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2014年11月21日金曜日

本当はシンプルなこと。

本当に大事なことはほんのいくつかしかない。
もしもそれで通じてしまうのならば。

●世界(宇宙でも次元でも)の捉え方で最も大事なことは、「始点と拡散・排泄と循環」である。

●"強烈な、度を越した、桁外れで個人的なアナログ性"はいつの時代でも最も普遍的で分かりやすいARTである。なぜならそれは三次元下における時間と身体性の極致だからである。

以上。





2014年11月17日月曜日

さよならJapan。

何日か前の毎日新聞である。

なにやら国会では消費税を10%に上げるかわりにゴルフ場利用税はやめましょうという議論が起きているそう。ん?
ゴルフ場の利用料は一人数百円~1200円、年間税収は500億円強。
日本の借金は国内総生産の二倍以上、1000兆円を越えているのにもかかわらず現場の人手や資材が足りなくても公共事業をばらまくなど目先の目眩ましばかりが目立つ。
無論、そのおかげで目下私も生きていけているのだけれど。
しかし、それだけでは飽きたらず、どさくさまぎれに貴重な収入源に手をつけようとしている様子。

500億円。

例えばどれくらいのお金かといえば、子供の貧困対策として期待されている返済不要の給付型奨学金が想定している予算が400億円弱。
しかし、"財政は厳しい"と言って政策の表へのぼってくることはない。

解散総選挙。

この目眩ましに気が付ける人はどれだけいるのでしょう。
やっぱりそれでもAKBしか頭に思い浮かばないような日本なのかな。
残念無念。

もう、どーーでもいいけどね。

2014年11月13日木曜日

ARTで貫く古代から現在。

我々が生きている"現在"とは無数の時間が積み重なってできた、「歴史的現在年としての今」である。

およそ700万年前、人類は二足歩行をはじめた。身体を使い狩猟、採集をし、武器を持ち農耕をはじめ秩序をつくり社会を作った。奇怪な自らの発生の不思議は自分がなぜ生きているのかという生に対する根元的な疑問と不安を生み出し、その解決は歴史的に早い時期から信仰が担った。

一方、信仰の組織的な腐敗もまた早い時期からのことだった。政治と信仰が結びつき、信仰の解釈は一部の特権階級が牛耳ることとなる。あらゆる欲にまみれた教祖と上層部、信仰を理由にした殺戮、それらは人間の人間たる本質的な暗部を今なお忠実に継承している。

しかし他方では敬虔な信徒がいるという事実を忘れてはならない。信仰が他者を貶めることもあれば救うこともあるのだし、言葉だけではなくよりイメージの具体化をはかるため、または信仰的一体感を強めるために絵画・彫刻・音楽などの芸術文化が発達し、どのような封建社会の中でも職人や芸術家はある一定の尊敬を得、支援や擁護を受けてきた。
それは社会機構の中で一つの聖域を構築したといえる。しかしそれは、初期の職人や芸術家が画策したことではなく、人間が自発的に希求したものだった。つまり芸術はそれに触れる人間の"心"を満たしていたのだといえる。

社会が複雑化してくるにつれ、必然的に人間の感動も複雑化してくる。あらゆるものに慣れてしまえば、表面的なものの見方しかできない人間はその感覚の範疇を越えたものにしか感覚を揺さぶられることがなくなっていく。芸術家への支援、擁護をしている誠に有り難い連中は手前勝手な感動への要求を職人および芸術家へ押し付ける。
結果、特権階級に満足を与えるための商品を造ってきた職人や芸術家の中でも歪んだ血統主義や利権構造が構築され、同様に評価基軸も歪み捻れていったのだ。

近年、アールブリュットや子供の絵などがもてはやされるのは、"作品"としてマーケットで運用される以前の芸術がそこに息ずいているからに他ならない。自らの対峙する感動の如何を辿れなければ、制作者にも鑑賞者にもそこにはなんの意義も見出すことはできない。

身体を使って地球で生きてきた時代から徐々に脳への依存比率が傾き現代に至る。
しかし、アールブリュットや幼児の芸術然りラスコーの壁画やアフリカなどの諸先住民族の芸術的文化には、人間が人間であるが故の普遍的な身体性がいつまでも息づいている。

ARTとは社会においてあらゆる"あいだ"を持つバランス補正である。
1915年、歴史的必然によりデュシャンのトイレは形骸化した伝統の暗示を破壊した。それはバチカンに絶対王政に代表されるような絶対的価値観へのARTによる革命的行為ともいえるものだった。
それから100年後の未来が現在である。我々はむしろ破壊された形骸の破片から往時を偲ぶ。新しいモノやコトが何より素晴らしいと考えられていた、眼差しの奥にキラキラとした未来への憧れを持った活気あるあの時代を。

たった一つのある種の"丁寧さ"をあらゆることに適用すれば、なにも破壊を持たずしても今より少しは良くなるかもしれない。例えばそれは失われつつある贈与文化の中にヒントが隠されているかもしれない。

昨今、マラソンなどの趣味のスポーツや天然素材にこだわった高級思考が流行りマクドナルドの不振が続いているのは、現在の人間が心から希求しているものとまったく無関係なことではない。
コカ・コーラよりも身体に滲み入るような湧水を求むるように、失って久しい"あの頃"の面影がARTにもあらゆる分野でも求められているのだと私は感じる。

"あの頃"に回帰するように、私も私の生を全うしたい。もしくは、私は私の死を死にたいと考えている。

土塊だったあの頃に。
あらゆるものを跨げたあの頃に。
彼岸から眺めていたあの頃に。



2014年11月12日水曜日

note。2

私は文章ベタなので、箇条書が最も自身に合った文章的表現だと思われる。
それらを踏襲してほんの二三言でまとめられたなら、少しは整理能力がついたと自負したい。

●記憶

・自分の記憶
・歴史的記憶
・人為的に記録される以前、宇宙的起源の記憶

●存在

・それのみでは確証たりえないもの
・動的平衡の一状態
・全てのカタチは形骸もしくは三次元世界においてのみの表層的な一瞬の幻である。
・存在を保証、担保するものは唯一の対存在である。
・在ることよりも在ったことに保証されるもの。故に対存在は同質の過去、記憶を有する。

●対存在

・ある存在を担保する同質量の対応、呼応、共鳴する存在。これは一方的な関係ではなく相互的な関係である。

●意識

・三次元下で形成された認識としての脳内意識と生まれて形態を持ち得る以前の元意識または意識体としての意識の二種類に大別される。

●身体

・三次元と元意識を繋ぐ愛しき鍵、媒体
・感情の根源
・脳の命令で動く生体機械だと考えられているが、それは誤りである。

●脳

・人間の全てを司るように考えられているがそれは誤りである。実質的合理性を発揮する演算装置の趣がつよい。
・生まれてからのもの、三次元下のもの
・認識、感知をするもの、記憶をするもの。それらを縦横無尽に編集する能力を持つ。
・休息を要するが故に記憶を基盤とした持続、継続的な意識を有する。「寝ないで働く」の非合理性の理由である。しかし、しばしば身体は脳を凌駕する。疲れるのは身体ではなく、脳である。脳は常に無理をしない。唯一脳を動かせるのは元意識のみである。

●時間

・一定で不可逆の「方向」
・時計のことではない。
・存在の数だけ固有の時間があり、その識別は速度にある。
・可視化することはかなわないが、媒体物を通して認識もしくは感じることができる。
・実現してしまった瞬間を、完全な一存在として、その個別性とともに保持することは不可能である。ひとつの完全な思い出をつくるためには、夥しい瞬間の記憶が必要である。― バシュラール


我々人間は生の根幹に"宇宙と身体を繋ぐ意識"を持つべきであると私は考える。
この世界に不必要なものや絶対的な正義や悪、真に恒久的で不変なものや"こうあらねばならない"などという規定は唯一つもない。平和の恒久を希求するならば、それを実現させるのは我々人間の意識である。多様性を認められない限り一方的な排除という暴力的手法は無くならない。休息や喪失、死があるからこそ生を全うできるのだし、対存在としての他者を愛し記憶に浸ることができるのだ。

これは多分に資本主義にも則した政治的な話であると言うことができる。
全ては動的平衡の"状態"であり、宇宙の原則に則って始まりと終わりのあいだを過ごしている。その原則を忘れてもしくは不都合のため追いやって、政治や経済や社会を論じたところで何の確証に辿り着くことはない。これは物理の法則に則って数式により絶対性を担保された定理を繋ぎ合わせてもなんら「世界」の記述がかなわないことと似ている。相対性理論にしろ紐理論にしろ、それはある視点からのあるほんの一部にしかすぎないのだから。
移動しながらカタチを変えず積層された同一平面の存在しない球体の様であり、そこに"美しさ"をも備えたその「絶対」たるものは、およそ人間には辿り着けない神そのものである。
国民国家の出現以前、広く多様に信仰された神なるものは十分に政治や経済や社会を形成できていたはずである。なにもスーパーマーケットや冷蔵庫、リムジンやプライベートスペースだけが文明や社会ではないだろう。
それがもし絶対的な幸福のカタチを示しているのだとしたら、幸福とはなんと脆く簡単で稀薄なものであるか。
大事なことは動的平衡状態を十分に理解したうえでの、生命がそこにカタチを留めているのと同様な加減のとりかたである。バランスと言い換えてもいい。
実はARTの必然性もそこにある。とくに社会を形成し持続させていくうえでの政治や経済に対する対存在としての意識形成を役割としている。平易にいえば、数字に対しての文字のようなものである。一つの法則を定理によって証明するのに数式と言葉で説明した場合、数式の方がはるかに明解で合理的であるのに対し、言葉はその説明をするのに膨大な量の文字と時間を要する。しかし、コクトーやランボーの詩を理解するのに数字は何の解も導き出せないのに対し文字は余計な解釈をさえ要さない。究極の不必要である。
どちらが強いだの良し悪しだのの話の次元ではない。安くいえば"みんな違ってみんないい"なのだ。
基を辿ればすべては48億年の遥か遠くに根を同じにしているのだから。

つまりは我々もまた、点から究極的拡散状態への始まりと終わりの一部なのである。
その事実への認識こそが、私にとって私がこの三次元下の現在に存在している救いでもある。



2014年10月16日木曜日

不在

いつしかとある何処かの場所で

一人男が酒をあおっていたのだとさ

何杯目かもわからなくなってきた時、ふと何かがそこらを掠める

幸せの残り香か、血肉の飛び散る凄惨な未来の予感

あなたがもういないから

世界はすっかりめちゃくちゃだ

人が人を殺し血で血をあらう

あなたがもういないから

笑いながら皮を剥ぐ

世間話をしながら、罪のない目玉をくり抜く

最後に映された醜い私が虚空の夜に彷徨っていた

一瞬後には全ては野に帰り野犬の腸におどるというのに

あなたがもういないから

世界は残酷さで満ち溢れている

あなたがもういないから

私はなにもみつけられない

あなたがもう、いないから。






2014年10月14日火曜日

思考日和

ARTなど、どうでもよい。

そう言えなくて何故、表現者などというものを志したか。
私は正確にはART WORLD内のARTISTとしては一生扱われないかもしれない。しかし、私は私の表現をしなければならない。自分に嘘をつくことはできないから。
だから、ARTなどどうでもよいのだ。そんなことより、生まれてからずっとつきまとう、この生きている故の矛盾や問題の方がよっぽど大事なことなのだ。

性欲も物欲も置き去りにして、唯々、私は私を包括するものと対話をし続ける。
内なる宇宙を対存在として。

見えづらいものや見えないものにこそ目を向けることが、現代社会からの逃亡を企てる唯一の方法かもしれない。
ここで大事なことは、逃亡には浪漫があるが逃避に浪漫はないということだ。逃避には唯々、言い訳がましさやうしろめたさがあるだけだ。だからこそ、逃亡は素早く大事に、美しく、厳かに粛々と、儀式のように行われなければならない。それが逃避なのか逃亡なのかは、その主体となる者の必然性が決めるのだ。

例えば影や負や時間や空間に目を向けてみる。
そこから顕れるものは実は単純で、結局はこの三次元における場と水と大気と土とに収束する。
なぜなら、我々は死という方法を持たずしてこ身体と三次元からは目下逸脱するわけにはいかないのだから。
死後には死後の、言葉があるはずだ。
そういった意味では、人間は、死なない。次段階としての始まりと終わりのあいだになるだけだ。

時間とは始まりと終わりのあいだ、つまりは流れそのもの、敢えていうならば、「方向」である。方向は一定で不可逆なものだ。そのために記憶や記録というものは我々にとって存在の根幹を保証する最も重要なファクターである。そのために、世界は本であると言っても過言ではない。誰でも、何れでも、世界を記述する一冊の本であるのだ。

時間には万物それぞれ固有の速度があるため、個々が独自の時間速度を保有しその数だけ固有の時間というものがある。
人間でいえば、あなたの時間、私の時間というように。
次元は固定され界の限られた世界のことではない。
幾重にも重なる次元のあいだで、あらゆるものが相関しあい、次元の構成要素は常にずれたり移動や交換をおこないながらそのかたちを保っている。つまり、動的平衡である。
世界の時間は我々よりもずっと長く大きく、故にゆっくりだ。次元においての相関関係も次元や物質、その固有の時間速度でおこなわれている。
つまり時間とは、"不可逆で一定の方向と個々で異なる速度"のことであると言い換えることができる。

我々の認識する世界であれ次元であれ社会であれ、それら全ての細部からが無数の固有時間により構築されている。我々は個であると同時に我々を包括するものの一部である。
そして我々が可視できる世界のほんの一部でさえも、固定されたものは一つもなく常に始まりと終わりの過程であり途中であり、我々自身を含め動的な現象そのものなのである。

脳という我々の内なる小宇宙において世界とは、個々に認識される空間と機構の観念である。
つまりは三次元下で生成された脳と身体を基盤として建設された余剰の産物である。
我々は"在る"という確約された状態にあるのではなく、むしろ奇跡的にあやふやにかたちを留めているにすぎない。
故に自身を担保するのは圧倒的な他者であり、その他者の質が自身の存続に深く関わっている。ここでいう他者とは、人間に限ったことではなく対存在として自らの存在を担保する他者や記憶や記録のことである。

例えば、政治に無関心でいることが致命的な理由は、その本人の意識・認識において本人自身の存在自体が根底から危ぶまれるからである。
"圧倒的他者としての社会"に無関心でいることは極めて致死的な意識の持ち方だ。
部分は常に全体に左右され、部分の革命的現象は一見ゆるぎない何物をも破壊する力を持つ。
故に意識こそが次元をまたぎ脳と身体に縛り付けられた世界からの逃亡を企てる最重要の鍵となる。

ここまでのことを分かりやすくまとめると、まず我々人間は"脳(ブレインマインド)と身体(ボディマインド)と元意識(スピリットマインド)としての私"という融合状態として三次元下に在る。
万物は等しく全体と細部の関係において蓄積された時間であり、時間とは方向と速度のことであるから、"個"はそれぞれが保有する時間の速度に担保される。
つまり、全ての存在は対存在に担保されるわけであるから、個の対存在は時間の速度ということになる。

結果、宇宙や素粒子や社会や私達まで、そこにある"速度やふるまい"こそが最も本質的なものであると私は考える。
全てに個が認められるからこそ、在り方は多様性に基盤を置かなければならない。是が非かの二元論からなる結果では余剰がなく、正に対しての負、陽に対しての陰、つまりは影の文化が生まれない。
実際、歌舞伎や猿楽は河原者と言われる橋元のこじきや流しの一座から生まれたものであるし、ROCKやPUNKや政党や新聞だって道端やコーヒーハウスでの密会や談合から生まれている。そして、それらは全てが後の世のスタンダードになっているのだ。
これはつまり、本質は"負"の中にこそ潜んでいて負が本質を負っているということであり、負を見つめられる視線と胆力を持っていなければ一生本質に触れることなく生を終えることになるということだ。
だから、歴史の中でごくたまに人間の構築した社会という虚構の胸クソ悪さに気がついてしまった人達は、しばしば陰に魅入られた。コクトーは負けることや喪失を知らない人は何も学ばなかった人だというし、ジュネは負の中に身をおかずにいられなかった。宮武骸骨は滑稽新聞を刊行し、太宰も三島も彼岸へ渡ってしまった。

負や余剰に対しての"浄化"や"救済"を盾にした輝かしくおぞましい神軍の押し付けは、文化を滅ぼし戦争を引き起こす。
歴史的現在の阿鼻叫喚図は、私には我々人類のとってきた選択の齟齬を見つめなおすよう要求しているように思えてならない。

私がこれまでもこれからも、死ぬまでの生の基軸としておくものは「存在と記憶・時間と蓄積」に他ならない。それはそのまま私のART活動の基盤にもなっている。
そこに脳と身体がこの三次元という界との癒着を果たし、めくるめく現在という瞬間の確証を問う私の生き方が始まる。
これは私が人間であることをやめない理由でもある。

私が人間であって現在という瞬間の蓄積上に成り立っているという事実は、そのまま「"過去に担保された現在"の中で生きている私」に引き継がれ、生きるということが「辿る」ということに変換される。
この見地に則り、本質は動的平衡上の"辿られるもの"であり文化・習俗ですら一切の形骸は本質を辿るためのキーでしかないといえる。
つまり立ち顕れ可視化されたモノではなく、その方法にこそ本質が隠されている。
本質とは存在の根本であり本来である。
我々の脳は記憶と連想を基盤とした想像と創造、そしてそのために合理的な解を導き出す演算能力に特化している。
記憶と連想は過去・現在・未来の時間観念を生み出し、生に生ずる漠然とした不安はその回避のために現在の生が自らの創出に起因するということで、自らがこの世に在るという確証を得るに至る。
そのために宗教はまず根本的な生命の源を示し、それを神と崇めた。
他部族との争いを経て集団が拡大していくにつれ、その規範として王と国と政治が生まれる。
生命の源は王や天皇にとって変わり、現在の資本主義下ではお金という虚蒙にすり変わっている。
人間の脳はより効率の良いエネルギー摂取のために身体を使い農耕をし狩猟をし交換をし社会を形成し交換の際の互いの価値観の相違軋轢を解消するために貨幣を生み出し相互関係の巨大な機構を作ってきた。
それらは本来、全て人類の未来のため生産性の向上の究極形を求めて変化をしてきたはずである。
しかし現在では、その中で生まれた巨大資本を背景とした文化・風土・土地の収奪と蹂躙、商品化が飽くなき戦争と死、憎しみの連鎖を大量に撒き散らしている。
正統性を振り回し情報を隠蔽統制し、脳を使わず疑わず思考しない集団の国民国家を作り上げた目的は唯々、羨望による西洋社会への仲間入りのため、はたまた集団教育による洗脳・統制と怠惰な豚を肥えさせるための収奪機構とちんけなスリルを求めた暇潰しの戦争のためだった。
多様性は次々と統合され合理的なカテゴライズを経て界を限られた。それと共に無意識に認識される生の選択肢も数を減らし現在では勝者と敗者、是か非だけの一神教的二者択一の人生という空語が数多の若者の夢を奪う。

しかし我々は、それらに対抗しうる揺るがぬ「意識」と「身体」を持っている。
しかしそれらは意識を意識し、身体を意識しなければ扱えない。より原初に立ち還り、記憶と連想、想像と創造を鍛え磨かなければならない。
人類に示される行き先が生産性の向上からいつしか滅亡へとすり変わった現在において、それでも我々が選択可能な未来というものが必ず在るのだということを信じたい。
「僕らの世界の救い方」は「在るべき未来への原点回帰」にある。そのために、負や陰に隠された本質を辿りなおし記録と記憶を手繰りよせ、新たなかつ膨大な編集作業を人類規模で行わなければならない。
そのための人類一人一人のキータームが、意識と身体性であると考える。私の持つこの意識が、私のARTの社会性を担保しているのだ。

換金されロンダリングに利用され金をもて余したセレブの暇潰しに消費され、分け前を貰い誉めそやされ芸術家や先生と言われ、空虚だけを抱きしめあの世でジュネやコクトーや安吾から冷笑を受ける。
私はそんなARTにもARTISTにも興味はない。

現代でこそ冷笑される、理想と信念と人間美こそが私にとってはARTであり、それを体現する者こそがARTISTであると私は考えている。

矛盾のように理解する人もあるかもしれないが、ARTISTとしての絶対条件は死ぬほど考えて売れることなのである。



2014年10月8日水曜日

きえる月にみる夢は

美人で、儚くて激しくて、まるで月のような人だった。
月だって太陽だって、そりゃ曇っていなけりゃ同じように明日でてくるのだけれど、月は違うんだ。
大気の具合で見え方がとかそういう話でなくて、具体的に昨日とは違ってる。
欠けているんだ。厳かに大胆に。
満ち欠けの話でなくて、欠けている。昨日より。
また巡るそれとはやっぱり違っていて、もう二度と、戻ってはこないんだ。その月は。―

「なんだいそれは。」
「いや、俺はわかるぞ。」

皆既月食の夜、家へ帰るなり少年はそんなことを言うともなしに言っていた。
何故だかは分からない。
それすら月の魔性だとでもいうように。
少し大人びたようなその言い回しに違和感を覚えながらも、どうせ教科書で読んだなにかの一節だろうと思い込み父母は思い思いにそれに応えただけなのだ。
無論、その答えとて今日はとくべつ宇宙へ繋がるような虚空へと、そのままゆっくりと霧散した。

そして少年の詞は方舟に。

想いは遥か流星の背に乗せられた。





2014年10月3日金曜日

note 。


頭がいっぱいである。

前回を読み直せば下手クソな文体と愚痴っぽさに吐き気がする。
自身の想定したはずの日記や心情吐露に収束しない、文章としてのエスキースやドローイングには程遠い、馬鹿らしい内容であったことを反省している次第である。しかしもし自己弁護する猶予があるのだとすれば、半分ほどの割合で文章は酔っ払って書くことがあるということだ。無論、前回私は呑んでいた!尚、この悪癖を治すつもりは毛頭無い。Viva 酔っ払い である。スーイスーイスッタカラッタスラスラスイスイスイ~♪ なのである。

ということで、エスキースないしドローイングらしく自身の思惟構造を整理してみよう。まずは題目をいくつかだしてみる。

・国民国家以前、気候風土としての日本、および国といわれる世界の"場"。

・日本という方法。すなわち土地から醸される歴史という"方法"。"南アフリカの方法"だって、あるわけだ。しかしその方法として突出していてそれが時代や地政学的知見からいっておもしろいのは、抜群に日本である。シリアスなのに何処か祭りで遊んでいるのが日本である。切れる文化より笑いと祭りの、日本という方法である。まつりは祭りで祀りで政である。

・メディアと女と男の関係性。男の体たらくは女が生み出している。女の体たらくはメディアが生み出している。結局は、馬鹿な男が日本を、いや世界を滅ぼす。メディアと教育の責任は、現在の社会形態においては確実に男にある。

・3次元という呪縛。スピリットマインドとボディマインドとブレインマインド。存在は大きく3つの存在が三次元下で合わさったものである。万物はまずサンドイッチだ。そして3次元下における存在とはじつは蛹であるということ。

・物体、存在、確かなものや形象やカタチという一瞬の幻。

・お金と時間、ARTの可能性。やるべきこととできること。「在るべき未来への原点回帰」、「僕らの世界の救いかた」。

・ある日ある時ある場所で、生まれたからには意味がある。必然を"感じる"という訓練。生きるということは現代の観念とは著しくずれたところで常に激烈なのである。

・宇宙、地球、人体。意識と身体性。存在と記憶、時間と蓄積。

・土。

・エロス。

なるほど。本質を見ようとして色々考えているということはうかがえる。
しかして、これにみあう行動が必要である。知行合一は理念であるが行動が足りぬ。して行動を担保する経験と実績が足りぬ。つまりは巡り還りやはり行動が足りぬ。

ポイントは、足腰・制作。である。要するに、ボディマインドと表現である。やはり私にとって、ARTは陽明学なのである。
しかしこの間、私は一時もあの3月11日を忘れていない。
2万を超える死が時代に投げかけた意味を、まだ私は汲み取りきれていない。
死は、ただの消滅や削除ではない。本当に、関わった全てに意味がある。それを汲み取るということは、生きるという意味の一つである。生きている以上、生きなければならないのは、反面あまりに平等な死があるからだ。だから、メメント・モリ という言葉があるのだ。

死を、おもえ。

私にはそれがART,芸術が担う本質、根幹であると思えてならない。もっというなら、実は全ての社会や文化の根源であると私は考える。生きるということは、死へ、もしくは死から、なのである。だから、


生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し


と空海はいったのだ。



2014年9月14日日曜日

子に親に、めくるめく。

あれも嫌い。これも嫌い。
社会にまみれてお辞儀の角度が大事なのだというのは嫌い。結局、人と人の関係だよねとか言いながら作り笑顔の作り声も大嫌い。人生とは好きなことばかりやれるものではないだとか、教育・勤労・納税は国民の三大義務だとか、夢や希望を、自分が見ることさえ恐れて逃げたものに、蓋をするような大人になってはいけない。

私は10月末で30歳になる。
今だにこんなことばかり言っている"お寒い"人間である。最愛のパートナーは無論、5年の歳月を経て私の前から消えていった。とても勘の鋭い女性であったから、おそらく見限られたのであろう。これからの、あまりに長い戦いを思えば、当たり前だと私も思う。
学生生活という名のついたちんけな夢であったにすぎない。

私はアーティストに成る。成り上がりはしないだろうが。粛々と、かつ淡々と。私の正しさ、正義というものに嘘をつかないように生きるため。
誰もが反対をする。誰もが才能が無いと言う。それを蹴散らし作品を実現し賞をとり味方を増やしてきた。既にして茨の道なのである。
しかし更なるぶっとくゴツい最高の茨を私は求める。かかってきやがれ。甲冑でも着ようかな。

なんで、何故、この国は夢をみることを許さないのか。何故、傷を舐め合うコミュニティーしか作ろうとしないのか。何故、肩書きばかりで人間をみるのか。
教育による洗脳なのだろうか。情報による統制なのだろうか。確かに私は教育もできうる限り放棄してきたし、情報も8割くらいは傍受しないようにしている。だからって、なんでこうも価値観が違ってしまうのだろうか。邪悪な父性という毒にあたられた年数が少ないからであろうか。身勝手な大人に自己肯定の道具にされたことは、今のところ無いといってよいだろう。もしかすると、これは中々に大きいことかもしれない。

国というよりも、もっと身近で同じくらいに邪悪な「父性」というもの。
夥しい勝者と敗者を生み出す鬼畜的な資本主義社会機構。その中で生まれる意地汚く下卑た自己肯定という汚物。
自然界ではしばしば、毒をもつ生き物がとても美しい模様をまとうことが少なくない。ケバケバしくも統制がありハレーションの美しいリズムがあり、毒が毒たる甘美な毒性というものさえ生み出していると言えるだろう。
対して、人間が人間の機構の中で育んできた権力思考や勝者と敗者の対立関係、意地汚く他人を卑下するかもしくは世界を限定して語ることでしか得られない腐臭のする自己肯定! それらは自然のかれらのような甘美な毒性を孕んでいるだろうか。リズムなど、皆無ではなかろうか。
同じように、致死的な毒なのに。

私は、年をとらない。
耐え難い重い荷物を背負わないから。
人にどう思われたいだとか、人気者や売れっ子になって目立ちたいだとか、女を抱きまくりたいだとか、でかい土地だの家だの高級車だの、ぜーーんぶ、いらない。

僕は、男だから、唯々正しく在りたい。
男だからとか言うといちいちヒステリックにうるさい昨今だけど、やっぱり男に生まれたからには浪漫やダンディズムや少年性というものを大事にしたい。それらを性別的な特権であるとは思ってもいないし言ってもいない。
でもやはり、男として生まれたからには、男であることにこだわりたいのだ。あれこれ理由をつけて。

実は、これが忌まわしき父性の毒の萌芽であるとは、一方ではあまりに辛い事実なのである。
浪漫が、夢が、たとえそれらを持つ前であったとしても、心と一緒に打ち砕かれて、純粋は瞬時にして邪に染まる。
同僚を妬み上司の悪口を言い寂しさに結婚しマンネリを埋めるために子を作る。長い生きがいはやがて手元を離れ、社会的な役目も肉体の衰えと共に失われてゆく。死を意識し、生の自由に気がついた時には、子は自身の鏡像となりまた孫に毒を吐きかけ始める。なすりつけ、取れないように、念入りに。自身を慰め尊敬するように。

成虫も、卵も、幼虫も、蛹も、胎児だって新芽だってなんだって、あんなに美しいではありませんか。
せめてそれだけは、ユング的にデカルト的に、思い込みだとか言わずに信じましょうよ。

何故に人間の子育てだけが、こんなにも邪悪に映るのでしょう。
それは私自身が汚らわしいから。

ふむ、では、あなたは?





2014年9月10日水曜日

ひねくれもの

窓の外で

馬鹿が吠える

俺も昔、そうだった

それがむしろ、なんだか、自己顕示のような、仔犬の威嚇のような

そんなものだったのだろうと思う

暇ではぐれて淋しくて

それをもし続けていたら

きっと、まるで、ゴミのように

集めて、捨てられ、最後の最後まで塵ひとつ残らず、掃除機で吸い取られてしまうだろう

集めて(税金)、捨てられ(大蔵省)、最後に掃除機で吸い上げる(官僚)

誰かにとっては至上の機構ではないか

天晴れ。





2014年9月3日水曜日

島と私の、あいだ。

私という現象は、国民国家以前その後日本と名付けられたこの島の、気候風土の産物である。
その現象を創出するのは、温暖湿潤の豊かな環境が生み出したこの島の色と香りと時間である。

この島には是か非かということは似合わない。
物事を断定することが苦手で、かつて大江健三郎がいったような、"あいまいな日本としての私"としかいうことができないものだ。
なぜなら、この島の本質は生と死、陰と陽、内と外、彼岸と此岸、それらの「あいだ」にこそ在るからだ。
だから、我々の歴史の中では常に外来の文化習俗を捏ねて編集をしてきたのだ。

それが、私の発生した日本という場なのである。

明治維新後、国民国家となり西洋世界のお仲間に入れてもらった日本は、言わずもがな激動蒙昧な戦争史へと突入することになる。
狂いはじめてブレーキのいかれた日本は、司馬遼太郎をして本来を失った"異胎の国"と言わしめた。
日本の本来は、言い抜けてしまえば唯々海からこんもりと頭を出した地球の表面の一部であるというだけにすぎない。
それだけに、豊かで妖しい森林を背景とした多神多仏で禅めいた香りがひとつ確信を持って感じられるのだ。
分かりにくければ、本来を失わずに漢字を導入し、やがては平仮名を生み出した日本の歴史を思い出してもらいたい。
それが、この島の気候風土が促した選択なのだ。

しかしその本来を失ったまま戦争という事実だけを置き去りにし、いまだ我々は異胎の児としてゴキブリや鼠と共にコンクリートの上を這いまわる。

日本の本来を取り戻すということは、個人の本来を取り戻すということだ。
それは自分の魂と脳と身体に向き合うこと。
身体を使い鼓動に耳をすまし脳を使って想像し、自らがどのようなものであるかを感得するのだ。
気候風土に象られた匣に宿りし多次元存在は如何なるものかということを。

敢えてその場に対極的な相対性を生み出すならば、そこには必ず「あいだ」があり、そこを淡く感じられるのはこの島の湿度ゆえである。

蓄積されたその現象と記憶のただ中に、土塊だった私が在るのだ。

2014年8月19日火曜日

あるべきようはいずこにてあらしむる

私はいわゆる現場肉体労働の傍ら、時には福島の山中の圧倒的自然の中、なんやかやの是か非などどうでもよくただ一点、人災放射能を憎んだりしながら日々を過ごすこともある。
知人に浪江町近くの山を所有している方がいるためだ。

あんまりにも自然が自然で圧倒されながらも、それを美しいと思わざるをえない中に身を置く時、どうしても放射性物質は目に見えず、人工である以上責任の所在の対象が自身を含める多数として明確にあるものに、矛盾した怒りを覚えずにはいられないのだ。
山中で育てたズッキーニやオクラが美味しくて、福島駅前で食べたウニが美味ければ美味いほど、腸が煮えくり返るほど放射能が憎らしいのだ。

何より私が埼玉県(住居)と東京都(職場)でのうのうと暮らし、目下一番の目標は留学中の活動費用を少しでも多く貯めることであるというまったくの利己意識にもモヤついた感情を抱いている。
しかし、無論私には私の設定したやるべきことがあり、それを実行するまでは何人にも侵害させず揺らぐものではない。

昨晩、Yahoo!NEWSで湯川遥菜さんという方が内戦下のシリアで拘束されたようであることを知った。
私は氏がどのような人物かは知らない。それをネット検索してから書くべきかもしれないが、私は感情が鮮度を失う方がただでさえ温度が伝わりにくいネット媒体において、それこそがリスクであると考えている。
記事を一部抜粋。


「半分はジャーナリストで半分は医師だ」"などと"英語で答える映像が公開された。身代金要求の有無などは不明。

(文中「などと」につけた""は、橋本 仁がつけた)


まず、私が思ったことは本人の安否、漠然とした心配である。
生命というもの人間だけが特別ではなく今も生と死の新陳代謝が絶え間なくいとなまれていることは理解してるが、文中の"などと"には個人的に自業自得の揶揄が含まれていると感じた。無論、ただの思い込みであるとの自覚もある。

当たり前のように命に人種は関係ないが、せいぜい目の前の人間や情報として目にする邦人の、一人の命をまさか見捨てる気持ちはないだろうと思いながら、ケースとして別物ではあるが幾年か前の同じような事件を思い返し、便利な情報社会に便乗しそのままカーソルを下へ移行しコメントを盗み見た。

すると、ふと予想した危惧のとおり(以下抜粋)


「この人は仕方ない」かな?

護身用の銃を携行。その時点でもう写真家じゃねえよ。

自業自得ですね


とあり、Facebookにあるイイネみたいな親指のみを上に向けたマークとBad的な親指のみを下に向けたマークの比率がほぼ3500対400であった。
無論、一つの命がなくなるのが"自業自得"で"仕方がない"という意見が圧倒多数である。

私はまだ20代の若僧だ。日本で育っている。無職だ。日本的ステータスで言えばこの時点で"ゴミ"と言われる人物だ。
無論、地球内の相対評価で自身が甘くて弱い人間であることを自覚している。故に命の喪失に過敏なのだ。身内の地球内における相対的に甘い病院での死においてすら、いちいち意味を考える。しかし私はそれらの思考が利己的でただの思い込みでもなんらかまわないと考えている。

命の喪失を、まず原因を疑い責任の比重を量り命を失う側と奪う側とで冷静にジャッジし、その割合で是か非かとまるでゲームのように論じるのがそんなに楽しく良いことなのか。
そんなコメントをわざわざ多数の人が目にする場に吐露する人は普段の生活でもそのように発言しているだろうか。
コメントに対する3000を越える賛同はそのまま震災による人災でさえ"運が悪かった"と考える実質的総数だと考えるのは私の考え過ぎだろうか。

冷静に言ってみても、護身用の銃を携行することで写真家ではない。ということや、本人が物品調達の仕事で一儲けしようと現地入りした。ということは私には理解の範疇を越える。

事実確認は他者の情報を介するためどうにもできないが、上記一つめの護身用の銃を持っては写真家ではないということは、はたしてそう言えるだろうか。
死を覚悟すると言えば聞こえもよく格好良いが、はたしてそれを実感覚を伴わない机上の空論で押し付ける大多数というのは寒気がしないだろうか。

「死」はTVという怪しい箱の中でおこなわれる偽物のことではない。
2万人が死ねば2万のそれぞれ固有の「死」があるのだ。

故に「一人の死」は「一つの削除」ではない。

そのように考えるのは、私が平和を傍受した若輩者であるという甘えと余裕によるものなのだろうか。
私にはまさに現行の社会が地獄に見えて人間が餓鬼だらけに見える。

私が狂っているならばその方が世界は幸せだろう。
むしろ私はそう願ってやまない。
私は狂っているのだ。不必要な不安を拾い誇大妄想の強迫観念の中で破滅の狂想曲に酔いしれるアル中なのだ。

それでいいなら、それでいい。
私はまた新たな私を生み出すだけなのだから。

確かに、そろそろ新しい名前を創るのも悪くない。

くそったれと毒ずくのも、そんなに楽なことではないのだ。
私は根暗にblogでのみ特別に発言しているわけではないのだから。



草枕の冒頭は、今も健在ですよ。漱石さん。


2014年8月12日火曜日

コンセプトスケッチ

万物は表裏一体、そしてその「あいだ」とで構成されている。
生と死。陰と陽。中と外。彼岸と此岸。
すべての相対的関係には「あいだ」が介在し、それぞれに幅と深度と多様性が多次元的に構成されている。

我々は理論上で三次元以上を扱うことはできるが、知覚することはかなわない。
なぜなら、我々が世界と触れることのできるこの身体は三次元で発生し回帰する物質であり、脳もまた同じであるが故に知覚は三次元の域を出ることはない。
俗に言う第六感というものは知覚器官としては脳を使用しているが、それを傍受するのは多次元の名残である意識体であると考える。
意識体とはいわゆる魂として古来から信じられてきた、語弊を恐れずに言えば、霊的なものである。
それらは三次元の周辺の多次元空間で一つの次元を構成していると考えられるが、ある時、匣としての身体に宿るのだ。おそらくそれは、振動するブレーンを行き来する弱い重力のように。
だがしかし、これは場合によってはかなり"危ない話"である。余談だがこの場合、一線を越えるキーワードは"輪廻"である。

さて、私は長らく「Memory Code」と題して身体性と現象と記憶を扱ってきた。
主に素材として鉄を用いてきたが、それは鉄が気体・液体・個体にまたがるもので、その現象性を克明に記述するもので、鉄そのものに宇宙の記憶が潜んでいるからだ。
鉄の内在的記憶と私が付与した外在的記憶は私の身体的記憶と呼応し、私はまさに、「生きている」ということを自覚する。もしくは感得する。
その結果物を私の身体が属する三次元空間に実現させることにより、私は私の歴史を作り始める。
三次元空間での「生きる」とは、かくも重く積み重ねられるものだということを時代や情報の速度や軽さに惑わされ、「生きる」ということを忘れかけた人達へのメッセージを持って、それを作品の社会性としてきた。
大事なことは、自然と人間という一神教的な相対関係ではなく、その「あいだ」の哲学であり感覚であるということを、日本人である私が言える最大限の示唆であり啓蒙であると考えた。
しかし、物体としての私の結果物は固定観念の壁を破ることはできず、ただの無意味な"彫刻"として時に評価され片付けられてきた。
私は唯、そこに自己という存在を表出し第三者はその結果物に自己と他者を投影しうるという普遍的鏡像関係を作り、鑑賞者に内在する"なにか"に語りかけたかっただけなのだ。

私は「記憶の暗号 ― 虚構の被膜 ―」2013年作 から身体性を隠すように、視覚的にきらびやかに、下品に、より表面的な塗装を施すようになった。
重さを隠し汗の香りを隠し時間を潰した。
何故なら、私は努力賞が欲しいのではないのだし、ARTは常に逆説的に捉えられる理想の提示であるからだ。
ARTは情報と同じくして、きっかけであり入口である。目の前の良質なARTには明確な"先"が設定されており、鑑賞者は鑑賞という作者との交感を経てその"先"への道程が拓けるようにプログラムされている。
故に、ARTの真の社会性は見えざるものであり、見える者にはもはや言葉という記号はいらないのだ。
そういった意味で、実はARTはデュシャンが否定したにも関わらず、魔術的で儀式的でオカルトな媒体物であるという一側面を拭えない。

私の大学修了時の作品における社会性は東洋哲学、とくに西田幾太郎の二項同一、陽明学における知行合一に影響を受けている。
是が非かではなく、是も非も受け入れてその「あいだ」で結果を形成してきた、日本という風土の歴史哲学を私は表現したかった。
そのために匣に表面的な装飾をした作品と内側に世界を創った作品を並列し展示をしたのだし、匣の内側には入口を示唆するような異次元的な奥行きと映像的で曼陀羅の様な止まらない現象的色彩を配したのだった。

しかし、私は売れない芸術家。
呪われた詩人。
役に立たない思想家である。

今日も無駄の塊を虚しく世間に吐くだけなのだ。



日本に

ART難民幾千人

増えるだけで声は発せず



革命と歌とはセットである。
やはりARTも歌い謡い唄い詠い吟い謳い唱わねば。

誰かに、届け。

火星の寒空の下、今も誰かが地球を嘆く。


2014年7月22日火曜日

世相の詩

イライラしてしまって

顔が歪んでしまって

指先では嘘をついて

崩壊しそうな嫌悪感と怒りが世界を滅亡へと導く

怨みが渦巻いて

憎しみがとぐろを巻き

あなたの首を必ず捻り切るまで、怒りは絶対とまらない

殺して

埋めて

腐敗して

それでもなお生き続ける根本的死体

ミンチにして豚の餌

巻いた尻尾がゲロにまみれる

死体喰いの

下賤な豚

妙に肥えてる

鬼畜の豚

2014年7月14日月曜日

Statementの元のもの。

ただ、世界をより善くしたいと思うのは私が世間知らずの若僧だからなのだろうか。
学生の頃から自身で制作した作品を手に単身で企業の方々を相手に営業じみたことをやってきているけれど、私は「人生とは思い通りにいかないものだ」とか言う気にはなれない。
何故なら努力と本気は必ず報われるものだと信じているからだ。
身を切る努力と勝負をしたことがない人間だけが、自身の慰めとしてしたこともない努力と勝負の結果を宣う。
おそらくただの妄想とプライド故に。
勝者や勝ち組などくだらないことだと言ってはいるけれど、実際に優秀で人の上に立っている人達はそんなことを言う人はいなかった。
いまだ力及ばずお金を動かす力は持ち得ないけれど、心温かい応援は確実にお金よりも価値あるものとしていつも自身を励まし、原動力となってくれる。
誰かが自分に期待をしてくれているならば、それだけで生きている価値がある。こんなとこで死ぬわけにはいかんのだ。

以前、オリンピック誘致のため福島の原発に対しアンダーコントロールとか夢にもならないことを言った首相がいた。
阿呆も阿呆だがコントロールしなければならないのは、数字に象られた蒙昧な社会ではなく自分自身であるということだ。この場合、数値上でも完全にコントロールを失っているところは失笑に値する。

人間は、いや、生物は、世界は常にせめぎ合いの動性そのものとして存在する。
つまりこの宇宙においての現在とは、動的平衡の現在状態をあらわす。

幸福の観念とは盲信である。
すべての観念的な要求は資本主義社会を保つための洗脳にすぎない。
ただ揺るぎなくあるものは、たゆたう存在の不確かさ、ただの動性そのもの、実は固有名詞など世界には存在しないということである。
社会という虚蒙から逃れることが、少なくとも私には"幸福"に感じられる。
とはいえ、社会活動が苦痛だというわけではない。
小中高大就職結婚出産出世の婉曲した意味を付与された「人生」という空語を押し付けられるこの国の"正しさ"の在り方が、私は唯々気に入らない。

人間という生物がもし本当に「高等」なのだとすれば、倫理・道徳を基軸とした今よりむしろ熾烈な競争原理というものの実現が可能なはずである。
言葉で言うのは簡単だ。「他者をいたわりサボらない」―
組織を統括する者が搾取をするのでなく、今よりほんの少し身をやつせばよいだけだ。
プライドとステータスにまみれた努力知らずのボンボンがのさばるから日本は組織力で世界に太刀打ちできない。
それは明治維新このかた日本が抜け出せないジレンマだ。
無論、そもそも小さな島国らしくしていればそれでもよかったかもしれないが、国民国家として世界に打って出たいと野心を燃やし、国民を担保にできもしない賭けをおこなう無能な輩は今も昔も変わりはしない。
馬鹿は死ななきゃ治らない。もしそれが本当ならば、この国は滅亡以外に道が無くなる。

闘争は生物を構成する一部である。喜怒哀楽の怒をぬかすことはできないのだ。
かといって、平和は幻の理想主義では決してない。
しかし平和とは暴力を手放すことではなく、戦争や犯罪の代わりとなる何らかの暴力を用意することだ。
なぜなら本質的な怠慢や飽きが暴力と戦争を生むのだから。
戦争で利潤をあげるだって?財政的危機感より先に停滞した数字の動きを見ていることに、ただ飽きただけだろう。
そういった意味で、資本主義は十分に暴力的であるから一見してこの理論上では他者を蹴落として儲ければ儲けるほどストレスは無くなりハッピーになるはずだ。そうすれば余裕が生まれ、気まぐれだとしても他者へ優しくしたくなるはずである。
しかし、資本主義の精神的な弱みは神経を磨り減らす暴力の勝負に身体の痛みが、身体性が抜けているために資本的勝敗は実感覚を伴わないということだ。
脳の経験値としては極めて希薄な事象で、記憶と連想による想像・創造力はある一部分しか機能しない。
つまり、そこで結果的に示される暫定的な答え、未来というものは、人間という一生物存在が導き出した答えとしては極めて不完全なものである。
そこには単一な演算と結果の鬼畜的なスピードを伴った連続しかなく、せいぜいそこに感情の波形が見てとれるほどのことでしかない。
3次元に生きながらにして2次元でしか生きていないのだ。
飛んできたボールを掴むことはできても、それは人として生きているとは言い難い。

先日、3次元の近くにあるはずの意識や意思の次元の話をした。その時、それは図で表すとすれば何軸かという話になった。
誰かがいう。それはL軸じゃないのかと。
LOVEのLだそうだ。
なんだか拍子抜けしたような気持ちと妙に腑に落ちた感があった。
かつてJESUSとJAPAN、2つの「J」で悩んだ内村鑑三を思い出したから。
案外、祈りを真面目に考えるということは愛とかくだらない盲信だと断じているものも拾わなければならないのかもしれない。何故なら例えば生物の母性は理屈では解ききれない"なにか"があると感じるのは事実なのだから。
そして内村鑑三は言っていた。武士道に足りないのはキリスト教でいう「愛」の概念だと。
儒教だとそれは「仁」に踏襲されているが、やはり武士道には儒教のほかに道教つまりタオイズム的な精神があり、禅という個人的な精神の錬磨が基軸となっているからそこは必ずしも不犯ではないにしろ、不犯的が故に異性や隣人といった生活臭のする愛の概念が芽吹かないのだろう。
日本人男性はたいがい夢見がちで思い込みが強い。
それ故に武士道さえ超越したような歴史に名だたる剣豪が幾多も生まれたのだろう。
彼らは皆一様に、見えないものが見えていた。
伊庭八郎だったか、彼は誰かが自宅へ向かってくるのが分かったという。
チベットの高僧では今でもそのような僧侶がいるらしい。

社会と縁を切らず、目に見えないものを見ようとし、人として大事なことを裏切らない、そんなささやかな夢を一人の若者が見ることを、世界は赦してくれるだろうか。


2014年7月13日日曜日

社会的な発言はしない。と言った優柔不断さ。

私は考えるのが遅い。
早くしたいとも思わないが、よくまあ世間はメディアの情報のスピードについていけるものだと感心する。
おそらくもう、集団的自衛権など"時代遅れ"なのだろう。

集団的自衛権、官僚とお金、多国籍企業の文化習俗の蹂躙、国を動かす考え方や価値観等、自身の未来のためであるから必死で考え情報を精査する。出来うる限り。
その結果みえてくるものは、やはり個の集合体としての全体であり全体の一部が個であるという、部分と全体の関係において結果的に個々が生活を営む中で培う精神規範、行動規範に踏襲されていくということである。
かつての日本においてそれらの根幹を成していたのがいわゆる「お天道様(世間様)に申し訳ない」という、神仏習合が踏襲する「天」を仰いだ宇宙観であったというのが明治期に日本を訪れた諸外国人の日本人へのリスペクトであったのではないか。

選挙の投票率にはじまり異性やお金に対しての個人単位の価値観が、結局は社会という全体を構成しているわけであるから、やみくもな全体意識や教育による洗脳等の被害妄想が「天」にすり替わったということが現代社会の問題の根幹にあるのだと考える。
教育現場において選択問題が主で個人で考える時間が与えられないなどという安っぽい洗脳ならば、個人の意思や意識でなんとでも現状は変えられるはずなのだ。食品偽装も然り、情報より先に舌で気付くことができない消費者にも十分問題がある。我々は提示されているもの以外にも「選択する自由」というものを民主主義として保持しているのだから、提示されたものを疑わず従っていれば幸せなのだと思い込んでいる人間が悪いのだ。そんな人間は世の中が良くなろうと悪くなろうと関係ない。
とうに考えることをやめてしまっているのだから。

社会機構や現状を批判する精神もしくは感覚的な違和感は往々にしてあるものだと思うが、それを個人単位で向き合い考えきちんと個をとりまく全体へ浸透させ自身の環境を造りあげていくという部分で、コミュニケーションの不足やTwitter等の情報の速度による翻弄や競争原理を失い骨抜きにされた無駄な調和への滅私奉公がうまく個々の生活のなかで噛み合わないのだろう。
ここでも選択の自由が行使されていない。人も情報も選択するのは自由なのである。しかし、何度も記載するように自由とはもともと仏教の言葉で、自らをもって由とする。英語のFreedomと混同してはいけない。厳しい自己責任の世界の獲得である。

最近ではようやく負の扱い方のような発言や著作がいくらかでてきたような気がしている。例えば負け方や有用な関係性の破壊、つまり喧嘩についてなど。
集団的自衛権のなかで透けて見えるのは、明治以前から変わらぬ島国独自の強さや大きさや異文化、異世界への憧れ、まさに恐外病という日本の根深い病巣である。小さくても十分に文化的にも精神的にも強かったのに、自ら鬱や自殺に歩み寄るような形でしか国民国家を形成し得ないこの島が、憎らしいやらいじらしいやら、複雑な気持ちにさせる。

結局のところ最近の文末でいつも記しているとおり、個人ができうる限りのことを精一杯やり尽くすしかないのだ。無論、奥さん子供のためにというのとは全く別で。世界が少しでも善くなることを願うなら、少しは他力本願な税金以外での社会貢献とはなんなのかと考えるべきなのだ。
震災で考えさせられ、考え続けていかなければならないことは、人間はなぜ生まれ自身が生まれた以上なにができうるのかそういうことを少しでもいいから個々人が考え尽くすことではないのだろうか。一過性のボランティアで、行った人間もそれを報道でみた人間もそれで終わりにしていないだろうか。行った行かないで安易な評価を作ってはいないだろうか。
現実に向き合い続けること、考え続けること。そういった継続的な意識のみが世界を変える力を持つ。インターネットの過信は、まさにその継続性においてあまりに脆弱かつ責任が希薄で、意識と身体性はただの0と1で構成された虚しいデータと化されてしまう。

大事なことは、家族を不都合なことを考えなくて済むための盾に使わないこと。使途が不明確なお金を求めないこと。つまり唯の鉱物と紙きれの"お金"を見て安心しないこと。乗り物に過信しないこと。それは時間を取り戻すということ。世界を多角的に捉えること。目に見えないものを独自に見ようとすること。自身を少なくとも身体と精神の二つに分けて捉えてみること。身体とお話すること。

そうすると、勝者とか勝ち組とか人に認められたいだとか、そういった自身の足腰を重くし界を限るするくだらないものがきっと無益無用で非本質的なものであると気付くだろう。口調が穏やかになって笑顔が増えるだろう。例えばアンチエイジングだって何故かみんなが羨ましいスター気質(笑)だって、そういった意識と身体性が創り出しているものだと私は捉えている。唯、そこで気に入らないのがそれらの細胞の活性化や心の余裕が未だお金に担保されたものであると喧伝されていること。それら広告に憧れしゃにむに働き心は荒み愚痴っぽくなっても、喜ぶのは金が入る政治家と企業家だ。

とにかくとにかく、生き抜くために考えることが大事だ。いつしか身体が軽くなり、足腰が柔軟に動くようになったなら、行動という本当の意味での社会活動をしてみるべきだ。そこからが、本当の「自由」といえるものなのだから。

私は自由だが金がない。だがしかし、なんて幸せな気持ちなのだろう。別に日本に居なくてもよいのだし、こんなダサくて堕落した国に恩を返す義理もない。
気にしなければならないのは母のことだけ。あの人に幸せになってもらわなければ、生まれた価値がない。母子家庭がうちだけでないことは無論しっている。そういった自己陶酔型親孝行志願ではない。世界もArtも関係なく、ただただ母への感謝が年々積もる。こうした時に、なんだかひどくちっぽけな存在だけが宙に浮いた自分という存在を、どこか遠くから眺めているような錯覚に陥る。

未だ多次元的な世界と自身の距離のようなものが測れずにいる昨今である。
文末次第で公に開かれた言論空間であるはずのBlogはただの日記になる。それならそれで。といったところか。


2014年7月4日金曜日

思考転換記

あらかじめ記さなければならないが、私は無宗教である。
私が好むのは宗教以前の厳かな"なにか"と国民国家以前の風土である。

さて、我々の持つエネルギーは2つに分けられる。
それは、身体エネルギーと生命エネルギーである。この2つは共鳴関係にあり、互いの振動がシンクロしている。
ただし、決定的な差異があり振動や波長は多次元を共有できるが身体は三次元においてしか機能できない。
紐理論上で最細分化された紐が振動しているのは多次元化すればするほど動性は顕著になり世界を構成する要素の根幹を成す。その動性の最小単位が振動である。人間でいえば小刻みにブルブルする、震えだ。そしてまた、その次元の大きさも凝縮され質量のみが嵩んでいき最終的にはブラックホールとなる。
おそらく、三次元に近いところの次元に意思や思考、いわゆる気だの霊だのが属する燃焼とは関係の無いエネルギーもしくは情報体で構成される次元が存在する。
そしてリサ・ランドールの「五次元の宇宙」にあるとおり、次元は振動する薄い膜であり、その間を弱い重力が行き来している。そして、前述の意思や思考などの生命エネルギーもまた、おそらく次元をまたぐことができるのだ。
次元においての存在は、低いところから高いところへいくことはできないが、高いところから低いところへ行くことは可能なのである。
時間が方向であるとすれば次元は界そのもの。唯一、固有の時間を有しているのだ。

個々の生命エネルギーは、たゆたう間にふと産まれた赤子の身体に呼び寄せられてしまう。
中にはその中でもある特殊な生命エネルギーのみに強く反応が出てしまう波長を持った個体がある。
いわゆる超状現象や心霊体験が頻繁にあるタイプの個体である。
匣によってはそういうアンテナのような役目をする波長を持ったものもあるかもしれないし、生命エネルギーの方が元いた次元の残り香のようなものを引きずっているのかもしれない。
いづれにせよ、一歩間違えると下世話なオカルト教団の文言になりかねないので注意しなければならない。

我々は身体という匣に入った時からいくつかの制約下で生を全うしなければならない。
生を全うすることで更なる高次元におけるエネルギー体に変化するためだ。
幽霊というものに、あまり良いものがないのは生を全うしきれずエネルギー体の意識が三次元に取り残されてしまったからだ。
我々はこの世界に生きているかぎり意識と身体性を最も大切にしなければならない。
身体を持たずにこんな低次元下でエネルギー体としていつづけるのは大変な苦痛だ。
しかも次元をもはやまたぐことができず、やがて霧散する、つまり、本当の死、本当の消滅が待っているのみである。

倫理道徳だけの話ではなく、戦争や他殺や自殺は生命エネルギーとしての存在に対してあまりに酷い。
宿主を失った子供のエネルギー体が無邪気に走りまわったり、思わずどこかの母性に引き寄せられてしまうのも、唯々、自身の匣が失われたことに気づいていないからだ。
故に復讐心すら起こらない。
我々の身体とはまさに蛹のことなのだ。

近代から続く致命的な間違いの一つは物理・科学と宗教やアニミズムを切り離し、存在を三次元に限定しこの知覚を完成体としたことだ。
無論、数式によって担保された理論物理の定理は空間上のある一点において究極の絶対性を発揮するが、それらを繋ぎ合わせてみても、実は世界は記述できないのだ。
祈りを真面目に化学しなければ、我々はいつまでたっても生命の源へは辿り着けないし、人間という匣を特別視している限り魂の謎は解けない。
なぜなら、生命エネルギーには個体差があっても型はないからだ。
人の生活に近い猫や犬が人間じみていて、ときに不思議なことがあるのはそのためである。
我々は人間である前にあらゆるものであったのだ。

我々はこの身体に入ってしまった以上、個の正しい喪失をもって世界に霧散し高次元のエネルギー体に還らねばならない。
そのために身体を維持するための合理的機構として社会を造り上げてきたのだが、國の根幹から祈りが消えた時点で既に道を外している。
なぜなら祈りは唯一、我々が三次元以上の高次元を感得または意識することができる道すじであり、大変に重要な能力であったから。
奢れる者は久しからずだ。

生を全うするという意味で、我々は身体機能をサボらせてはならない。
"楽して儲ける"では、蛹の中身は正しく成長しない。
生を全うしても意識が三次元にへばり着いたまま高次元へは辿り着けず、どこかの次元の狭間でそれはそれで苦しい思いをすることになる。
資本主義の落とし穴は堂々と闇の口を広げているのに、気づけずにいる人類はもはや滑稽の極みに達している。
あらゆる社会問題の中枢にいる人間は、いわゆる勝ち組とたかをくくっているかもしれないが死後に自身の生が歪んだものであったことを知るだろう。

さて、社会がこう出来上がってきてしまっている以上、もはや抜本的な改革は不可能だ。
実は哀しいかな。
正解は自身に合った生き方と生きる場所を自身で見つけ、そのための努力を惜しまず善く正しく社会生活を営むほかはない。

身体には寿命がある。
心臓の鼓動はあらかじめ決まっているのだ。
保有する時間の量と速度は個体によって異なる。

汚れている暇はない。



2014年6月30日月曜日

ある晴れた日曜日に

思うところあり、今後、政治・思想的発言を控えようかと思っている。
結局のところ、自身の保有する時間と生命を維持するための糧を得るために一番合理的なことは、用意された規則の中で適度に欲望を持ち用意された選択肢の中でその欲望を満たし、生の儚さに保険をかけ万が一の時にそれまでの所得の積み立てでサービスを受けられるようにするということが生命維持と種の保存において最も有効であるという見解を持ち得た。
血沸き肉踊るようなドキドキやパッション、まさに生きている!という躍動が大好きである私は唯々現行の社会とは相反するというだけのことであり、洗脳を受けない代わりに厳しい自由を手に入れたとしても何ら他者との関係においてその差し引きの構図上では同一的な結果であると考えた。

よって、これまで作品制作活動で行ってきた身体性による現象の蓄積は個々が個々で保有するものの差異を感得し、より善き集団的理念を持ちうるのだという思想もしくは理想のためにあるのではなく、三次元の束縛を肯定的に捉え多次元空間におけるエネルギー体としての存在を彼岸として、此岸においての観念的な在り方をある意味、諦観し生ききるまたは認識しきることが三次元における個のできうることの最大値を示すという方向で考えていきたいと思っている。

つまり、我々の身体は匣でありそこに生命エネルギーが張り巡らされ脳は三次元の束縛においての感覚・思考器官であるから、肉体の死は生命エネルギーを多次元に解放するための存在の多次元化である。
むしろそこにこそ本当の在り方があり、我々はいたずらに匣に閉じ込められた哀しい存在である。
まさに祈りはそこから生まれ、この世界の危うさ、人間の不安はすべてこの中途半端な低次元下でしか生きられない我々のあまりに不確かで限りある生へのおののきであると、天気の良い日曜日の昼間に思ったのだった。

三次元の鍵を握るのはまさに重力下に敷かれるこの身体とその世界をのみ感知し合理的に演算する我々の脳である。
多次元空間を観念的に理解できないから、我々は現行の社会システムに抗えないのだ。
誰が悪いのではない。
この三次元の中でしか生きられない我々の限界が皆もどかしいのだ。

この身体が生み出した現象を脳が感知し、進むべき方向を定められた時間によって蓄積されていく。
これが、窮屈さを逆手にとり流れに身を任すことで生を生ききるための、私の考える「人間の行う三次元の純化」である。
おそらくこの三次元下における生き方次第が次の生命エネルギーの解放時における在り方にかなり影響をしてくると私は考える。

脳と身体を飛び越える。

そんな考えに夢中になっている今日この頃。
晴れた夏空がそうさせるのか。


2014年6月29日日曜日

いつもこころに、「最悪」を。

ただただ生の不安から逃げるかのような浮わついたW杯の狂騒の中、すっかり社会からは震災が忘れ去られていた。
渋谷で狂乱を演じた若者達は、震災時には一体何か思ったのだろうか。
メディアの報道次第でやれ復興やれサッカーとなって、今では応援していた手のひらを返し代表選手のこき下ろしに躍起になっているのでは世界大会としての意義は皆無になる。
そこに降って湧いた高慢な脳無し都議の稚拙極まりない女性蔑視発言。
女を生む機械だと言った類の馬鹿野郎がまだまだあーいうところには若い世代から根深く育っていることが顕在化された。

この短期間だけでも、暗澹たる日本の未来をいやというほど見せつけられた。
これでも、この期に及んでまだ政治から社会から人生から逃げるのか、同世代の若者達よ。

想像してみよう。
首都直下、東南海、千葉東方沖、そして最悪のケースはそれらとの連動による富士山噴火。
地震だけの場合、首都機能は地震後1週間程度で回復を始めるだろう。
注意しなければならないのは火事である。火事になった場合、下町などの住宅密集地は地獄と化す。
急発進の復興に向けての閣議の継続は可能だろう。
永田町付近の首都機能は被害が少ない方になるはずだ。

しかし、富士山噴火となるとそうはいかない。
まず首都機能は火山灰により完全麻痺するだろう。
ガラス質の灰である。
外出は大変な困難を要する。
電気ガス水道の全てが利用不可能になる。
回復の目処は予想がつかない。
閣議の継続はスカイプなどのネット利用となるか。
もしくは人的首都機能移転の末、京都・大阪あたりを再開発するのだろうか。

いずれにしろ想像を絶する大変な混乱と被害は間違いない。
この場合、システムを含めた日本の土台からの再建となる。
その際、混乱に乗じ都合のよい国造りが復興政策と抱き合わせにしてすすめられることは間違いない。
これまで官僚にとってのみ都合の良い、民意から反対を受けていた政策は臨時閣議によりメディアの目に触れることなくやすやすと可決されるだろう。
全ては"復興"の大義を後ろ楯に。

方向としては確実に"強い日本"へ向かっていくだろう。
軍の配備に経済力の成長保持、情報だけではなく社会システム統制の強化。
移民を大量に受け入れ復興、軍事機器の内需拡大による労働力の確保をするだろう。

どう考えてみても、現在の安部内閣周辺は「富国強兵」のスローガンに憧れているようにしか見えない。
是か非かではなく、細部を精査し丁寧に議論を進めていかなければならない重要な事案であるが、震災はそれらを全て一つの権力の元で推進していく隠れ蓑になる。

そして、一番の悪いケースは大地震が地球全体で群発しそこに原子炉を狙った世界同時多発テロが起こることだ。
フランスなど一瞬にして消し飛んでしまうだろう。
個人的には、文化的素養が高くARTへのリスペクトを惜しまないフランスが消し飛んでしまうのは残念でならない。

世界の原子炉の位置と場所を地球儀にマッピングするだけで、十分に人為的な世界滅亡のシナリオが見えてくる。
この場合においても、自然災害は格好の隠れ蓑となるのだ。
官僚もテロリストも大差はない。

これらのことを踏まえて如何なる行動にでるのかは個人の自由であり、そこにこそ生き方というものが顕れる。
知らぬふりをするのか。何かするのか。耳をふさぐのか。

正解は、ない。
ただもはや、個としてより善く生きる他はないだろう。
しかし、利潤を前提とした幸福ではなく、本当の意味での幸福を考え生きる力を蓄えておくこと。それだけは必定であると私は思う。

皆、恐れているのだ。
だから皆、一見してポジティブに見える事象に狂喜乱舞するのだ。
悪いものに目を瞑り、未来を明るいとばかり信じてはいけない。

その盲信が未来に暗雲を立ち込めさせることになってしまうのだから。


2014年6月16日月曜日

デッサンパフォーマンスを終えて

人知れず、人と文化が交わる場所― 美容室 Overlandでの個展は今月23日(月)まで延長させて頂いている。
そして本日、林檎のデッサンパフォーマンスの最終日を迎えた。

たいした感慨などないのだが、ただ経験としていくつかの重大な経験をさせて頂いた。
捕捉として、たいした感慨がないというのは決してネガティブな意味ではなく、ただやるべきことをやっているという自負に他ならない。

一つ、デッサンには終わりは無いのだということ。
絵画でも彫刻でも同様であるが、デッサンの根源性は宇宙の根源性に似てまるで一粒の砂粒が存在するには一つの宇宙が必要であることに基づいて、宇宙を再構成しているようである。
一つの林檎にはまさに一つの宇宙が内包されている。
林檎のデッサンも、1億枚あればARTになるだろう。
いつかトライしたい。
聖書によれば、善悪を知る林檎を食べてアダムとイヴは地上に堕とされたらしい。
地上の楽園のうえに造り上げたふしだらな世界のケツを拭くのは今一度、善悪とはなんであるかを見つめ直さねばなるまい。
そいうことを"智性"という。
お受験勉強は知識であって智性ではない。
智性とは個人の精神規範と行動規範にまで及ぶものだ。
知識過多の人間は、無意味に哀しい。

デッサンというのは、対象と自分に没入するなんとも丹念で愛しい行為である。
そういった意味で、描くという行為は祈りであって懺悔に等しくもある。
そして俗に言う、「林檎が描ければなんでも描ける」は本当かもしれない。
林檎ひとつの中にデッサンとしての全てが在ると思われた。
生きた自然物であり球体であり食べ物でもあり色が鮮やかだ。ヘタに木の幹と大地を感じる。
基本を学ぶうえでも最適なモチーフだと考える。

次に、電車賃を払い常に赤字を出しながら無意味な労働としてのデッサンをただただ一生懸命にやることで、ようやく私は久々にMemory Codeの感覚に入り込んだ。
無意味で激烈な労働性。これぞARTだと思わずにはいられない。
生産性と非生産性のあいだに在り、万物換金主義と時間の有用性に真っ向から対抗しうる現代アート、プロレタリアの芸術的革命である!
現に私は肉体労働で糧を得ている。
徹頭徹尾、私は身体性に埋没できているのだ。
幸せである。
身体で稼いで身にもならないことに必死で金を使う。
これぞ、ART。
ARTはひっそりと激烈に日陰で花を咲かせるのだ。


どうか僕を幸福にしようとしないでください。
それは僕にまかして下さい。

アンドレ・レニエ「半ばの真実」


ただ官僚と役所の阿呆を食わせるために小中高大就職結婚出産出世という生き方を"幸福"だと押し付け洗脳し、そこからはずれた生き方を選択する人間にはすこぶる生きにくい日本社会である。
私はこじきのようで構わない。
良寛のように、西行のように、明恵上人のように在りたいのだ。


幸福がそんなにみじめなものなら、幸福から私を救ってください。

ジャン・ジロドウ「間奏曲」


かつてROCKが、PUNKが生き方そのものであったように、ARTも本来は生き方そのものなのである。
個の判断基準が何かしらの結果として作品化されたもの。それがARTの源泉たる表現である。
それが社会的になんらかのポジティブな作用を持つものとなり、ARTとなる。
ARTはその根本において反逆ではあるが、反戦争、反差別、反自然・固有の文化習俗の破壊なのである。
それは、ARTの源が生命に基づく人間の源に起因するからだ。
生命に基づく人間の源は、細胞膜の内と外という彼岸と此岸の境界線以外では、地上の悲惨でくだらなくて腹立たしい人から人への被害の全てを包括する。
まるで観音菩薩のように。

言葉上、説明をするために現実の社会問題に言及せざるをえないが、本来、私が信じるのは宗教以前の神、国民国家以前の風土である。
ただし、ART以前のARTはない。
芸術も然り。

なぜなら、それらはすべて祈りや呪力の象徴であり手段であったから。
この世界に機能や意味のないものなど何もない。それ以前の原宇宙的なものは、"この世"のものではない。
ただ、我々が愚かすぎてその機能の正しい扱い方を知らないだけなのだ。

むしろ機能はただただ待っている。
いつか人間が自己の過ちに気づき、正しく世界を起動させるのを。


2014年6月9日月曜日

肉体労働歌



露時雨

雨に怯えて

空が泣く



「空が泣いている」
「悲しいの」
「いや、恐いんだ」
「自らが失われていくのが、恐いんだ」



逃げるように酒を呑む。

そして、言い訳をしなくてもすむように全てを忘れてしまうのだ。

失うことが辛いなら、全てを忘れてしまえばいい。

生きるということは、弱さとの付き合い方が肝心だ。

泣いて世界に還るあの雲も、もしかしたらその存在の耐えられない軽さと共に在るのかもしれない。

今日も板橋の鉄工所にて溶接と切削・研磨作業の仕事を終えて、ぽつりぽつりとバスの窓にあたる雨粒を見て池袋までの30分ほどを詩情にまかせた。
雨は嫌いだ。でも、嫌いというには放っておけない、自身の一部がその湿度の中に巣くっている。

素敵な5月が終わり、夏がむらむらと待ち遠しい梅雨である。
巷には、そんな梅雨を吹き飛ばすべく惜しげもなく華を散らすように露出の高い女性が溢れかえる。いや、燃え上がる。
そんな夏の熱気に狂う日本は、今年は如何なる狂態を曝すのか。

そして私は、そんな狂態にいつまで付き合えるのだろう。
愛を捨ててしまった私には、今ではまるで死は親戚ほどの距離である。

隣人から親戚へ。兄弟から双子へ。最後は完全な同一化。

やりたいことが多すぎる。まだ、死ぬにはあまりに早い。


アフリカに

恐れをなして

死を思ふ



自嘲である。


2014年6月6日金曜日

反、反捕鯨

楽天が鯨肉の販売を「禁止商材」に指定した。
海外にもマーケットを持っていて、更に拡大を目指すためには企業としてやむを得ない選択であったことはまず前提として頷ける。
しかし、メディアの伝え方は的を得ていない。
これではただ、まるで鯨肉が悪いかのような印象を与えるかもしくは浅薄なシーシェパードや反捕鯨団体批判しか生み出さない。
無論、シェパードや反捕鯨団体は暇すぎて自身の攻撃性をどこに向けてよいやら分からない精神病者と金銭目当ての弱いものいじめを生業とする暗い陰惨な連中ではある。
しかし、原発問題しかり物事を是か非かで二極化し論じ歴史的に失敗をし続けている日本である。
そこに情報の速度が加わりただでさえ島国から外を見据えた思考が不得意な日本はもはや白痴の判断力に落ち込んでいる。
だから、ここにおいてこそメディアの姿勢というものは極めて重要なのである。

どう扱ってよいか分からないから取材もしないなどジャーナリストも半チク以下だ。
地産地消している食材の在り方をただありのまま伝えれば、あとの判断は自ずとされる。
いくら学問から精神規範と行動規範が喪失し判断力が低下しているとはいえ、我々はまだ思考能力を失ってはいない。
現代の私達にまず必要なのは情報に対して足を動かすこと。
指先でチャラチャラと情報をこねくりまわすのではなく、できうる限りきちんと裏をとること。
実は情報とは個人にとって真実ではなくただのきっかけにすぎないのだ。
実感覚を伴わない情報に意味は発生しない。
捕鯨に関していえば、まず見に行くこと。そして食べること。
もしくは、それ以前にまず自身の周辺を拡大し興味を持つこと。
いずれは宇宙の感得にまで至る。

完全なプロパガンダ映画を見てただの狩りと食事を非人道的などと言うスーパーナンセンスな発言は夢遊高次元の人間様のとるに足らない妄言である。
大義名分をこしらえて食べもしない殺戮を同種でしまくっている非生産性に、一神教的合理主義は気づいていないのか。
もしくは正面から見据えられない自らの弱さを、より弱者に怒りや批判としてぶつけることで逃げているのか。

脳内に無意識に入り込み現代の人間性を構築してしまう洪水のような情報をコントロールしなければならない。
そういった意味で捕鯨にまつわる文化的視点や企業や国の判断、反捕鯨団体の表裏は我々日本人にとって情報を実感覚を伴って思考し、島外の意識を捉えるためのよい実践題材的現代社会の問題の一つである。

そして、鯨肉は美味い。
美味くなければいくら栄養価が高かろうが保存がきこうが文化にはならないのだ。私には対外的に示す文化的正統性など、どうでも良い。
ニタリ鯨、イワシ鯨、ツチ鯨、ミンク鯨の差が分かるほどに私は鯨を食べた。
ちなみに私が知っている美味い鯨肉が食べられる店は、湯島の「海鮮居酒屋 一心」と神田の「くじらのお宿 一乃谷」だ。
鯨肉を食べようと思った動機はシーシェパード及び反捕鯨団体のあまりに押し付けがましく失礼極まりない振る舞いと、資金力を背景としたプロパガンダに政治経済的な意図を感じ怒りを覚えたからだ。
「何処かに鯨の肉を食べている人がいて、なんか外国人が批判している。鯨は昔給食に出てたんだって」
では、私の意識は赦せないのだ。
そこで赦してしまっては思考性は育たない。
自身の思考性を育てるのは自分自身である。
何故なら我々は本質的に自由だから。
自由とは自らを負うことだ。

そして最後に、これら諸問題はArtistとして社会存在(末端とはいえ社会を構成する一部)としての"私"に踏襲される。
何故なら、ARTとは自由に担保された時代の鏡像、未来の示唆であるから。

幾度かひいているが、やはり今でもセザンヌの言葉は光彩をはなつ。

「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」

時代と芸術が切り離せないものである以上、時代を構成する意識や速度や情報といったものとも切り離せないのが、芸術およびARTというものである。
故に、捕鯨問題しかり原発しかり集団的自衛権しかり日中、日韓、日米関係しかり情報統制しかり、環境、食料問題しかり、私は常にARTの視点でもって思考し答えられねばならないのだ。

社会存在としてのArtistは違うが、ARTは普遍で自由だ。

そこがいい。