私は考えるのが遅い。
早くしたいとも思わないが、よくまあ世間はメディアの情報のスピードについていけるものだと感心する。
おそらくもう、集団的自衛権など"時代遅れ"なのだろう。
集団的自衛権、官僚とお金、多国籍企業の文化習俗の蹂躙、国を動かす考え方や価値観等、自身の未来のためであるから必死で考え情報を精査する。出来うる限り。
その結果みえてくるものは、やはり個の集合体としての全体であり全体の一部が個であるという、部分と全体の関係において結果的に個々が生活を営む中で培う精神規範、行動規範に踏襲されていくということである。
かつての日本においてそれらの根幹を成していたのがいわゆる「お天道様(世間様)に申し訳ない」という、神仏習合が踏襲する「天」を仰いだ宇宙観であったというのが明治期に日本を訪れた諸外国人の日本人へのリスペクトであったのではないか。
選挙の投票率にはじまり異性やお金に対しての個人単位の価値観が、結局は社会という全体を構成しているわけであるから、やみくもな全体意識や教育による洗脳等の被害妄想が「天」にすり替わったということが現代社会の問題の根幹にあるのだと考える。
教育現場において選択問題が主で個人で考える時間が与えられないなどという安っぽい洗脳ならば、個人の意思や意識でなんとでも現状は変えられるはずなのだ。食品偽装も然り、情報より先に舌で気付くことができない消費者にも十分問題がある。我々は提示されているもの以外にも「選択する自由」というものを民主主義として保持しているのだから、提示されたものを疑わず従っていれば幸せなのだと思い込んでいる人間が悪いのだ。そんな人間は世の中が良くなろうと悪くなろうと関係ない。
とうに考えることをやめてしまっているのだから。
社会機構や現状を批判する精神もしくは感覚的な違和感は往々にしてあるものだと思うが、それを個人単位で向き合い考えきちんと個をとりまく全体へ浸透させ自身の環境を造りあげていくという部分で、コミュニケーションの不足やTwitter等の情報の速度による翻弄や競争原理を失い骨抜きにされた無駄な調和への滅私奉公がうまく個々の生活のなかで噛み合わないのだろう。
ここでも選択の自由が行使されていない。人も情報も選択するのは自由なのである。しかし、何度も記載するように自由とはもともと仏教の言葉で、自らをもって由とする。英語のFreedomと混同してはいけない。厳しい自己責任の世界の獲得である。
最近ではようやく負の扱い方のような発言や著作がいくらかでてきたような気がしている。例えば負け方や有用な関係性の破壊、つまり喧嘩についてなど。
集団的自衛権のなかで透けて見えるのは、明治以前から変わらぬ島国独自の強さや大きさや異文化、異世界への憧れ、まさに恐外病という日本の根深い病巣である。小さくても十分に文化的にも精神的にも強かったのに、自ら鬱や自殺に歩み寄るような形でしか国民国家を形成し得ないこの島が、憎らしいやらいじらしいやら、複雑な気持ちにさせる。
結局のところ最近の文末でいつも記しているとおり、個人ができうる限りのことを精一杯やり尽くすしかないのだ。無論、奥さん子供のためにというのとは全く別で。世界が少しでも善くなることを願うなら、少しは他力本願な税金以外での社会貢献とはなんなのかと考えるべきなのだ。
震災で考えさせられ、考え続けていかなければならないことは、人間はなぜ生まれ自身が生まれた以上なにができうるのかそういうことを少しでもいいから個々人が考え尽くすことではないのだろうか。一過性のボランティアで、行った人間もそれを報道でみた人間もそれで終わりにしていないだろうか。行った行かないで安易な評価を作ってはいないだろうか。
現実に向き合い続けること、考え続けること。そういった継続的な意識のみが世界を変える力を持つ。インターネットの過信は、まさにその継続性においてあまりに脆弱かつ責任が希薄で、意識と身体性はただの0と1で構成された虚しいデータと化されてしまう。
大事なことは、家族を不都合なことを考えなくて済むための盾に使わないこと。使途が不明確なお金を求めないこと。つまり唯の鉱物と紙きれの"お金"を見て安心しないこと。乗り物に過信しないこと。それは時間を取り戻すということ。世界を多角的に捉えること。目に見えないものを独自に見ようとすること。自身を少なくとも身体と精神の二つに分けて捉えてみること。身体とお話すること。
そうすると、勝者とか勝ち組とか人に認められたいだとか、そういった自身の足腰を重くし界を限るするくだらないものがきっと無益無用で非本質的なものであると気付くだろう。口調が穏やかになって笑顔が増えるだろう。例えばアンチエイジングだって何故かみんなが羨ましいスター気質(笑)だって、そういった意識と身体性が創り出しているものだと私は捉えている。唯、そこで気に入らないのがそれらの細胞の活性化や心の余裕が未だお金に担保されたものであると喧伝されていること。それら広告に憧れしゃにむに働き心は荒み愚痴っぽくなっても、喜ぶのは金が入る政治家と企業家だ。
とにかくとにかく、生き抜くために考えることが大事だ。いつしか身体が軽くなり、足腰が柔軟に動くようになったなら、行動という本当の意味での社会活動をしてみるべきだ。そこからが、本当の「自由」といえるものなのだから。
私は自由だが金がない。だがしかし、なんて幸せな気持ちなのだろう。別に日本に居なくてもよいのだし、こんなダサくて堕落した国に恩を返す義理もない。
気にしなければならないのは母のことだけ。あの人に幸せになってもらわなければ、生まれた価値がない。母子家庭がうちだけでないことは無論しっている。そういった自己陶酔型親孝行志願ではない。世界もArtも関係なく、ただただ母への感謝が年々積もる。こうした時に、なんだかひどくちっぽけな存在だけが宙に浮いた自分という存在を、どこか遠くから眺めているような錯覚に陥る。
未だ多次元的な世界と自身の距離のようなものが測れずにいる昨今である。
文末次第で公に開かれた言論空間であるはずのBlogはただの日記になる。それならそれで。といったところか。
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