジョワ思考のアウラにがんじがらめにされてしまった。

藝術家が言ってはいけない、「藝術は言葉じゃない」は説明に対しての体のいい逃げ口上であるが、あながちそれは完全に否定しきれるものでもないと考える。
なぜなら、創らない人間こそが藝術を言葉に当て込みたがり規制の価値観に押し込めてきたからだ。
自らの価値観の変容を受容できないがために、生まれたてのいたいけな藝術作品をギチギチの箱に押し込めて安心する。
コレクションには同じ大きさの箱がただただ無味乾燥に積み上がっていくだけだ。

芸術は言葉じゃない

本当に言葉じゃない。

今や鑑賞者は作品を観た時に言葉に納得しているだけだ。
ならばそこには実体はいらない。
3D画像と説明書があれば事すんでしまう。(案外それをやれば逆説的表現としてウケるかもしれない。それもまた集団意識の皮肉である。)

しかし、それならば造ることはいらなくなる。
作品に実体はなく、すべてデータベース化され、bitで換算されてしまう。
では、実体とはなんなのか。
価値の媒体であるはずのマネーがデジタル化し、食品はすでに命の介在が確認しづらい。
住む家は家具付のただの箱になり、土地に執着がなくなった。
そこに氏神などが存在する余地は全くない。
我々の実感の本体である衣食住は全てにおいて概念としてのデジタル化を果たそうとしつつある。

ただ唯一、人間の生の実体としての藝術を残して。

敢えて極論に突っ走ったが、現状に対する危機感と藝術に託された希望を説くにはこうあるべきだと考えた。
藝術家の言葉はデザイナーの言葉とは違う。
注意の行き届いた言葉などいくらでもそこいらに転がっている。
ゴミが欲しければゴミ箱を漁ればいい。

我々は努めて「藝術は言葉じゃない」の「本義」に立ち返るべきである。

言葉は言葉好きに任せておけばいい。

2011年8月2日火曜日

遅ればせながら、原発再考

正直、私は今まで原発に対しての自分の姿勢を決めかねていた。
「成るように成る」「成るようにしか成らない」と逃げていたようなふしもある。
原発は人類にとって如何なるものか。
原発は資本主義経済にとって如何なるものか。
我々はあるべき未来に対しどのように在るべきか。
私は私なりの私見を述べる。
私は、原発は即座に廃止するべきだと考える。
原発に替わるエネルギーは、言い方は乱暴だが、勝手になんとかなる。
なんとかするしかないからだ。
ある意味追い込み作のようでありながら、何も追い込まない。
我が日本にはまだ十分なエネルギー政策ができる国力があるからだ。
国は政治家と軍人のものではないということを政治家と軍人が自覚すればの話だが。
人民は決して馬鹿ではない。
己ばかりが強大という欺瞞は墓穴になる。
今しか原発を廃止するチャンスはない。
今なら日本から世界を変えることだってできるのだ。
「利権こそが世界であり生きるということだ」という考えを捨てることができるなら。
今ならまだ間に合う。
我々は今しかない。
抽象的で感覚的な警鐘にならざるをえないが、私は持ちうる全ての力でこの小さな小さな警鐘をならす。
追伸;児玉龍彦氏(東京大学先端科学技術研究センター教授東京大学アイソトープ総合センター長)の参考人質疑は必見である。

2011年7月10日日曜日

久々は月並みな話から

言葉とは、言葉なんてものは、ただの言葉でありながら、その発言をするものの思想や哲学を恐ろしいほどまでに端的に炙り出す。

それは我々の一挙手一投足も同様で、歩き方、表情、姿勢、一人で居るときと大勢で居る時との差やなんかで、受け手にいとも簡単に本質を捉えられている。

それらは自分で注意してもいいのだけれど、大概はそんなものは付け焼き刃になってしまって見る人が見たらすぐに分かってしまう。

中身が変われば外見が変わる。
ここでいう外見とは、顔や服装のみならず、存在の表面に露出する全ての事象だ。

2011年6月13日月曜日

「時代」とそれを提示する側との因果

昔々、僕は時代の最先端にはなりたくないが「最先端」を造りたいと考えていた。
が、「最先端である」ということは、ただただ己の感覚に素直であり妥協しないことであると僕は考えた。

なぜなら僕らは皆時代の申し子なのだから。

はからずして僕らの一挙手一投足は時代を体現している。

2011年6月6日月曜日

次への提言

現在、我々が対峙する日本を誰もがとても楽観的には捉えられない状況であることは明らかなことである。
無論、現在的要因として東北での大震災は核心的な事象ではあるが、根本的には戦後から始まりバブル以降、失われた30年といわれるあたりの社会に本質的な病巣があるのだと思われる。

そもそも、社会とは時代に包括されるものだ。
時代とは価値観のことである。
価値観は世界に依存する。
ある視点においては世界は社会と同義として捉えられる。
つまり、我々の生活する世界・社会は個々の価値観のめくるめく相互関係のうえで成り立っているのだ。

端的かつ平均的な見方をすれば、現在における価値観とは貨幣のことだ。
貨幣、お金とは物々交換の軋轢により生じたあくまでも価値の媒体物である。
しかし、それがいつしか価値そのものとなり、記号化され鬼畜的な速度を伴っていったところに問題意識を生じる。
もうひとつの大きな価値観の問題は時間にある。
現在の我々の世界は、身体的時間というものをはるかに逸脱した資本主義的時計概念に取り憑かれた世界である。
ある視点からみれば、これは異常かつ由々しき事態とも捉えられる。
個人的価値観の相互関係による集合的価値観が社会であるならば、社会とは根本的に人間的なものであり、それを逸脱した場合、概念と欲と思惑の独り歩きになるからだ。
事実、根本である「人間としての身体時間」を忘れ我々は混迷の時代へと突入した。

折しもリーマンショック以降の世界恐慌から相次ぐ国の財政破綻、失業、デモ、内紛そして中国の台頭や政治家への不信感などによる末期的・仏教でいえば末法的不安感の絶頂の中で日本では東日本大震災が起き、とくに東北においてはあまりに甚大な被害を受けた。
もしこれを啓示的に受けとるのであれば、受けとれないことはない。
資本主義経済による金本位的価値観の中で現代の人間は明らかに方向を見失っている。
いや、考えられないのだ。
考える時間が持てないうえにテクノロジーの引き換えとして実感覚をなくしていき、教育の方向・方法さえも瓦解している。
皆、何か間違っているような気がしていながら考えられず見つけられず止まることもできない中で必死でもがき苦しんでいる。
そんな中、ARTはといえば商品性を増していき投機的理由から鬼畜的な資本主義速度に次々と呑まれていった。
それは商品としての速度だけではなく、芸術の価値観さえも揺るがした。
あろうことか提言をするはずの表現の世界においても資本主義の速度には対抗の術を持たなかった。

そして我々は速度と引き換えに歴史を失った。
連面と紡ぐように受け継がれてきた概念・精神・思想的世界の過去は、もはや紡ぐ時間を失い現在の独り歩きになる。
それは、未来や新しいものがあたかも無から発生するかのように感じられる世界観を生み出した。
我々は情報により突然あらたなテクノロジーや政治家による国家の提言を知る。
そこには連面と受け継がれてきた過去がない。
生活的浸透性の速さは必ずしも精神的な浸透性と比例するものではない。
目に見える事象的にそれらが組み込まれたのだとしても、ただ違和感が増えただけともいえる。

そもそも無から有へは発生ではなく変転である。
間違っているのならば立ち止まり考えなければならない。
提言は批判的視点からしか生まれない。

東日本大震災で顕著になった原発の危険性や矛盾、政治家や責任を持つべき人間達の怠慢、他人同士による相互扶助の優しさと大切さ、命、死生観。
それらを踏まえ、原点回帰が謳われるのは必定だ。
もともと「間違っているような」感覚の中で生きてきた人間達にとって東日本大震災による地表の瓦解は表面的価値観の瓦解をも示唆している。
あまりに偶然に我々は考える猶予を与えられている。
日本の在り方と世界の在り方との不可思議な関連性を意識せざるを得ない。
なぜなら我々は世界でもただ一つ、なかば隔絶された文化史を持ち、その中には極致的な人間美としての武士道がある。開国当初、世界は日本を絶賛し、憧れ、模倣した。
しかし、日本もまた西洋に焦がれ自ら進んで呑まれていった。
また、我々の国は唯一原爆を落とされた国であり、今またチェルノブイリ並の放射能被害を抱えている。
鬼畜的な世界の在り方は日本の在り方でもあった。
原発を推進する先進国においての放射能被害は他の推進国の末路を示唆している。

日本は世界を体現している。

東北の再生から、我々はまた過去を取り戻そうとしている。
再生は過去と現在を繋げる裁縫的作業だ。
それは、現在の我々が忘れかけ欠けていた、より善き未来へ向けての必要不可欠な作業である。

日本は今、偶然にも「止まっている」のだ。
止まっているということは、考えられるということだ。
我々はまた日本が回復し、走り出す前に十分に気力を整え万全な備えをしなければならない。
日本藝術は、じきに走り出す日本に先駆けて新たな「在り方」を提示しなければならないと考える。

今、日本は皮肉にも世界の歪みとして色々な方面で注目されるホットスポットになっている。
世界は日本の提言を待っている。
新たな啓示を日本に求めているのだ。

我々はただの原点回帰ではなく、「あるべき未来への原点回帰」をしなければならない。
原点を探り個を得、多様性を掲げた時ようやく本来的な意味でのグローバリズムに辿り着けるのではないだろうか。
グローバリズムは全ての事象を単一的に染め上げることではなく、多様性が個に浸透することであると考えるからだ。

藝術においては、今の懐古趣味的な和様では未来は語れず社会的提言には成りえない。
藝術で提言をするには、藝術が鑑賞者を提言に導く装置でなければならない。
原点回帰の視点で見れば、かつての藝術は装置としての機能を十分に持っていた。
藝術が在る場所には必然性があった。
私は「あるべき未来への原点回帰」をコンセプトとして挙げる以上、作品を「歴史的現在年としての日本」へと導く装置としたい。
それは、奈良の浄瑠璃寺や京都の平等院鳳凰堂にみられるような、極楽浄土への誘導装置の見立てである。
世界は個人的時間の蓄積による、記憶の世界に始まり身体的自然選択による結果へと帰結し、土へと還る。
土は本質の象徴である。
それは個人的記憶をも取り込み、「歴史的現在年としての日本」そのものを体現している。

在るべき世界を探すため、真実を、本質を探す旅を続けたい。

より善き未来を生きるため。

2011年5月29日日曜日

端的かつ大枠的な指針の明示

現代を語るうえで重要な要素は時間の速度だ。
しかし、「速さ」は目で見て捉えづらい。
目に見えないようなものは対比を用いて逆説的に明示するほかはない。
人間は知覚世界で生きている。
そして、その知覚世界は言ってしまえば思い込みだ。
人間の知覚世界は捉えた世界とその受け手とのめくるめく相互関係の結果だ。
無論、生まれてから一生一人で生きていないかぎりその知覚世界は他者の知覚世界ともめくるめく相互関係を起こしている。
しかし、それらは概念的なもので、それすらも私の思い込みだとも言える。
しかし、それが私の捉える世界である以上、私はそれを明示するほかはない。
そして、その明示の仕方は逆説的にというほかはないということだ。

2011年5月22日日曜日

NHKスペシャル「鯨と生きる」をみて。

僕は日本の捕鯨とシーシェパードからの鬼畜的な攻撃についてずっと関心があっ
た。
THE コーブのような一方的なプロパガンダ映画など見たくもない。
シーシェパードの強みは隠し撮りなどの陰惨な手口とYouTubeを使った情報拡散力
だ。
陸続きの人間達独特の、侵略と土足で他人の国にあがりこむことに何の良心の呵
責もない感覚は観ていて嫌悪感以外なにも湧いてこない。
そもそも我々は他人様の事情に感情的かつ主観的な物事の捉え方を押し付けるこ
とを好まない。
いや、少なくとも僕はそうだ。
僕の正義や生き方は僕の範疇になるべくとどめたい。
表現と押し付けは直に繋がっているようでもあり、相反したものでもあるのだ。
思想とはそんなに短絡的で稚拙で浅いものではない。
シーシェパードはどうにもそこの感覚が欠落しているように見受けられる。
手段はあまりに野蛮かつ下卑ていて同じ脳を持った生物だとは思いたくないほど
だ。

鯨漁は日本の伝統的な当たり前の文化だ。
失礼かつ無神経な外国人に一方的な言及をされるいわれはどこにもない。
なぜ彼らはこんなにも傲慢なのだろうか。
日本は戦後からしてあまりに自国のアイデンティティーを傷付けられ踏みにじら
れすぎた。
日本を語るのであれば、まず前提として日本を正確に捉えてからというのが、と
るべき当たり前の立場ではないのだろうか。
シーシェパードのあまりに傲慢で挑発的な態度は頭にくるのを通り越す。
むしろ人間存在の戦争との精神原理を見せ付けられたようで、その一方的で無意
味な暴力にかなしくなった。
「かわいそう」なのはイルカやクジラではなく漁師達だ。
漁師達に責任は何もない。
先祖代々当たり前のように漁をしていただけなのに、ある日突然わけのわからな
い外国人に精神的な嫌がらせと妨害を受ける。
反捕鯨団体の、潤沢な資金を武器にしたいきすぎた言動が目に余る。
そして、国の意地をかけない政治家や民衆に哀しさを覚える。
我々日本人の日本文化をなぜ日本人が護らないのか。
漁師を挑発し、怒る瞬間を捉え都合よく世界に報道し漁師達の気持ちを傷付ける
外国人達のどこが正しいのだろうか。
人の営みや文化をただの感情論だけで語るのは思想的に高次元なことなのか。
いきすぎた言動は止めることができないのだろうか。
食文化を虐殺というのはあまりに押し付けがましい。
我々は貴重な蛋白源を牛や豚のかわりに食しているのだ。
一般的に豚や牛や鳥に比べ、市場や家庭に出回ってはいないが少なくとも捕鯨を
する地域での何千人もしくは何万人の人々にとっては今も貴重な蛋白源であるこ
とにはかわりない。

こういったことに対して、僕らには一体なにができるのだろう。
3.11以降、日本の資本とメディアの関心は被災地に一気になだれ込んだ。
そのスピードと煽動力はまさに一丸となって動いた結果である。
しかし、東北の再生と同時に捕鯨文化が語られることはない。いや、日本の数々
の絶滅危惧文化が震災並に語られることはない。
断っておくが、国が一丸となって再生に向かうのは何一つとして悪いことはない
。
しかし、なぜ文化は同じように語られないのだろうか。
目に見えて町が消え多数の人が困り経済への打撃が無ければTVも新聞もラジオも
文化人も芸能人もスポーツ選手も気にすらしない。
私達の嘆かわしい日本は原発と政治家だけじゃない。
我々国民の感受性の衰退と無関心の蔓延こそが一番の悪である。

2011年5月16日月曜日

造ること・日本人であること

僕は何かを特別視することは嫌いな質で、意図的に避けてきた経緯もあるが、心
情的に赦し難いものがある。
なんにせよある種の特別な目線というのは物事の発展性を妨げる。
全ての事象はこだわることなく、総体的かつ微細に語られるべきである。
より良き未来を想って。

しかし、否応なしに僕は特別性を認めることになる。
しかも一番自分が特別視したくなかったことである。

それは「造ること」。

創ることとは微妙に異なるこの造ることとは、言ってしまえば手仕事感覚のよう
なものであるが、それは小手先な事象ではなく宇宙まで辿れる創造だ。
「一個の有機体は、それが存在するためには全宇宙を必要とする」ならばそれと
て自明の理。

なぜ造ることが特別であるのか。
それは、造ることは造ることでしか理解できないからだ。
まるで屁理屈のように聞こえるこの理屈は、これ以外の言葉では表せない。そし
て、おそらくその間にある壁は同じような言い方ができる全ての事象のなかで最
も分厚い。
造る者と造らぬ者には、圧倒的な差異があるのだ。

僕が体感したのは、『伝統と現代』というシンポジウムである。

中国人のアーティストと批評家の対話は僕を久しぶりに興奮させた。
かたや美術から国のアイデンティティーを語り、かたや美術において東洋と西洋
に垣根はないと決して典型的ではない論調で語ってくれた。
僕の今の心的状態とすれば、実は前者の方によっている。
1年半ほど前はガチガチに後者である。
日本人という言葉それ自体が古すぎると考えていたから。
しかし、僕は自分の作品を造ってからはもっぱら歴史的現在年としての日本人で
あることに固執している。
なぜなら、造ることは自分のアイデンティティーやバックボーンに言及していく
とで、そうなると「日本人であること」は絶対に無視できないからだ。
アイデンティティーが「人間である」ことにはできない。
芸術を人間でくくれない。
「人間である」ではあまりに広義で個人に言及できない。
ならば藝術家の事故顕示欲は如何に消化すればよいと言うのだろうか。
芸術・個人と風土と歴史は切り離せない。
僕は現代美術を考えて制作しているけれど、僕を置くフィールドは美術ではなく
日本に置きたい。
どんなに不毛で無謀でも。
2年前、実際に僕は早く日本から出なければならないと考えていた。
これからは逃げたもん勝ちだと。
国を捨てねば自分が潰されるし、もはやこの国に護る価値も誇りも持てないから
。
今でもその気持ちが完全に払拭できたわけではないが、諦めと同時に覚悟を持っ
ている。
なぜなら僕はどうしようもなく日本人であるからだ。
それはきっと誰でも当てはまるであろうことで、皆どうあがこうと時代と風土と
歴史からは逃れられないのだ。
金髪、八頭身、青い目、自信に満ちた態度を諦めて日本人が日本人たろうとすれ
ば、この未曾有の問題も解決の糸口が見えてくるのではないかと僕は想う。

2011年5月8日日曜日

目に見えない実感覚 存在と記憶・時間と蓄積

全ての存在は時間を孕む。
私は世界を時間の積み重なりと捉える。
現在とは過去の連なりである。

まず、蓄積という手法を用いて私的な時間の検証をする。
なぜなら、時間とは目に見える蓄積でしか実感を伴わないからだ。

連続・反復性に制約された行為により、ある純然たる現象が生まれる。
その現象を媒介し、私の時間を蓄積させる。
一つ一つの現象が意味や表象性を持ってはならない。
そこには瞬発的で即物的な時間がコピーされるのみである。
私はこれらの行為によって自己を解放し、他者はそこに自身を見出だしうる。
正確にいえば「モノ」は作品ではない
行為を蓄積すると必然的に「モノ」になる。
それが第三者からは「作品」に見えるのだ。

結果、即物的な形として目の前に表出された時間の塊は「人間存在」と「時間」
の繋がりを明白にしえた。
私の身体的時間感覚の積み重なりを確認した。

現在においての身体的・即物的な時間を確認できたので、次に過去としての「記
憶」について考える。
そして一つの仮説をたてる。

「我々は実際的な記憶としての過去を引き継いでいる」

例えば、我々は昭和を知らない。
知らないのに昔の看板や三丁目の夕日や歌謡やCMを見て「懐かしい」と思う。
亜細亜の雰囲気・由緒ある神社仏閣の雰囲気に触れたりするのも同様に「懐かし
さ」を感じる。
それはつまり、我々はすでに「知っている」のだ。
我々の中になぜか知らないはずの「記憶」がある。
その「記憶」はいつの記憶だろうか。そしていつ我々の中に組み込まれたのだろ
うか。
例えばDNA。
その「記憶」は、DNAの中に隠され受け継がれたものではないだろうかと考える。
だから我々は見たことのない雰囲気を面影として知っている。
人体をDNAの入れ物だと考えると、DNAはその時代ごとに入れ物から情報を受け継
ぎ、その情報を踏まえて次の入れ物から次の時代の情報を取り込み、それを繰り
返していく。
その過程で必然的な取捨選択が行われ、例えばキリンは首が伸びて象は鼻が延び
たのだとダーウィンは言う。
では、DNAに性格はないのだろうか。
もしあるとすれば、それはいわゆる「前世」に繋がる。
受け継がれるものに「偏り」が生じるとすれば、その偏りは癖であり人格である
からだ。
さすれば我々は皆、誰かであったのだ。
と、仮定できる。

私は私の記憶に順ずる。
人それぞれであるが、皆自分ではどうすることのできない気性や性分というもの
がある。
私は白か黒かはっきりしていなくては気に入らないし、かといって柔軟性がない
のも気に入らないし、悩むのはよいが、優柔不断は嫌いだし、腰が低いのも嫌だ
けれども居丈高なのも嫌なのだ。
こうしてみると、ただの我が儘な人格だけが浮き彫りになるような気がするが、
実はそれぞれここだという明確な線引きが存在する。

私はそのような自分を考える時に、自分はやはり借り物・仮染めなのだと考える
。
この気質は生まれもってのものであって、どうすることもできない誰かのもので
あると。
その感覚を私は「記憶」と認識する。

人間の神の概念の発生の説話の一つに、人間はもともと右脳と左脳が別々に働い
ていて、そのマインドギア(気持ちを託せる道具)として神を創造したという話が
ある。
私にとっての記憶とはこの場合の神と同義である。
私の意識を統括するために一番上に置くマインドギアとしての意識。
しかし、その意識は現在的概念としての神や宗教としてての神とは完全に異なる
。
「記憶」であるが故にそれは厳密かつ確かな過去を包括する。

我々は常に個人的記憶と集合的記憶の中にいる。
集合的記憶とは歴史のことだ。
それを失うと、あるいは書き換えられると、我々は正当な人格を維持できなくな
る。
私の作品の重要なファクターの一つでもある「記憶」とは、おそらく私以外の人
間にも共通するであろう、地底に流れる水脈のような無意識に覆われた意識のこ
とである。
それを読み取りやすく顕在化させたい。
見えるようにしたいのだ。

「我々は既に知っている」という考え方に即して観ていくと、我々は村上隆が少
なくとも唯一無二的な正解ではないことを知っている。
日本が漫画だけの国ではないことを知っている。
しかし、日本は明治維新と戦後と80年代で3度に渡り分断されているうえに、金融
のグローバル化、相継ぐIT革命、実態のわからないグローバリゼーションの波に
すっかり様相を変えてしまっていることも事実だ。
しかし、私はそういった事象に対し決して否定的な目で見ているわけではない。
むしろ、行き過ぎたところでちょうどよいとさえ思っている。
現代から中世を偲び世を儚んだところで何もならない。
海外から日本へ帰ってきてからあらためて発見する日本の「良さ」などには興味
がない。
如何にして歴史的現在年としての日本を捉えるか。
それは、日本を「方法・面影」として捉えることにある。

村上隆が西洋的合理主義と資本主義経済にコテコテに固められたアートの局地的
な末路を示してくれたおかげで、我々はようやく「原点回帰」ができるのだ。
東日本大震災による原発事故も、タイミング的に見れば決して無関係ではない。
今、再び世界の在り方が問われている。
そして、人間の在り方が問われている。
それは国や個人も同様で、日本の在り方、あなたの在り方、私の在り方が問われ
ている。

私は本来あるべき地政学的見地と日本人の本来的にもっている感覚と東洋的観念
をもって集合的記憶と個人的記憶の融合極点を表出する。
それは、私としての私と公としての私の両方を考え、両方の交わる領域を探るこ
とにある。
その鍵となるのが「記憶」であって、公と私を遡ると日本から中国・朝鮮へ、そ
してインド、亜細亜、東洋へと辿り着く。
東洋を語らずして日本は語れず、日本を語らずば歴史的現在年としての日本=私
を包括する事象を語れない。
しかし、東洋は簡単には語れない。
もはや我々自身が忘れてしまい、語れる人間も絶滅危惧種並に少ないからだ。

東洋の扉を開くには如何にしたらよいのだろうか。
その答えは、実は我々のたいへん身近なところに鍵がある。
それは、漢字である。

漢字は言葉の意味を表しているのではない。
文字は言葉を記憶し、文字しか言葉を記憶しているものはなく、漢字はそれを体
現しているのだ。
漢字は甲骨文にはじまったものであるけれど、それを含めてそこには文字以前の
言葉の動向のすべてがあらわれている。
言うなれば、人間が求めた構想や憎悪などすべての動向が表れているのだ。
加えて、エジプトのヒエログリフやメソポタミアの楔型文字などの古代文字の多
くが廃れたが、その後に使用不能のものになっているのに比べて、漢字は古代の
そうした動向をいまもって蘇らせて、なお今日に脈々と生き続けている。その文
字はすこぶる「表意」に富んでいる。
そうだとするなら、この漢字をもってしか、もはや我々の東洋的原初の構想や祈
念や欲望や憎悪をふりかえることはできない。
いわば漢字は、今日の我々が失ったかもしれない多くの記憶を蘇らせる「時空の
方舟」である。
漢字はまさに四角い方形の姿をした「意味の方舟」たちだ。
その一字一字が古代の呼吸であり、古代の観念であり、古代の一挙手一投足なの
だ。
漢字は形をもつ表意文字であり、その形は漢字が成立した時代の人々の生き方や
考え方を具体的に示している。
むしろ、それぞれの文字はその当初の形をなお持ち続けながら、自らの素性を語
りたいと欲しているように私は感じる。

漢字を私のリズムの仲に取り込むことに、私は全く抵抗をかんじない。
私は鋼管を潰し鋼管に私自信を練り込む。
その純然たる現象性を蓄積し、私の身体時間を表出することで「私」(個人的記憶)
の時間を顕在化させている。
それに加え「公」(集合的記憶)としての、漢字に秘められた東洋の記憶をトレー
スすることにより、私は東洋と一体化する。
本来的な雰囲気を取り込み、呪能を意識し、神を感じる。
オカルトやスピリチュアルとのぎりぎりの臨界点に到達する。
私は私を創ることで提言をする。
己を空じることが本当の手段である。
それは、和歌や俳句の空じ方と同じである。
歌というものは「虚」から出ている言葉のつながりであり、そこにはなんらの実
体がないものだ。
歌とは有為転変のことで、「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現をたくしていく。
そんな「虚」を引き受けられるのは自分の心だけだ。
しかし、いざ歌ってみると、そこには文字がつらなり、言葉が見えてくる。
その三十一文字の言葉があらためて自分に返ってくる。
それを繰り返していると、歌と心はしだいに透けてくる。
そして歌ったときに見えていた景気だけが響くようになる。花鳥風月とはその「
景気の響き」なのだ。

これをわかりやすく言い換えれば、
私にとっての作品とは「虚」から出ている行為のつながりであり、そこにはなん
らの実体がないものだ。
行為からの結果とは有為転変のことで、「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現をたくしていく。
そんな「虚」を引き受けられるのは自分自身だけだ。
「引き受ける」という感覚の制作。
しかし、いざ構築していくと、そこには現象がつらなり、モノが見えてくる。
そのいくつかの集合的現象としてのカタチがあらためて自分に返ってくる。
それを繰り返していると、「行為」と「私」はしだいに透けてくる。
そして創ったときに見えていた景気だけが響くようになる。花鳥風月とはその「
景気の響き」なのだ。
いささか和歌と比べてすこぶる激しい響きではあるが、私の「東洋の提言」とは
このようなものである。

「東洋の提言」は一生の課題である。
原点に立ち返れば、「亜細亜は一なり」なのだ。


2011年5月3日火曜日

信ずるものは

皮肉ったり逃がすのでなく、真面目に正面から対抗する。

レディ・メイドはきれてる。
ポップアートもめちゃくちゃいい。

でも、やっぱり僕じゃない。
日本じゃない。

日本についてはあくまでも“感じ”だけど。

確かにマーケットは海外で、アーティストは如何なる形であれ海外に属する人の
ことだと思うけれど、やっぱり芸術はあるのだと思う。

アートの影に、アーティストの影に芸術はあるのだと思う。

広義ではやはり全人類的なものなのだから。
本来的には何も否定できないはずだ。
すべてが我々の愛しい子供たちであるはずだから。

資本主義のせいじゃない。
資本主義を扱う集団性が問題なんだ。
原発が問題なんじゃない。
ウランを扱う人間の質が問題なんだ。

世界は在るだけでなく、認識する側にすべてが委ねられている。

2011年5月1日日曜日

間接的な因果

僕がアル中にならない理由
僕が犯罪を犯さない理由
僕が破綻しない理由

それは心を決めた人がいるからだ

1日の終わりには、大体つかれて呪詛が身体を満たしている。
解決するでもなく心を逃がすために彼女を想う。
そうすると、悩んでいたことや憤懣が徐々に氷解していくことを知っているのだ
。

僕には覚悟がある。
当たって砕ける覚悟がある。
覚悟は決断と束縛を生む。
それを引き受けるのは自分だけだ。
引き受けた先には引き受けたことによる何かしらの結果があるだけだ。
ようは何が生まれるかもわからない卵を自分で生んで自分で温めている。
滑稽にも思う。
しかし、それが僕の生き方であり選択だ。

2011年4月15日金曜日

衝動

もう我慢できない。
感覚として成否はでているはずでしょう
なぜ揉める
利権か 
暴力団か 
政権か
これでもなお日和見を続けるのか
いつから日本は責任のとりかたを忘れてしまったんだろう
いつから日本は自身しか考えられなくなってしまったんだろう 
政治家諸君、少しでも責任や自負があるならば、それ相応の対応をすべきではないか
分っているのにできないなんて言い訳にはならない
自分の命を惜しみすぎだ
理不尽にも消え去った命をどう思う
思うどころか関東直下型でなくてよかったなどと思ったか
責任の取り方と誰がそれを担うか考えよ
腹が立つ腹が立つ
地震からひと月しかたっていないのにもかかわらず既に被災地とそうでない地域とで意識の差が明快になっている
その余裕面をたたき潰してやりたいような衝動に駆られる
ああ、腹が立つ
何に腹が立つ
東電と国とのあからさまに腹が立つ
それに準じるメディアに腹が立つ
あれでもなお反省の色なしか
日本がこんな状況なのに
家に帰れば広大な土地と潤沢な資金と温かいご飯と家庭が待っている
おめでとう
いつかそれらが泡沫の夢であると気づくでしょう
そうでもないか
腐りきっている
腹が立つ
放っておけない
1500人のデモに参加すれど報道は一切なし
責任感あるメディアは一切なし
嘆かわしきかな日本
哀しきかな日本
もはや日本人の精神は絶滅したのか
諦め嘆くしかないのだろうか
口惜しや、ああ口惜しや

教育とか宗教とかとか

電車の中で優秀そうな高校生くらいの子達が本を片手にその本の値段当てゲーム
をしてる。
そのうちそれにも飽きたのか、それぞれ読書をし出す。
近頃はますます本を読む若い人が減っているが、やはり優秀な人間ていうのは小
さいころからこんなもんなのかと感嘆する。
僕自信、今ほど本を読むようになったのはここ何年かのことなのだ。
兎に角、いきなりPS2なんぞ出して目の前の友人との会話もせずにゲーム中での世
界の共有がコミュニケーションになっている恐ろしい子らに比べれば、月とスッ
ポン雲と泥だ。

しかし、驚いたのは題名から察するに内容が経済についての評論本なのだ。
まぁ、人の読んでいる本にまで口出しをするほど下世話なことはないのだけど、
同じ時分に鼻くそほじってだらだらしていた自分に照らし合わせると、なんとも
異様な光景に見えたのだ。
僕は少なくとも高校生まではダニみたいな人間だった。実際に教師から「おまえ
みたいな奴をクズっていうんだ」とか、お節介にも教師から母親に「あんな子は
見たことがない、あの子はもう駄目です」と素晴らしい烙印を押されたこともあ
る。
しかし、自慢じゃないが見事なクズっぷりであったことも事実だ。

現在の日本人は、経済観念にはそこそこ明るい人が増えているような気はするけ
れど、肝心な存在に対しての言及がなされていないように思われる。
電車の中では経済書か自己啓発本かマンガ、小説がいいところだ。
僕が憧れる哲学や社会論や国学的な本を読んでいるような人達は見当たらない。
そんな中では存在がお金と同義で、生きることがお金ありきで、万物の起源の概
念さえもお金にしてしまったように感じられる。
欲や夢や希望や主張や表現や思想や宗教、宇宙や天体や地球や自然や社会、それ
ぞれの起源や歴史や縁起、そしてそれらのど真ん中を貫く時間とは、全てが密接
に繋がり、全てがばらばらで語ることができるほどの密度を持っている。
これでも唯の一部であり、大体だ。
世界は物理的にも概念的にもあまりに膨大で多様だ。
確かに世界を捉えるための立脚点として一つの柱をたてることは基本的なことだ
が、それを政治や経済に求めるのは、あまり上手なことだとは思えない。
政治だって経済だって、所詮は借り物なのだから。

物事の根本を考えなくなったようにみえる日本人の背景には、教育が一つの大き
な要因を占めているように感じる。
家庭の教育がお粗末で、国が定めた学校教育がお粗末で、教師に思想がなく、思
想は闘争的概念を持たず、宗教は政治と経済にとって変わられた。

まず、家庭での教育とは新渡戸稲蔵が武士道に記しているように、家庭の中に自
然に浸透し受け継がれてきた、決して理屈では語り尽くされない精神規範や行動
規範のことであると思うのだけど、核家族なんて(ニートにしかりなんでも名前を
つけるとそれっぽくなってしまうことも問題ではないだろうか)考え方ができてし
まい、個人の小さな自由と引き換えに脈絡と繋がれてきた日本的な雰囲気を簡単
に破壊してしまった。
学校教育については、勘違いしたグローバリズムとシステマチックの波に押され
るようにして、学校が会社化してきて教師が点数評価され親の発言力が増し裁判
だのスキャンダルだの表層的でとるにたらない事象にビビって、教師が皆阿呆に
なってしまった。
そんな教師達に思想があるわけもなく、対外的な評価もあるし課せられた義務に
がんじがらめになっている。
教育者にも自由はないのだ。
大体、国が定める学校教育は一体なにを目指しているのだろう。
優秀な人間なんて育つはずもないし、己の育った環境さえ理解できない。
教科書どおりにやったところでせいぜいそれぞれの基礎知識が身に付くだけだ。
漢文や古文の奥に潜む世界や現代文の社会的背景や作者の個人的な心情理解、数
学や物理に潜む情緒、英語と戦後教育とグローバリズムと合理主義や地政学、東
洋的価値観の推移と仏教伝来の道と世界的な哲学の飛躍と現代の息吹、人間の所
業。

これらは基礎教育ではないのだろうか。
観念や概念を育てることで知識は勝手に付随してきはしないだろうか。
現在日本の知識先行型教育モデルは正しいのだろうか。
また、その見直しはタブーであるのか。
きっと何かしらの政治的理由があるのだろう。
しかし、そこで出てくるのが個人の思想である。
そこで重要なのが教育者としての思想なのである。

しかし、思想については個々のものであるので、その是非までは僕の範疇にはな
い。

さて、宗教についてだが実は僕は現在の宗教については皆目検討がつかないし、
興味もないし、大嫌いだしおぞましい。
というと、怒る人も分からない。
思想や宗教は個人の自由であるなら怒ることもないだろう。
他人に押し付けたいという利己的な欲求があるから否定されて怒るのだ。
勝手にやっていればいいじゃないか。
それで何か自分にしか分かっていないようなことがあるならば、勧誘ではなく主
張すればよいではないか。
声高に。
選挙の街頭演説のように宗教が街頭演説しちゃならんなんてことはないだろう。
キリスト教はよくやっている。
まぁ、録音のだだ流しだけど。
同じ意見や価値観を持った人達が一所に集まってモゾモゾと頷き合っているなん
て、それは仏陀やキリストの目指すところの宗教ではないのではないだろうか。
思想や宗教は政治に受け入れられ利用されないかぎり、もっとパンクなものなの
ではないだろうか。
世にその真髄の是非を問う。
その行為自体に対してはまず分け隔てなく発言の場が与えられる。
そういったことが本来的なグローバリズムの一端ではないだろうか。
そういった寛容さを育むことが教育の本分ではないのだろうか。
思想や宗教の行動規範や精神規範は本来的な意味を保ち得ているだろうか。

はてさてまたくどくどと偏った意見を書いてしまった。
くどいのはよくないことは知っていてもくどくなってしまう。
これは性格でしょう。
しかし、誰も読んでいないであろうことを願い、この場は僕の理論実験や頭を整
理するための吐き溜めとして使っている。

誰も僕の文を読みませんように。

ではでは

2011年4月11日月曜日

記憶

例えば、我々は昭和を知らない。

知らないのに昔の看板や三丁目の夕日や歌謡やCMを見て「懐かしい」と思う。
それはつまり、我々はすでに「知っている」のだ。
我々の中になぜか知らないはずの「記憶」がある。
その「記憶」はいつの記憶だろうか。そしていつ我々の中に組み込まれたのだろ
うか。
その「記憶」は、DNAの中に隠され受け継がれたものではないだろうかと考える。
だから我々は見たことのない雰囲気を面影として知っている。
人体を唯の入れ物だと考えると、その時代ごとに入れ物から情報を受け継ぎ、DNA
はその情報を踏まえて次の入れ物から次の時代の情報を取り込んでいく。
では、DNAに性格はないのだろうか。
もしあるとすれば、それはいわゆる「前世」に繋がる。
受け継がれるものに「偏り」が生じるとすれば、その偏りは癖であり人格である
。
さすれば我々は皆、誰かであったのだ。
現実的に。
個人的な想いであれば、僕は孔子がいい。名前だけに。
前世は決してスピリチュアルなんて名詞で誤魔化されるものではない。
「スピリチュアル」は大事なものを隠してしまう。
だから僕は世の中的にスピリチュアルとされている事象についてはいくらかの興
味があるが、「スピリチュアル」という言葉は大嫌いなのだ。
僕は僕の記憶に順ずる。
人それぞれであるが、皆自分ではどうすることのできない気性や性分というもの
がある。
僕は白か黒かはっきりしていなくては気に入らないし、かといって柔軟性がない
のも気に入らないし、悩むのはよいが、優柔不断は嫌いだし、腰が低いのも嫌だ
けれども居丈高なのも嫌なのだ。
こんなことを言うとひじょうに身勝手なめんどうくさい人間性だけが浮き彫りに
なるのだが、実はそれぞれここだという明確な線引きが存在する。
僕はそのような自分を考える時に、自分はやはり借り物・仮染めなのだと思うこ
とがある。
この気質は生まれもってのものであって、どうすることもできない誰かのもので
あると。
その感覚を私は「記憶」と名付けた。

人間の神の概念の発生の説話の一つに、人間はもともと右脳と左脳が別々に働い
ていて、そのマインドギア(気持ちを託せる道具)として神を創造したという話が
ある。
僕にとっての記憶とはこの場合の神と同義である。
僕の意識を統括するために一番上に置くマインドギアとしての意識。
しかし、その意識は現在的概念としての神や宗教としての神とは完全に異なる。

「記憶」であるが故にそれは厳密かつ確かな過去を包括する。
よって僕は自分の中にあるものをこねくりまわす時は、直接それらの歴史に手を
触れようと意識する。
それはら決して手に触れることはできないが、なんとなくそれらが現在の何を示
唆し、何を未来へ受け継ぐべきなのかを訴えているように感じるのだ。

僕は僕の意識、言ってしまえば勘で動いている。
その勘を勘違いしないように僕は様々な本を読み、世界を解読しようと日々考え
る。

僕の作品の重要なファクターの一つでもある「記憶」とは、おそらく僕以外の人
間にも共通する、地底に流れる水脈のような無意識に覆われた意識のことである
。
それを読み取りやすく顕在化させたい。
見えるようにしたいのだ。


2011年4月10日日曜日

そう言えば

橋本仁は本名ではない。
なぜわざわざ偽名を使うのかというと、芸術は本名では負いきれないからだ。
僕はアーティストとしての人格を持つ。
それは僕のつもりとは裏腹に現状とかならずしも一致するものではない。
しかし、僕が橋本仁として在る時はアーティストとして在る時だ。

偽名はあくまで偽名であっても、名である以上人格を持たなければそれは名にな
らない。
人格を持たない名はただの現実逃避だ。
人格をつくることは、すなわち新たな人格を再構築することである。
なぜ新であるものが再構築になるかというと、たとえ偽名のための仮人格とはい
え、全くの別人を設定してしまっては意味を持たないからだ。
偽名を使う以上、それは社会の中でポジティブに作用させなければならない。
つまり、実生活からの逃避が目的ではないからだ。

マインドコントロールとは恐ろしいもので、化粧やお洒落をしないと外へ出られ
ないように、反対に化粧や服装や髪型や髪の色などによっては普段の自分からは
考えられないような行動をとることもある。
それはサングラス一つとってもあることであるし、人間は儀式的に日々気付かぬ
マインドコントロールをしている。
そしてそれは現実逃避にとって変わることが少なくない。

もちろん僕も例外ではない。
僕も日々マインドコントロールをしている。
僕にとっての人格発動スイッチのキーは、大きくはコンタクトレンズと眼鏡だ。
次に朝シャンと寝癖。
あとは場面場面で作業着やバイト着だったりする。

そういった、小さな儀式的マインドコントロールにより起動する人格が実生活の
中に存在するように、社会の中での人格を起動させるのが偽名なのだ。
これはハンドルネームなどという小賢しい横文字とは根本的概念が全く異なる。
偽名は役であり、憑依であり、見立てである。
僕は芸術家としての自分と芸術家以前の自分を偽名で分かつ。
俗っぽい言い方をすれば、オフィシャルとプライベートを分けるという言い方も
できるが、微妙にニュアンスが異なる。

橋本仁を負い、そこに芸術を負わせることで、僕にとっての芸術は成立する。
今の僕にはこれ以上は言葉にできない。しかし、そこにはまぎれもない必然性が
真水のように流れている。

2011年4月9日土曜日

ヤン・リーピン クラナゾ より

ヤン・リーピンのクラナゾを観た。
物凄かった。
自分が亜細亜人であることを誇りに思う。
そして、自分の中に亜細亜・東洋の血が流れていることを強く再認識した。
もはや日本からは芸術において傑物は出ないだろうが、同じ亜細亜の朋輩がこの
ような亜細亜を提示してくれたことを有り難くもあり、悔しさもある。
こんな時、岡倉天心の茶の本の冒頭にある、「亜細亜は一なり」を思い出す。
そして、もはや日本の活路は日本を方法化させる以外にはないと感じた松岡正剛
を思う。
もし、日本人に日本の知識・理解があり、正しい価値基準と判断力があったなら
、もしくはそのような教育がされていたならば、日本は日本として再生できたで
あろう。
哀しくも日本人の良い面でも悪い面でもある「ある種の柔軟さ」が仇となった。
しかし、良くも悪くも思想統制の厳しい中国からは、良い例としてかくも美しい
傑物があらわれた。
もはや日本を嘆くまいが、やはり日本を思うのだ。

しかし、圧巻だった。
ややバタ臭い感じの演出もあったが、それが「世界基準」というものなのだろう
。
西洋人に東洋を真正面からぶつけても見向きもされず、馬鹿にされるか生意気だ
と潰されるかだ。

あくまでも西洋人は合理的思考性の自信を崩そうとはしない。
「自分達が一番だ」もはや強迫観念化しているこの意識に亜細亜は迫害され、日
本は侵略された。
戦争の勝ち負けと戦勝国の思想の押し付けは日本にもかなり大きな責めがあるの
で、それは言いっこ無しになってしまうが。
しかし、明治維新後の西洋への爆発的な憧れに始まり敗戦から平成へと、今や日
本はもう二度と昭和までは確かにあったであろう、日本の匂いを嗅ぐことはもう
できない。

すぐに話がこういった方向にずれがちだが、とにかくヤン・リーピンは凄かった
。
ヤン・リーピン自身も勿論凄まじいのだが、やはりチベット仏教の香りというか
、信仰と愛と土着的な文化と何より亜細亜の各国で急速に失われつつある東洋の
香りがそこにはあった。
老婆と巡礼の旅にでて輪廻までをも体験して、僕らも見終わって生まれ変わった
のだ。
なにより舞台に信仰が生きていた。

しかし、クラナゾが素晴らしければ素晴らしいほど、我々が大きな問題を抱えて
いるであろうことが浮き彫りになる。
それは、チベット仏教が題材にされること自体がもはやチベットにおいても急速
に、合理的資本主義やグローバリゼーションの荒波が押し寄せてきているという
ことだ。

もはや東洋人だけの問題ではない。
今や世界の在り方が問われている。
原発の問題は日本だけの問題じゃない。
人間の在り方が問われている。

ヤン・リーピンのクラナゾも、素晴らしく荘厳で美しくセクシーでエキゾチック
だったが、世界の観客に対し厳しい問いを投げかけているかのようでもあった。

2011年4月7日木曜日

警鐘が聞こえる

実感がなくなる

警鐘がなる

僕のたかだか26年間において、実感覚の喪失が一番顕著な思い出として例をあげ
るとすれば、それは駅の改札が自動改札機に変わったことである。
夢の国ディズニーランドも同様である。
そして今、本がなくなろうとしている。
いかに本が大事であるか。

政治家は由々しき事態とよく口にするが、何が由々しき事態を招くかを分かって
言っているのだろうか。
これでは結果に対しただ「由々しき」をつけただけにすぎない。
「由々しき」は由々しき事態が起こる前に、それが既に由々しきことであるとわ
かっていなければ世の中はたいへんなことになってしまう。
事実たいへんなことになっているし、本がなくなろうとしているこの現状は、既
に由々しき事態だ。

僕は装丁やデザインという目線や印刷・出版業からの目線で語られる本の電子化
についての警告も大事だと思うが、一個人的には本と人との関係において重要な
のは、ページをめくることにあると考える。

触ることで実感が生まれ、目の前の物質を視覚と嗅覚と触覚で認識する。
そこから記憶や時間感覚までもが刺激される。
僕は古本屋さんや本、とくに古い本の匂いが好きだ。
そこに「懐かしい」を感じる。
こういった実感覚が、身体的スピードを越えた物凄い速さでどんどんと失われ、
時代と共に怠惰と速さにとって替わられていく。

速いことがそんなに大事だろうか。

楽を越えて怠惰に足を踏み入れてはいないだろうか。

考える。
耳をすませる。

警鐘が聞こえる。

明治維新から、戦後から、もしくは1987年から、僕には分からないが、どうやら
僕の生まれるずっと昔から鳴りつづけていたようだ。

このままではいけないと。

昔予備校でデッサンをしている時に先生が言っていた。

『行き過ぎろ、行き過ぎて戻れ、行き過ぎて戻るとちょうどよい。そうして人は
適当な感覚を創るのだ』と。

それ以来、作品は『ちょうどよい』がいいと思う。
『どうでもよい』でも『なんでもよい』ではなく、適材適所、適格に、適当に。

時代と作品の関係を感覚的に言えば、まさに『ちょうどよい』なのだ。

世界中の多くの人間達が、社会や世の中が『前に進まなければならない』と思い
込んでいる。

しかし、時間は勝手に更新されていく。

概念や価値観は「見直される」ことがあってもよい。

それに順じて変化できるもっとフレキシブルな集合的価値観の育成は不可能なの
だろうか。

僕は変化を受け入れられないのは、ただ不安感が強いとか怠惰であるだけだと思
っている。

変化はどこにでもある当たり前の現象だ。
砂漠の砂は一日として同じ表情の日はない。
昨日あった山が翌日にはごっそりとなくなっている。

今、人類の歴史の中で何度かあったのかどうかはわからないけれど、またそもそ
もの根本や根底を探るような動きや価値観が総体的に出てきてもよいのではない
かと僕は思う。

僕が製作のテーマに掲げる実感覚とは、受け手の感覚や記憶をいかに反応させる
かにある。
僕は僕の実感覚を作品を媒体にして訴え続ける。
本来的な人間の身体的な様々のサイズを伝えたい。

作品では伝わらないのか。
では、言葉だったら少しは考えてくれるのだろうか。

松岡正剛が日本は小さくなるべきだというように、我々はまず極小な生き物であ
るともう一度認識すべき時がきているのではないか。
高村薫がこれからは仏教だというように、我々の存在は小さくもあり大きくもあ
るという価値観を知るべきではないのだろうか。

僕はこれからも人間の本質を考える。

もっと分かりやすく、鮮明に。

2011年4月3日日曜日

古い見方

今日、インターネットを初めて良いものだと思った。

便利であった。
恩恵を受けた。

調べものをしたのだ。

調べものには最適だとは聞いていたが本当だった。

なんでも載っている。

気がした。

ただ一つ、韓国やタイでは整形が当たり前だと聞いていたので、宗教上での是非
が知りたかったという下世話な調べものをしただけなのだが、まさか 整形 宗教
だけでポンッと答えが出てくるとは思わなかった。

僕以外にもこんな下世話な質問をする人間がいるようで、Yahoo!知恵袋というサ
イトで同じ質問をしている方がいらっしゃった。

目に見えないのに感謝する。

変な感じ。
何やら間違っているような。

しかし、疑問が解消する方が有難い。

インターネットやTVは本当に僕を悩ませる。

インターネットやTVに実感覚はなく僕自身は実感覚のみを信じているのに、やっ
ぱり恩恵を受けたり必要だと思う局面があるのだ。

まぁ、頭を柔らかくしてフレキシブルに対応していけばと納得するのは簡単なれ
ど、そこをコネコネ考え続けるのが僕の芸術に対する姿勢なので、答えを性急に
せず暫定的に現状についていこうと思った。

2011年4月2日土曜日

「知っている」「わかっている」から

僕は松岡正剛が好きだ。しかし、松岡正剛を知っているかと親しい友人や初対面
でも気に入った人に尋ねてみるとなかなか知らない。そして、教えようと思いネ
ットで見ることができる千夜千冊という歴史に残る日本人の重要な無形文化財と
もいえる偉大な仕事の話をすると大体皆しっている。
これはなんだろうか。
千夜千冊は知っているというのは知っているだけで、これは単なる情報としてた
だ名前を知っているというだけなのだろうか。
僕は常々『知っている』と『わかっている』とを分けて捉えている。
そうした方が生きやすいのだ。
しかし、情報社会というのは困ったもので、『知っている』ことは『知っている
』としてその数量は多ければ多いほど善しとされるのだ。必ずしも『知っている
』から『わかっている』に転ずるプロセスは重要視されない。『知っている』単
体である価値やステータスが生まれている。
これは好みであろうが、僕はこうした世界観や価値観が嫌いだ。
僕は本を読むのが好きで、勉強が好きだ。
しかし、勉強が好きなのは知識が増えるから好きなのではない。
世界を広げ、密度を増すから好きなのだ。
僕の頭の中では、ある時期から僕自身の再構成が始まっている。僕自身の再構成
と連動し、その存在を取り巻く環境の再構成から宇宙の再構成までがここ8年来の
僕の仕事というか趣味である。しかし、それはいずれ仕事に繋げなければならな
い。
僕はめったに傷つかないし、めげたり落ち込むことが少ない。
それは忘れることが特技なうえに、僕にはもう一つの目下建設途中のどでかい宇
宙があるからだ。
僕はまず僕自身の存在を作り、それを社会の中で生かさなければならず、そうし
てやっとそこから環境を突き詰めていって宇宙に届かせなければならない。これ
は全くスピリチュアルなんてくだらない話ではない。因みに僕はスピリチュアル
という言葉が大嫌いだ。僕が自分の脳に遊ぶのは、それが僕にとって『生きる』
ことと同義であるからだ。酸素を吸って二酸化炭素をだし、食物を身体へ入れて
排便する。それと全く同じなのだ。そこでは、ただ『知っている』だけでは何の
厚みもなくただただ僕の世界に放たれ霧散していくだけなのだ。
僕はテトリスのように厚みのあるものを積み上げなければならない。
積み上げるだけでなく、厚みをさらに増し、世界観として過去も導入しさらに地
中奥深くまで土壌を作りマントルを発生させ化石も埋め込まなければならない。
ダイヤモンドは生成されようがどうでもいいが、金・銀・銅・鉄・亜鉛は生成さ
れなければならない。恥ずかしいことに僕も金属をかじって金属を好きになって
しまったからだ。以上僕の話はイームズのパワーオブテンを見ればわかる話であ
る我々の物質的な世界は『私』から宇宙まで離れていくことで存在の一番外枠へ
言及していくことになるが、私の中ではまず一番外枠の宇宙を私と同義としてそ
こから逆の流れとして世界が始まる。
言葉としてうまくかけているかは分からないけど、あくまで全部イメージです。
フィクションならフィクションでもいい。
それが何であれ僕には必然性を伴うリアルであることにはかわりないのだから。

芸術と社会性

芸術に社会性が無ければいけないのかを考える。
芸術はしばしば才能を用いて語られる。
才能とは何か。
才能とは何のためにあるのか。
基本的な考え方として、生物的にある種の才能はその種のためにあると考える。
人の才能は人のためにある。
才能をもって芸術が語られるのであれば、その芸術も人のためにある。
人=社会としてもよい。
要するに芸術は芸術たれば無理に社会性を付与させずとも社会性を持つのではな
いだろうか。
我々は社会からは離れられない。
どうあがこうが社会の一部からは逃れられない。
何を躍起になって社会性を謳いたがるのか。
芸術においての社会性を自然な思考プロセスとして組み込むことができない理由
が僕にはどうもわからない。
別に何か特定のものをやり玉に挙げてまで、何かしらに対してのアンチテーゼをする
必要性を感じているわけでもないけれど、ただなんとなくこいった矛盾をとりあげていくのもおもしろいかなと思っている。
ではまた明日。

2011年3月31日木曜日

震災について

まず、このような場が設けられたならば、震災について何かしら書くべきかどうか、書いてもよいのだろうかと迷い、考えた。
まず、メディアが邪魔なので排除して考える。
すると情報が一気に減って楽になる。
震災についても『風の噂』で知ることになる。
しかし、もはやメディアで見たことと入ってきた情報を『知っている』ということは事実なので、そこでまたある種の「ずれ」が生じる。そして、その情報から僕が衝撃を受け何かしなければならないと感じながら何が大事なのかも分からなくなっていることも事実なのだ
。
要するに、情報はあくまで情報で、依然として僕にとっては微塵もリアルではない
が、そこで起こった感情はまぎれもない『本当』である。
その僕の『本当』と空虚な『情報』との間を取り持つのが、まがりなりにも3.11で経
験した強い揺れだ。
僕は被災地の『本当』がわからない。
わからないのに発言をすることは不可能であるし不謹慎なことだ。
僕はそういうふうには生きていない。
しかし、募金箱がある時はなるべく募金している。


僕が震災について語ることができるのはこれが限度だ。
僕は現地にいくことよりも、僕が本当にやるべきことをやりたい。それに際し僕の尊
敬する稀有な友人の言葉を信じる。彼は僕にこのような言葉を送ってくれた。

『芸術ってのは、どういうときに栄えるんだろうか?
世の中が平穏で静かなときなのか。
それとも、こういう最悪な危機的状況なのか。
君は、美術やったら?
こういうときこそ
美術はね、こういうときいいよ。
誰かが、まったく生きるのに役に立たない制作をしてると思うと、安心するね。
健全だよ。
僕も、世の役に立たない数式いじってるよ。
募金はしたけどね。』


 

2011年3月30日水曜日

初ブログ

記念すべき人生初のブログ。
おそらくこの瞬間に僕は何かに参加したのでしょう。そして取り込まれもしたのでしょう。
しかしそれは僕自身が望んだこと。なんであれ、ひとつ違う世界に足を踏み入れた心地です。

堀くん本当にありがとう。
君に出会えて本当によかった。
これからは、君が生んでくれたこの素晴らしいホームページをより充実させるべく尽力いたします。

今日は取り敢えず挨拶ということで。

ではでは