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2011年4月11日月曜日

記憶

例えば、我々は昭和を知らない。

知らないのに昔の看板や三丁目の夕日や歌謡やCMを見て「懐かしい」と思う。
それはつまり、我々はすでに「知っている」のだ。
我々の中になぜか知らないはずの「記憶」がある。
その「記憶」はいつの記憶だろうか。そしていつ我々の中に組み込まれたのだろ
うか。
その「記憶」は、DNAの中に隠され受け継がれたものではないだろうかと考える。
だから我々は見たことのない雰囲気を面影として知っている。
人体を唯の入れ物だと考えると、その時代ごとに入れ物から情報を受け継ぎ、DNA
はその情報を踏まえて次の入れ物から次の時代の情報を取り込んでいく。
では、DNAに性格はないのだろうか。
もしあるとすれば、それはいわゆる「前世」に繋がる。
受け継がれるものに「偏り」が生じるとすれば、その偏りは癖であり人格である
。
さすれば我々は皆、誰かであったのだ。
現実的に。
個人的な想いであれば、僕は孔子がいい。名前だけに。
前世は決してスピリチュアルなんて名詞で誤魔化されるものではない。
「スピリチュアル」は大事なものを隠してしまう。
だから僕は世の中的にスピリチュアルとされている事象についてはいくらかの興
味があるが、「スピリチュアル」という言葉は大嫌いなのだ。
僕は僕の記憶に順ずる。
人それぞれであるが、皆自分ではどうすることのできない気性や性分というもの
がある。
僕は白か黒かはっきりしていなくては気に入らないし、かといって柔軟性がない
のも気に入らないし、悩むのはよいが、優柔不断は嫌いだし、腰が低いのも嫌だ
けれども居丈高なのも嫌なのだ。
こんなことを言うとひじょうに身勝手なめんどうくさい人間性だけが浮き彫りに
なるのだが、実はそれぞれここだという明確な線引きが存在する。
僕はそのような自分を考える時に、自分はやはり借り物・仮染めなのだと思うこ
とがある。
この気質は生まれもってのものであって、どうすることもできない誰かのもので
あると。
その感覚を私は「記憶」と名付けた。

人間の神の概念の発生の説話の一つに、人間はもともと右脳と左脳が別々に働い
ていて、そのマインドギア(気持ちを託せる道具)として神を創造したという話が
ある。
僕にとっての記憶とはこの場合の神と同義である。
僕の意識を統括するために一番上に置くマインドギアとしての意識。
しかし、その意識は現在的概念としての神や宗教としての神とは完全に異なる。

「記憶」であるが故にそれは厳密かつ確かな過去を包括する。
よって僕は自分の中にあるものをこねくりまわす時は、直接それらの歴史に手を
触れようと意識する。
それはら決して手に触れることはできないが、なんとなくそれらが現在の何を示
唆し、何を未来へ受け継ぐべきなのかを訴えているように感じるのだ。

僕は僕の意識、言ってしまえば勘で動いている。
その勘を勘違いしないように僕は様々な本を読み、世界を解読しようと日々考え
る。

僕の作品の重要なファクターの一つでもある「記憶」とは、おそらく僕以外の人
間にも共通する、地底に流れる水脈のような無意識に覆われた意識のことである
。
それを読み取りやすく顕在化させたい。
見えるようにしたいのだ。


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