イライラしてしまって
顔が歪んでしまって
指先では嘘をついて
崩壊しそうな嫌悪感と怒りが世界を滅亡へと導く
怨みが渦巻いて
憎しみがとぐろを巻き
あなたの首を必ず捻り切るまで、怒りは絶対とまらない
殺して
埋めて
腐敗して
それでもなお生き続ける根本的死体
ミンチにして豚の餌
巻いた尻尾がゲロにまみれる
死体喰いの
下賤な豚
妙に肥えてる
鬼畜の豚
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2014年7月22日火曜日
2014年7月14日月曜日
Statementの元のもの。
ただ、世界をより善くしたいと思うのは私が世間知らずの若僧だからなのだろうか。
学生の頃から自身で制作した作品を手に単身で企業の方々を相手に営業じみたことをやってきているけれど、私は「人生とは思い通りにいかないものだ」とか言う気にはなれない。
何故なら努力と本気は必ず報われるものだと信じているからだ。
身を切る努力と勝負をしたことがない人間だけが、自身の慰めとしてしたこともない努力と勝負の結果を宣う。
おそらくただの妄想とプライド故に。
勝者や勝ち組などくだらないことだと言ってはいるけれど、実際に優秀で人の上に立っている人達はそんなことを言う人はいなかった。
いまだ力及ばずお金を動かす力は持ち得ないけれど、心温かい応援は確実にお金よりも価値あるものとしていつも自身を励まし、原動力となってくれる。
誰かが自分に期待をしてくれているならば、それだけで生きている価値がある。こんなとこで死ぬわけにはいかんのだ。
以前、オリンピック誘致のため福島の原発に対しアンダーコントロールとか夢にもならないことを言った首相がいた。
阿呆も阿呆だがコントロールしなければならないのは、数字に象られた蒙昧な社会ではなく自分自身であるということだ。この場合、数値上でも完全にコントロールを失っているところは失笑に値する。
人間は、いや、生物は、世界は常にせめぎ合いの動性そのものとして存在する。
つまりこの宇宙においての現在とは、動的平衡の現在状態をあらわす。
幸福の観念とは盲信である。
すべての観念的な要求は資本主義社会を保つための洗脳にすぎない。
ただ揺るぎなくあるものは、たゆたう存在の不確かさ、ただの動性そのもの、実は固有名詞など世界には存在しないということである。
社会という虚蒙から逃れることが、少なくとも私には"幸福"に感じられる。
とはいえ、社会活動が苦痛だというわけではない。
小中高大就職結婚出産出世の婉曲した意味を付与された「人生」という空語を押し付けられるこの国の"正しさ"の在り方が、私は唯々気に入らない。
人間という生物がもし本当に「高等」なのだとすれば、倫理・道徳を基軸とした今よりむしろ熾烈な競争原理というものの実現が可能なはずである。
言葉で言うのは簡単だ。「他者をいたわりサボらない」―
組織を統括する者が搾取をするのでなく、今よりほんの少し身をやつせばよいだけだ。
プライドとステータスにまみれた努力知らずのボンボンがのさばるから日本は組織力で世界に太刀打ちできない。
それは明治維新このかた日本が抜け出せないジレンマだ。
無論、そもそも小さな島国らしくしていればそれでもよかったかもしれないが、国民国家として世界に打って出たいと野心を燃やし、国民を担保にできもしない賭けをおこなう無能な輩は今も昔も変わりはしない。
馬鹿は死ななきゃ治らない。もしそれが本当ならば、この国は滅亡以外に道が無くなる。
闘争は生物を構成する一部である。喜怒哀楽の怒をぬかすことはできないのだ。
かといって、平和は幻の理想主義では決してない。
しかし平和とは暴力を手放すことではなく、戦争や犯罪の代わりとなる何らかの暴力を用意することだ。
なぜなら本質的な怠慢や飽きが暴力と戦争を生むのだから。
戦争で利潤をあげるだって?財政的危機感より先に停滞した数字の動きを見ていることに、ただ飽きただけだろう。
そういった意味で、資本主義は十分に暴力的であるから一見してこの理論上では他者を蹴落として儲ければ儲けるほどストレスは無くなりハッピーになるはずだ。そうすれば余裕が生まれ、気まぐれだとしても他者へ優しくしたくなるはずである。
しかし、資本主義の精神的な弱みは神経を磨り減らす暴力の勝負に身体の痛みが、身体性が抜けているために資本的勝敗は実感覚を伴わないということだ。
脳の経験値としては極めて希薄な事象で、記憶と連想による想像・創造力はある一部分しか機能しない。
つまり、そこで結果的に示される暫定的な答え、未来というものは、人間という一生物存在が導き出した答えとしては極めて不完全なものである。
そこには単一な演算と結果の鬼畜的なスピードを伴った連続しかなく、せいぜいそこに感情の波形が見てとれるほどのことでしかない。
3次元に生きながらにして2次元でしか生きていないのだ。
飛んできたボールを掴むことはできても、それは人として生きているとは言い難い。
先日、3次元の近くにあるはずの意識や意思の次元の話をした。その時、それは図で表すとすれば何軸かという話になった。
誰かがいう。それはL軸じゃないのかと。
LOVEのLだそうだ。
なんだか拍子抜けしたような気持ちと妙に腑に落ちた感があった。
かつてJESUSとJAPAN、2つの「J」で悩んだ内村鑑三を思い出したから。
案外、祈りを真面目に考えるということは愛とかくだらない盲信だと断じているものも拾わなければならないのかもしれない。何故なら例えば生物の母性は理屈では解ききれない"なにか"があると感じるのは事実なのだから。
そして内村鑑三は言っていた。武士道に足りないのはキリスト教でいう「愛」の概念だと。
儒教だとそれは「仁」に踏襲されているが、やはり武士道には儒教のほかに道教つまりタオイズム的な精神があり、禅という個人的な精神の錬磨が基軸となっているからそこは必ずしも不犯ではないにしろ、不犯的が故に異性や隣人といった生活臭のする愛の概念が芽吹かないのだろう。
日本人男性はたいがい夢見がちで思い込みが強い。
それ故に武士道さえ超越したような歴史に名だたる剣豪が幾多も生まれたのだろう。
彼らは皆一様に、見えないものが見えていた。
伊庭八郎だったか、彼は誰かが自宅へ向かってくるのが分かったという。
チベットの高僧では今でもそのような僧侶がいるらしい。
社会と縁を切らず、目に見えないものを見ようとし、人として大事なことを裏切らない、そんなささやかな夢を一人の若者が見ることを、世界は赦してくれるだろうか。
学生の頃から自身で制作した作品を手に単身で企業の方々を相手に営業じみたことをやってきているけれど、私は「人生とは思い通りにいかないものだ」とか言う気にはなれない。
何故なら努力と本気は必ず報われるものだと信じているからだ。
身を切る努力と勝負をしたことがない人間だけが、自身の慰めとしてしたこともない努力と勝負の結果を宣う。
おそらくただの妄想とプライド故に。
勝者や勝ち組などくだらないことだと言ってはいるけれど、実際に優秀で人の上に立っている人達はそんなことを言う人はいなかった。
いまだ力及ばずお金を動かす力は持ち得ないけれど、心温かい応援は確実にお金よりも価値あるものとしていつも自身を励まし、原動力となってくれる。
誰かが自分に期待をしてくれているならば、それだけで生きている価値がある。こんなとこで死ぬわけにはいかんのだ。
以前、オリンピック誘致のため福島の原発に対しアンダーコントロールとか夢にもならないことを言った首相がいた。
阿呆も阿呆だがコントロールしなければならないのは、数字に象られた蒙昧な社会ではなく自分自身であるということだ。この場合、数値上でも完全にコントロールを失っているところは失笑に値する。
人間は、いや、生物は、世界は常にせめぎ合いの動性そのものとして存在する。
つまりこの宇宙においての現在とは、動的平衡の現在状態をあらわす。
幸福の観念とは盲信である。
すべての観念的な要求は資本主義社会を保つための洗脳にすぎない。
ただ揺るぎなくあるものは、たゆたう存在の不確かさ、ただの動性そのもの、実は固有名詞など世界には存在しないということである。
社会という虚蒙から逃れることが、少なくとも私には"幸福"に感じられる。
とはいえ、社会活動が苦痛だというわけではない。
小中高大就職結婚出産出世の婉曲した意味を付与された「人生」という空語を押し付けられるこの国の"正しさ"の在り方が、私は唯々気に入らない。
人間という生物がもし本当に「高等」なのだとすれば、倫理・道徳を基軸とした今よりむしろ熾烈な競争原理というものの実現が可能なはずである。
言葉で言うのは簡単だ。「他者をいたわりサボらない」―
組織を統括する者が搾取をするのでなく、今よりほんの少し身をやつせばよいだけだ。
プライドとステータスにまみれた努力知らずのボンボンがのさばるから日本は組織力で世界に太刀打ちできない。
それは明治維新このかた日本が抜け出せないジレンマだ。
無論、そもそも小さな島国らしくしていればそれでもよかったかもしれないが、国民国家として世界に打って出たいと野心を燃やし、国民を担保にできもしない賭けをおこなう無能な輩は今も昔も変わりはしない。
馬鹿は死ななきゃ治らない。もしそれが本当ならば、この国は滅亡以外に道が無くなる。
闘争は生物を構成する一部である。喜怒哀楽の怒をぬかすことはできないのだ。
かといって、平和は幻の理想主義では決してない。
しかし平和とは暴力を手放すことではなく、戦争や犯罪の代わりとなる何らかの暴力を用意することだ。
なぜなら本質的な怠慢や飽きが暴力と戦争を生むのだから。
戦争で利潤をあげるだって?財政的危機感より先に停滞した数字の動きを見ていることに、ただ飽きただけだろう。
そういった意味で、資本主義は十分に暴力的であるから一見してこの理論上では他者を蹴落として儲ければ儲けるほどストレスは無くなりハッピーになるはずだ。そうすれば余裕が生まれ、気まぐれだとしても他者へ優しくしたくなるはずである。
しかし、資本主義の精神的な弱みは神経を磨り減らす暴力の勝負に身体の痛みが、身体性が抜けているために資本的勝敗は実感覚を伴わないということだ。
脳の経験値としては極めて希薄な事象で、記憶と連想による想像・創造力はある一部分しか機能しない。
つまり、そこで結果的に示される暫定的な答え、未来というものは、人間という一生物存在が導き出した答えとしては極めて不完全なものである。
そこには単一な演算と結果の鬼畜的なスピードを伴った連続しかなく、せいぜいそこに感情の波形が見てとれるほどのことでしかない。
3次元に生きながらにして2次元でしか生きていないのだ。
飛んできたボールを掴むことはできても、それは人として生きているとは言い難い。
先日、3次元の近くにあるはずの意識や意思の次元の話をした。その時、それは図で表すとすれば何軸かという話になった。
誰かがいう。それはL軸じゃないのかと。
LOVEのLだそうだ。
なんだか拍子抜けしたような気持ちと妙に腑に落ちた感があった。
かつてJESUSとJAPAN、2つの「J」で悩んだ内村鑑三を思い出したから。
案外、祈りを真面目に考えるということは愛とかくだらない盲信だと断じているものも拾わなければならないのかもしれない。何故なら例えば生物の母性は理屈では解ききれない"なにか"があると感じるのは事実なのだから。
そして内村鑑三は言っていた。武士道に足りないのはキリスト教でいう「愛」の概念だと。
儒教だとそれは「仁」に踏襲されているが、やはり武士道には儒教のほかに道教つまりタオイズム的な精神があり、禅という個人的な精神の錬磨が基軸となっているからそこは必ずしも不犯ではないにしろ、不犯的が故に異性や隣人といった生活臭のする愛の概念が芽吹かないのだろう。
日本人男性はたいがい夢見がちで思い込みが強い。
それ故に武士道さえ超越したような歴史に名だたる剣豪が幾多も生まれたのだろう。
彼らは皆一様に、見えないものが見えていた。
伊庭八郎だったか、彼は誰かが自宅へ向かってくるのが分かったという。
チベットの高僧では今でもそのような僧侶がいるらしい。
社会と縁を切らず、目に見えないものを見ようとし、人として大事なことを裏切らない、そんなささやかな夢を一人の若者が見ることを、世界は赦してくれるだろうか。
2014年7月13日日曜日
社会的な発言はしない。と言った優柔不断さ。
私は考えるのが遅い。
早くしたいとも思わないが、よくまあ世間はメディアの情報のスピードについていけるものだと感心する。
おそらくもう、集団的自衛権など"時代遅れ"なのだろう。
集団的自衛権、官僚とお金、多国籍企業の文化習俗の蹂躙、国を動かす考え方や価値観等、自身の未来のためであるから必死で考え情報を精査する。出来うる限り。
その結果みえてくるものは、やはり個の集合体としての全体であり全体の一部が個であるという、部分と全体の関係において結果的に個々が生活を営む中で培う精神規範、行動規範に踏襲されていくということである。
かつての日本においてそれらの根幹を成していたのがいわゆる「お天道様(世間様)に申し訳ない」という、神仏習合が踏襲する「天」を仰いだ宇宙観であったというのが明治期に日本を訪れた諸外国人の日本人へのリスペクトであったのではないか。
選挙の投票率にはじまり異性やお金に対しての個人単位の価値観が、結局は社会という全体を構成しているわけであるから、やみくもな全体意識や教育による洗脳等の被害妄想が「天」にすり替わったということが現代社会の問題の根幹にあるのだと考える。
教育現場において選択問題が主で個人で考える時間が与えられないなどという安っぽい洗脳ならば、個人の意思や意識でなんとでも現状は変えられるはずなのだ。食品偽装も然り、情報より先に舌で気付くことができない消費者にも十分問題がある。我々は提示されているもの以外にも「選択する自由」というものを民主主義として保持しているのだから、提示されたものを疑わず従っていれば幸せなのだと思い込んでいる人間が悪いのだ。そんな人間は世の中が良くなろうと悪くなろうと関係ない。
とうに考えることをやめてしまっているのだから。
社会機構や現状を批判する精神もしくは感覚的な違和感は往々にしてあるものだと思うが、それを個人単位で向き合い考えきちんと個をとりまく全体へ浸透させ自身の環境を造りあげていくという部分で、コミュニケーションの不足やTwitter等の情報の速度による翻弄や競争原理を失い骨抜きにされた無駄な調和への滅私奉公がうまく個々の生活のなかで噛み合わないのだろう。
ここでも選択の自由が行使されていない。人も情報も選択するのは自由なのである。しかし、何度も記載するように自由とはもともと仏教の言葉で、自らをもって由とする。英語のFreedomと混同してはいけない。厳しい自己責任の世界の獲得である。
最近ではようやく負の扱い方のような発言や著作がいくらかでてきたような気がしている。例えば負け方や有用な関係性の破壊、つまり喧嘩についてなど。
集団的自衛権のなかで透けて見えるのは、明治以前から変わらぬ島国独自の強さや大きさや異文化、異世界への憧れ、まさに恐外病という日本の根深い病巣である。小さくても十分に文化的にも精神的にも強かったのに、自ら鬱や自殺に歩み寄るような形でしか国民国家を形成し得ないこの島が、憎らしいやらいじらしいやら、複雑な気持ちにさせる。
結局のところ最近の文末でいつも記しているとおり、個人ができうる限りのことを精一杯やり尽くすしかないのだ。無論、奥さん子供のためにというのとは全く別で。世界が少しでも善くなることを願うなら、少しは他力本願な税金以外での社会貢献とはなんなのかと考えるべきなのだ。
震災で考えさせられ、考え続けていかなければならないことは、人間はなぜ生まれ自身が生まれた以上なにができうるのかそういうことを少しでもいいから個々人が考え尽くすことではないのだろうか。一過性のボランティアで、行った人間もそれを報道でみた人間もそれで終わりにしていないだろうか。行った行かないで安易な評価を作ってはいないだろうか。
現実に向き合い続けること、考え続けること。そういった継続的な意識のみが世界を変える力を持つ。インターネットの過信は、まさにその継続性においてあまりに脆弱かつ責任が希薄で、意識と身体性はただの0と1で構成された虚しいデータと化されてしまう。
大事なことは、家族を不都合なことを考えなくて済むための盾に使わないこと。使途が不明確なお金を求めないこと。つまり唯の鉱物と紙きれの"お金"を見て安心しないこと。乗り物に過信しないこと。それは時間を取り戻すということ。世界を多角的に捉えること。目に見えないものを独自に見ようとすること。自身を少なくとも身体と精神の二つに分けて捉えてみること。身体とお話すること。
そうすると、勝者とか勝ち組とか人に認められたいだとか、そういった自身の足腰を重くし界を限るするくだらないものがきっと無益無用で非本質的なものであると気付くだろう。口調が穏やかになって笑顔が増えるだろう。例えばアンチエイジングだって何故かみんなが羨ましいスター気質(笑)だって、そういった意識と身体性が創り出しているものだと私は捉えている。唯、そこで気に入らないのがそれらの細胞の活性化や心の余裕が未だお金に担保されたものであると喧伝されていること。それら広告に憧れしゃにむに働き心は荒み愚痴っぽくなっても、喜ぶのは金が入る政治家と企業家だ。
とにかくとにかく、生き抜くために考えることが大事だ。いつしか身体が軽くなり、足腰が柔軟に動くようになったなら、行動という本当の意味での社会活動をしてみるべきだ。そこからが、本当の「自由」といえるものなのだから。
私は自由だが金がない。だがしかし、なんて幸せな気持ちなのだろう。別に日本に居なくてもよいのだし、こんなダサくて堕落した国に恩を返す義理もない。
気にしなければならないのは母のことだけ。あの人に幸せになってもらわなければ、生まれた価値がない。母子家庭がうちだけでないことは無論しっている。そういった自己陶酔型親孝行志願ではない。世界もArtも関係なく、ただただ母への感謝が年々積もる。こうした時に、なんだかひどくちっぽけな存在だけが宙に浮いた自分という存在を、どこか遠くから眺めているような錯覚に陥る。
未だ多次元的な世界と自身の距離のようなものが測れずにいる昨今である。
文末次第で公に開かれた言論空間であるはずのBlogはただの日記になる。それならそれで。といったところか。
早くしたいとも思わないが、よくまあ世間はメディアの情報のスピードについていけるものだと感心する。
おそらくもう、集団的自衛権など"時代遅れ"なのだろう。
集団的自衛権、官僚とお金、多国籍企業の文化習俗の蹂躙、国を動かす考え方や価値観等、自身の未来のためであるから必死で考え情報を精査する。出来うる限り。
その結果みえてくるものは、やはり個の集合体としての全体であり全体の一部が個であるという、部分と全体の関係において結果的に個々が生活を営む中で培う精神規範、行動規範に踏襲されていくということである。
かつての日本においてそれらの根幹を成していたのがいわゆる「お天道様(世間様)に申し訳ない」という、神仏習合が踏襲する「天」を仰いだ宇宙観であったというのが明治期に日本を訪れた諸外国人の日本人へのリスペクトであったのではないか。
選挙の投票率にはじまり異性やお金に対しての個人単位の価値観が、結局は社会という全体を構成しているわけであるから、やみくもな全体意識や教育による洗脳等の被害妄想が「天」にすり替わったということが現代社会の問題の根幹にあるのだと考える。
教育現場において選択問題が主で個人で考える時間が与えられないなどという安っぽい洗脳ならば、個人の意思や意識でなんとでも現状は変えられるはずなのだ。食品偽装も然り、情報より先に舌で気付くことができない消費者にも十分問題がある。我々は提示されているもの以外にも「選択する自由」というものを民主主義として保持しているのだから、提示されたものを疑わず従っていれば幸せなのだと思い込んでいる人間が悪いのだ。そんな人間は世の中が良くなろうと悪くなろうと関係ない。
とうに考えることをやめてしまっているのだから。
社会機構や現状を批判する精神もしくは感覚的な違和感は往々にしてあるものだと思うが、それを個人単位で向き合い考えきちんと個をとりまく全体へ浸透させ自身の環境を造りあげていくという部分で、コミュニケーションの不足やTwitter等の情報の速度による翻弄や競争原理を失い骨抜きにされた無駄な調和への滅私奉公がうまく個々の生活のなかで噛み合わないのだろう。
ここでも選択の自由が行使されていない。人も情報も選択するのは自由なのである。しかし、何度も記載するように自由とはもともと仏教の言葉で、自らをもって由とする。英語のFreedomと混同してはいけない。厳しい自己責任の世界の獲得である。
最近ではようやく負の扱い方のような発言や著作がいくらかでてきたような気がしている。例えば負け方や有用な関係性の破壊、つまり喧嘩についてなど。
集団的自衛権のなかで透けて見えるのは、明治以前から変わらぬ島国独自の強さや大きさや異文化、異世界への憧れ、まさに恐外病という日本の根深い病巣である。小さくても十分に文化的にも精神的にも強かったのに、自ら鬱や自殺に歩み寄るような形でしか国民国家を形成し得ないこの島が、憎らしいやらいじらしいやら、複雑な気持ちにさせる。
結局のところ最近の文末でいつも記しているとおり、個人ができうる限りのことを精一杯やり尽くすしかないのだ。無論、奥さん子供のためにというのとは全く別で。世界が少しでも善くなることを願うなら、少しは他力本願な税金以外での社会貢献とはなんなのかと考えるべきなのだ。
震災で考えさせられ、考え続けていかなければならないことは、人間はなぜ生まれ自身が生まれた以上なにができうるのかそういうことを少しでもいいから個々人が考え尽くすことではないのだろうか。一過性のボランティアで、行った人間もそれを報道でみた人間もそれで終わりにしていないだろうか。行った行かないで安易な評価を作ってはいないだろうか。
現実に向き合い続けること、考え続けること。そういった継続的な意識のみが世界を変える力を持つ。インターネットの過信は、まさにその継続性においてあまりに脆弱かつ責任が希薄で、意識と身体性はただの0と1で構成された虚しいデータと化されてしまう。
大事なことは、家族を不都合なことを考えなくて済むための盾に使わないこと。使途が不明確なお金を求めないこと。つまり唯の鉱物と紙きれの"お金"を見て安心しないこと。乗り物に過信しないこと。それは時間を取り戻すということ。世界を多角的に捉えること。目に見えないものを独自に見ようとすること。自身を少なくとも身体と精神の二つに分けて捉えてみること。身体とお話すること。
そうすると、勝者とか勝ち組とか人に認められたいだとか、そういった自身の足腰を重くし界を限るするくだらないものがきっと無益無用で非本質的なものであると気付くだろう。口調が穏やかになって笑顔が増えるだろう。例えばアンチエイジングだって何故かみんなが羨ましいスター気質(笑)だって、そういった意識と身体性が創り出しているものだと私は捉えている。唯、そこで気に入らないのがそれらの細胞の活性化や心の余裕が未だお金に担保されたものであると喧伝されていること。それら広告に憧れしゃにむに働き心は荒み愚痴っぽくなっても、喜ぶのは金が入る政治家と企業家だ。
とにかくとにかく、生き抜くために考えることが大事だ。いつしか身体が軽くなり、足腰が柔軟に動くようになったなら、行動という本当の意味での社会活動をしてみるべきだ。そこからが、本当の「自由」といえるものなのだから。
私は自由だが金がない。だがしかし、なんて幸せな気持ちなのだろう。別に日本に居なくてもよいのだし、こんなダサくて堕落した国に恩を返す義理もない。
気にしなければならないのは母のことだけ。あの人に幸せになってもらわなければ、生まれた価値がない。母子家庭がうちだけでないことは無論しっている。そういった自己陶酔型親孝行志願ではない。世界もArtも関係なく、ただただ母への感謝が年々積もる。こうした時に、なんだかひどくちっぽけな存在だけが宙に浮いた自分という存在を、どこか遠くから眺めているような錯覚に陥る。
未だ多次元的な世界と自身の距離のようなものが測れずにいる昨今である。
文末次第で公に開かれた言論空間であるはずのBlogはただの日記になる。それならそれで。といったところか。
2014年7月4日金曜日
思考転換記
あらかじめ記さなければならないが、私は無宗教である。
私が好むのは宗教以前の厳かな"なにか"と国民国家以前の風土である。
さて、我々の持つエネルギーは2つに分けられる。
それは、身体エネルギーと生命エネルギーである。この2つは共鳴関係にあり、互いの振動がシンクロしている。
ただし、決定的な差異があり振動や波長は多次元を共有できるが身体は三次元においてしか機能できない。
紐理論上で最細分化された紐が振動しているのは多次元化すればするほど動性は顕著になり世界を構成する要素の根幹を成す。その動性の最小単位が振動である。人間でいえば小刻みにブルブルする、震えだ。そしてまた、その次元の大きさも凝縮され質量のみが嵩んでいき最終的にはブラックホールとなる。
おそらく、三次元に近いところの次元に意思や思考、いわゆる気だの霊だのが属する燃焼とは関係の無いエネルギーもしくは情報体で構成される次元が存在する。
そしてリサ・ランドールの「五次元の宇宙」にあるとおり、次元は振動する薄い膜であり、その間を弱い重力が行き来している。そして、前述の意思や思考などの生命エネルギーもまた、おそらく次元をまたぐことができるのだ。
次元においての存在は、低いところから高いところへいくことはできないが、高いところから低いところへ行くことは可能なのである。
時間が方向であるとすれば次元は界そのもの。唯一、固有の時間を有しているのだ。
個々の生命エネルギーは、たゆたう間にふと産まれた赤子の身体に呼び寄せられてしまう。
中にはその中でもある特殊な生命エネルギーのみに強く反応が出てしまう波長を持った個体がある。
いわゆる超状現象や心霊体験が頻繁にあるタイプの個体である。
匣によってはそういうアンテナのような役目をする波長を持ったものもあるかもしれないし、生命エネルギーの方が元いた次元の残り香のようなものを引きずっているのかもしれない。
いづれにせよ、一歩間違えると下世話なオカルト教団の文言になりかねないので注意しなければならない。
我々は身体という匣に入った時からいくつかの制約下で生を全うしなければならない。
生を全うすることで更なる高次元におけるエネルギー体に変化するためだ。
幽霊というものに、あまり良いものがないのは生を全うしきれずエネルギー体の意識が三次元に取り残されてしまったからだ。
我々はこの世界に生きているかぎり意識と身体性を最も大切にしなければならない。
身体を持たずにこんな低次元下でエネルギー体としていつづけるのは大変な苦痛だ。
しかも次元をもはやまたぐことができず、やがて霧散する、つまり、本当の死、本当の消滅が待っているのみである。
倫理道徳だけの話ではなく、戦争や他殺や自殺は生命エネルギーとしての存在に対してあまりに酷い。
宿主を失った子供のエネルギー体が無邪気に走りまわったり、思わずどこかの母性に引き寄せられてしまうのも、唯々、自身の匣が失われたことに気づいていないからだ。
故に復讐心すら起こらない。
我々の身体とはまさに蛹のことなのだ。
近代から続く致命的な間違いの一つは物理・科学と宗教やアニミズムを切り離し、存在を三次元に限定しこの知覚を完成体としたことだ。
無論、数式によって担保された理論物理の定理は空間上のある一点において究極の絶対性を発揮するが、それらを繋ぎ合わせてみても、実は世界は記述できないのだ。
祈りを真面目に化学しなければ、我々はいつまでたっても生命の源へは辿り着けないし、人間という匣を特別視している限り魂の謎は解けない。
なぜなら、生命エネルギーには個体差があっても型はないからだ。
人の生活に近い猫や犬が人間じみていて、ときに不思議なことがあるのはそのためである。
我々は人間である前にあらゆるものであったのだ。
我々はこの身体に入ってしまった以上、個の正しい喪失をもって世界に霧散し高次元のエネルギー体に還らねばならない。
そのために身体を維持するための合理的機構として社会を造り上げてきたのだが、國の根幹から祈りが消えた時点で既に道を外している。
なぜなら祈りは唯一、我々が三次元以上の高次元を感得または意識することができる道すじであり、大変に重要な能力であったから。
奢れる者は久しからずだ。
生を全うするという意味で、我々は身体機能をサボらせてはならない。
"楽して儲ける"では、蛹の中身は正しく成長しない。
生を全うしても意識が三次元にへばり着いたまま高次元へは辿り着けず、どこかの次元の狭間でそれはそれで苦しい思いをすることになる。
資本主義の落とし穴は堂々と闇の口を広げているのに、気づけずにいる人類はもはや滑稽の極みに達している。
あらゆる社会問題の中枢にいる人間は、いわゆる勝ち組とたかをくくっているかもしれないが死後に自身の生が歪んだものであったことを知るだろう。
さて、社会がこう出来上がってきてしまっている以上、もはや抜本的な改革は不可能だ。
実は哀しいかな。
正解は自身に合った生き方と生きる場所を自身で見つけ、そのための努力を惜しまず善く正しく社会生活を営むほかはない。
身体には寿命がある。
心臓の鼓動はあらかじめ決まっているのだ。
保有する時間の量と速度は個体によって異なる。
汚れている暇はない。
私が好むのは宗教以前の厳かな"なにか"と国民国家以前の風土である。
さて、我々の持つエネルギーは2つに分けられる。
それは、身体エネルギーと生命エネルギーである。この2つは共鳴関係にあり、互いの振動がシンクロしている。
ただし、決定的な差異があり振動や波長は多次元を共有できるが身体は三次元においてしか機能できない。
紐理論上で最細分化された紐が振動しているのは多次元化すればするほど動性は顕著になり世界を構成する要素の根幹を成す。その動性の最小単位が振動である。人間でいえば小刻みにブルブルする、震えだ。そしてまた、その次元の大きさも凝縮され質量のみが嵩んでいき最終的にはブラックホールとなる。
おそらく、三次元に近いところの次元に意思や思考、いわゆる気だの霊だのが属する燃焼とは関係の無いエネルギーもしくは情報体で構成される次元が存在する。
そしてリサ・ランドールの「五次元の宇宙」にあるとおり、次元は振動する薄い膜であり、その間を弱い重力が行き来している。そして、前述の意思や思考などの生命エネルギーもまた、おそらく次元をまたぐことができるのだ。
次元においての存在は、低いところから高いところへいくことはできないが、高いところから低いところへ行くことは可能なのである。
時間が方向であるとすれば次元は界そのもの。唯一、固有の時間を有しているのだ。
個々の生命エネルギーは、たゆたう間にふと産まれた赤子の身体に呼び寄せられてしまう。
中にはその中でもある特殊な生命エネルギーのみに強く反応が出てしまう波長を持った個体がある。
いわゆる超状現象や心霊体験が頻繁にあるタイプの個体である。
匣によってはそういうアンテナのような役目をする波長を持ったものもあるかもしれないし、生命エネルギーの方が元いた次元の残り香のようなものを引きずっているのかもしれない。
いづれにせよ、一歩間違えると下世話なオカルト教団の文言になりかねないので注意しなければならない。
我々は身体という匣に入った時からいくつかの制約下で生を全うしなければならない。
生を全うすることで更なる高次元におけるエネルギー体に変化するためだ。
幽霊というものに、あまり良いものがないのは生を全うしきれずエネルギー体の意識が三次元に取り残されてしまったからだ。
我々はこの世界に生きているかぎり意識と身体性を最も大切にしなければならない。
身体を持たずにこんな低次元下でエネルギー体としていつづけるのは大変な苦痛だ。
しかも次元をもはやまたぐことができず、やがて霧散する、つまり、本当の死、本当の消滅が待っているのみである。
倫理道徳だけの話ではなく、戦争や他殺や自殺は生命エネルギーとしての存在に対してあまりに酷い。
宿主を失った子供のエネルギー体が無邪気に走りまわったり、思わずどこかの母性に引き寄せられてしまうのも、唯々、自身の匣が失われたことに気づいていないからだ。
故に復讐心すら起こらない。
我々の身体とはまさに蛹のことなのだ。
近代から続く致命的な間違いの一つは物理・科学と宗教やアニミズムを切り離し、存在を三次元に限定しこの知覚を完成体としたことだ。
無論、数式によって担保された理論物理の定理は空間上のある一点において究極の絶対性を発揮するが、それらを繋ぎ合わせてみても、実は世界は記述できないのだ。
祈りを真面目に化学しなければ、我々はいつまでたっても生命の源へは辿り着けないし、人間という匣を特別視している限り魂の謎は解けない。
なぜなら、生命エネルギーには個体差があっても型はないからだ。
人の生活に近い猫や犬が人間じみていて、ときに不思議なことがあるのはそのためである。
我々は人間である前にあらゆるものであったのだ。
我々はこの身体に入ってしまった以上、個の正しい喪失をもって世界に霧散し高次元のエネルギー体に還らねばならない。
そのために身体を維持するための合理的機構として社会を造り上げてきたのだが、國の根幹から祈りが消えた時点で既に道を外している。
なぜなら祈りは唯一、我々が三次元以上の高次元を感得または意識することができる道すじであり、大変に重要な能力であったから。
奢れる者は久しからずだ。
生を全うするという意味で、我々は身体機能をサボらせてはならない。
"楽して儲ける"では、蛹の中身は正しく成長しない。
生を全うしても意識が三次元にへばり着いたまま高次元へは辿り着けず、どこかの次元の狭間でそれはそれで苦しい思いをすることになる。
資本主義の落とし穴は堂々と闇の口を広げているのに、気づけずにいる人類はもはや滑稽の極みに達している。
あらゆる社会問題の中枢にいる人間は、いわゆる勝ち組とたかをくくっているかもしれないが死後に自身の生が歪んだものであったことを知るだろう。
さて、社会がこう出来上がってきてしまっている以上、もはや抜本的な改革は不可能だ。
実は哀しいかな。
正解は自身に合った生き方と生きる場所を自身で見つけ、そのための努力を惜しまず善く正しく社会生活を営むほかはない。
身体には寿命がある。
心臓の鼓動はあらかじめ決まっているのだ。
保有する時間の量と速度は個体によって異なる。
汚れている暇はない。
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