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2014年3月20日木曜日

記憶の暗号 ー 20世紀のわすれもの/異胎の訣別 ー

我々はより善き人間粒ではなかったか。 -ハンス・アルプ -


人間は素晴らしい生物だ。ホモエレクトゥスこのかた我々は長距離ランナーとして身体を創り上げ、脳の肥大化は記憶と連想と想像と創造を司る。
我々の身体は生きるために変化をしてきた。方や脳は生きるために発明をしてきた。記憶し記憶を元に連想をし、連想をもとに想像し創造してきた。
いつしか人間の身体は脳と分離しはじめる。我々の誉高き産業革命である。あらゆるものにスピードが加わり人間は身体性と時間を加速させ始めた。
消費が加速され流通が生まれ社会が生命を帯び始める。
もはや一日に徒歩で何キロも移動する必要はないし、人力で人や物資を運ぶこともない。しかし一方ではそのために工夫され培われてきた文化は衰退し、育まれた地域性も均一化の道を歩み始める。移動や生産の速度が増せば時間間感覚も速度を増し、電燈のおかげで日夜問わず生産と流通の速度は保たれる。最初は真新しかった速度感覚にも膿みはじめ、やがて頭の何処かに本質を想い浮かべる。社会に対しての疑念がわき様々な社会理論が排出される。
流通と生産の速度に膿んだ心は暴力を生む。自身の痛みと他者の痛みが同じであった頃、我々は命と傷を相互に分け合うことで集団生活を営んできた。
ある時、ボタン一つで大量の人間を殺戮することができるようになりここで身体性と脳の処理能力と他者の痛みが分離することとなる。
他者の痛みが分からないということは自身の痛みにさえ鈍感になるということだ。何故なら自身と鏡像関係を結ぶ愛しき他者を傷つけることに慣れるということは自傷行為にほかならない。自分の時間や生活を本当に自分本位に豊かにしたいと願うなら、つきつめていくと他者の存在に行き当たる。個と他は融和し主客の分離以前の胎動を感得する。"私"は"あなた"に存在を担保され"あなた"は"私"に存在を担保される。あなたは私で私はあなた。ここに愛しき鏡像関係の堅い契約が結ばれる。
脳は高度な生命機械である。合理性を追求し永遠の創造のスパイラルを生み出している。遺伝子は種の保存と繁栄を命じ身体は精巧な機械である。それぞれがそれぞれに正しい行いをし、バランスを保ち動的な善き関係秩序を創り上げることで我々の存在は危うく崇高な美を獲得することができる。
それは社会秩序にもそのまま当て嵌めることができ、まさにそれは釈迦という一人の美しい人間存在を信じた明恵上人の「あるべきやうわ」を思い起こさせる。今の我々が関与し創り上げている社会というものは、社会の"あるべきやう"を履行できているだろうか。
本来、価値観の齟齬を解消するための共通価値として貨幣が生み出され、労働が正しく評価され誰もが努力を報われるために資本主義は生み出されたのではなかったか。我々の脳は幸せになるために創発的努力を惜しまないのだし、我々の身体は大地を踏みしめ走るために変化したのではなかったか。優秀なバネとしてのアキレス腱を造り、重く揺れる頭部を支える骨を造り、生体的制約に縛られない呼吸器を造りあげたのは、毎日死んだ目をして電車や車に揺られ椅子に座ったまま指先で数字を動かし利益の名の元に格差を生み、資本的弱者からの搾取と収奪の言い訳をし争いの火種でさえ換金するためではないはずだ。
我々はあるところからそっくりそのまま身体性を置き去りにして変化を進めてきた。それも物凄い速度で。身体性をゆうに超える関係速度はそのまま時代の価値観と時間感覚を生み出し、合理性を追求する脳は疑念より順応を選んだ。その結果、人類の共感能力は衰退し単純な欲望だけを身に纏った生体ロボットへの道を歩み始めている。せっかくの我々の身体と脳はいまや完全に分離を果たそうとし身体は哀しき死を纏う。うまくやっていたはずの蜜月は、いまや圧倒的有利な一方が他方を死に追いやろうとさえしている。
思えば世紀の変わり目は素晴らしい機会であった。我々は戦争の20世紀を見直し21世紀というまた新たな100年を如何に善きものにするかを考え話し合うべきだった。何を改善し何を踏襲するか。予想されうることは予想し来るべきものには備えるため、今一度座禅の時間を設けるべきだったのだ。それをミレニアムの乱痴気騒ぎに置き換え只々のんべんだらりと引きずるようにして、今や既に14年という歳月が過ぎてしまった。
日本においては東北の大震災でさえ、なんら見返る契機とすらされなかった。あの震災は戦争と同義である。人類史において我々は常に毎回事細かな確認・復習作業をすべきだったのだ。未来は時間軸で自然に顕れるものではなく能動的に編集をし常に明らかに、常に顕在化させるべく努力を怠らないべきである。
私はある時ふと電車に乗っている時に、その時間感覚が不安に思えた。頭の奥での遠いところで鳴らされる警鐘にふと気が付いた。正しい時間感覚を思い出さなければならない。そして正しい時間感覚はその個体によって異なるものであると。人間の退化しつつある共感能力を呼び覚ましその維持を図るには、何よりその能力を刺激し信じることだ。この時、私のやるべきことは決まったのだ。人間の未来を考えるうえで最も大事なことは、個体における正しい時間感覚を取り戻しそれらを是とする多様な価値観を社会に造ることである。時間感覚を取り戻すためには身体的時間感覚を知らなければならない。そこにはリズムと体力がうまれ脳内では思考が育まれる。単純な運動が蓄積され可視化されうるシステムの構築が必要だ。その結果としての蓄積物は私の身体性と時間の純度が高ければ高いほど他者(鑑賞者)の共感能力を刺激すると考えた。それを発表という社会的行為を通すことで私の側からの投げかけは終わることになる。あとは返球を待つばかりであるが、残念ながら自分が投げたつもりの威力と同等の強さを持った返球をもらったことがない。おそらく私の投げ
た球はお上品すぎたのであろう。あくまで美術として"作品"に落とし込むべく立体表現をしてきたが、"彫刻"の認識を逸脱することは叶わなかった。
私はこれより新たな段階に入ろうとしている。立体物が彫刻として観られないように最新の注意をはらいながら、従来以上の強さを発揮するべく。今までは鉄に助けられてきた。それは地球に、宇宙に助けられてきたというべきだ。だからこそ、物体の素材としての存在感が強すぎて私の作品は行為としての蓄積が隠されていた。隠されることによって鑑賞者を作品へ、ひいては自分の方へ引き寄せることができると考えていたが現代の日本人の共感能力は私の力不足を加味しても予想を遥かに超えて衰退していた。自身が他者の表現に歩み寄るのではなく自身の薄っぺらな人生の中になんとか当て嵌めようとする。そんな鑑賞行為を崩すことは容易に、そして短期間で成しうることではない。
日本で生まれ育ち日本に居る以上、日本を想い日本を考え日本を憂うのは当然のことだ。ただし、大事なことはあくまで国民国家以前、身体性と気候風土、民族性と文化においての"日本"についてである。情報を操作し都合の悪いものは隠匿、隠蔽する昨今の官僚のやり方はまさに身体的時間感覚を失った現代病の弊害であり、それを善かれと思い込んでいるあたり誠にたちが悪い。歴史を即物的になしうるものであると勘違いをし、システムの速度と指先感覚でのみ世界と人間を捉える傲慢極まりない観念はまさに時代を包み込む暗雲と化し我々の"日本"を覆っている。
戦争を隠す日本に未来はない。司馬遼太郎は戦中の日本を"異胎の国"と言った。異胎の国とは、本来を失った国ということだ。では、"日本"の本来とはなにか。それは真に身体的で気候風土から立ち昇る文化的、民族的な香気である。戦争および記憶・歴史を分断するということは、本来への道程を潰すということでもある。香りがかげなくなった我々は触覚をもがれた蟻のように、故郷を失った鮭のように、鼻をもがれた犬のように、存在の根底を失うことになる。
戦争をきちんと見つめ直し、異胎の国との完全な訣別を図らなければより善き日本というものも見えてこない。日本の本来に則った造られ方を見失い続け情報の隠蔽に腐心し海外からの意外な角度の発見だけに振り回されていてはいずれ若者は日本からいなくなり労働者としての移民が次なる日本を形作るだろう。
次の世代の移民国家日本は、気候風土と分布の必然ではなく資本を根幹とした乗っ取りの態をなすことはもはや避けられない。
しかし、そうなる前にたとえそれが死に華になろうとも、日本の本来の花を咲かせたい。
そう思うのは、現代に生まれ落ちた日本の若者として当然のことではあるまいか。文化に救われた一人の人間として、気候風土と文化と民族性を愛したいのだ。そして世界共通、人類としての身体性を想いARTで表現をし続けたいのだ。
これは気楽な趣味の我が儘か。それとも世界を救う活動か。それはきっと、私の未来が示すだろう。もしも私のような人間がアーティストになれたなら私はARTを、世界を、人間を信じて良かったと心から想えるだろう。
渋谷の松涛美術館で開催されている「HI-RED-CENTER 直接行動の軌跡 展」を見てきた。
まず、この時代が羨ましく愛すべき日本がまだここにはあった気がする。
時代の香気をふんだんに含んだ展覧会だった。そして今も確実に在るARTの本質もここにはある気がする。
やはり、人は人に感動するのだ。ものであれ何であれ、そこに"人間"を感じるから人は感動をするのだ。ARTは神のものではない。人間のものだ。明恵上人が仏教だの経典だのではなく釈迦という美しい一人の人間を信じたように、ARTには、"美"には本来そういった求心力が備わっているはずである。
HRCの直接行動の中に形象としての美はないが、デュシャン以降の観念の芸術、鑑賞者に"なにか"を喚起させることが意義である芸術を踏襲した社会的芸術活動として、非常に価値があり意義深いものであると私は思う。これらの直接行動を担保するのはひとえに覚悟のみである。その覚悟が、武士道の人間美とつながるように思えるのは言いすぎだろうか。いわば武士道の人間美におけるパロディー、観念のPOP化だと私には思えたのだ。
中でも秀逸なのはやはり赤瀬川原平の千円札だろう。何より馬鹿みたいに裁判までして世間の注目をARTに集めたこととして、勝ったのは間違いなく赤瀬川原平だ。ただひとつ残念なことは裁判に負けたということだけ。この阿呆くさい勝手な威信をかけた鼻息の荒く田舎臭い警察や官僚の直接行動は、そもそも日本が世界から見てなんとなくダサい理由の一つだろう。猿山の大将が大好きなのだ。まず笑いがないというところにおいて、大人としてのたしなみができていない。
日本は笑いと祭りの国である。その根本を直接行動として持ち出す能力に最も長けた人、それが赤瀬川原平であると私は思う。
国民国家以前の日本の気候風土、そこから生まれる民族文化の香り、これらを正しく踏襲するからそれは初めて日本の現代ARTといえるのであり、欧米のアートマーケットで扱われるからといって現代ARTになるわけではない。
日本の最後の現代ARTはモノ派で終わっている。村上隆は間違いなくある種の天才であるがそれはひとつ時代の悪役(ヒール)としてであり、悪役には対する正義が必要だ。
しかし人心は流れやすく若者は自分で考える能力を殆ど失っている。モノ派の時代には皆がモノ派ちっくなものをやっていたし、ダダでもシュルレアリスムでもレディ・メイドでもPOPでもインスタレーションでもなんでもだ。
悪役は正義を渇望する。自身を殺してほしいと願いながら殺人を犯すサイコ野郎のように。しかし、それは自身の存在を担保するのが鏡像関係を結ぶ正反対の他者であるということを感覚的に理解しているからだ。それは自己複製機能を持ったDNAの相補性に起因するものであり、森林多神教の我々はじっくりと座しそこから多くの関係文化たるものを築き上げてきた。その一つが能であり、シテとワキの関係の中に幽玄へ誘うのが能である。茶道もまた極めて関係的で、人対人だけではなくそれはひとえに日本人が何が得意であるかを示している。それは"間"といわれる360°の空間感覚である。それは彫刻的な空間感覚とは別物で、たゆたう風のような目線から捉える体感的なものである。まるで空気の流れを感じるようなこの感覚は、湿度の高い気候風土によるものではないかと私は思う。

さて、脱線に脱線を重ねた話を戻せば、ある才覚を持ち社会への問題意識の高い若者たちが芸術運動を行った。批判もすれば面白がる人もいた。邪魔しようとすれば擁護する人もいた。ここで確認できるのは、今の若者の良い子ちゃんすぎる体たらくと官僚、行政など国主体のものはいつの時代でもろくでもないということだ。この国では文化芸術は育たない。価値観も育たない。だから、せいぜい文化を担わんとする前衛がしゃにむに戦って時代や価値観を形成さていかなければ我々の故郷は本当にいつか個を失い国旗と共に言語と文化と領土を収奪されてしまうに違いない。危機感のあおりは選民政治と国軍を生み情報統制と洗脳がはじまる。

芸術は、こんな時に生まれる。その胎動を感じるからこそどのような悪態も邪魔も蔑みも無理解も耐えられるのだ。
全てに反対してやろう。時代に反発してやろう。

私にとっては文化的な戦いこそが、人生だ。


2014年3月17日月曜日

どうも最近は謙虚さと冷静さを欠いたミスが多い気がする。
なんとなく身体の軸がずれているような感覚。
まずいことになる前に、自身の建て直しが必要だ。
情報と連絡手段を精査し不必要なものを極力排除し整理をする。
書き出して序列をつけることは得策である。
運動をかかさない。
一人になる。集中する。酒もひかえようか。それは少し悩む。
とにかく集中。自身の内奥とARTにのみ生活を還元する。見えすぎる目は当分ふせることにする。生活を整える。ルールをつくる。自然にふれる。
問題の根幹を見つめる必要がある。
整理能力が問われる。
大丈夫。呼吸を整えて。鼓動を数える。水の流れを想像し風を意識する。五感を研ぎ澄ます。何を持って何処へ行って何をするのか。
"一人"の原初に立ち返る。産まれなおすんだ。
上半身と下半身がばらばらだ。上半身を休め下半身を使う。足と腰が重要だ。背筋を伸ばしてなるべく遠くを見る。早すぎず遅すぎず。自身の身体とのみ会話をする。
これはある意味、緊急事態を控えた警告だ。
大人しく、熱を失わず、溜め込む。温存する。蛹になる。
少し、木陰で休む。

大丈夫。私はまだ正常である。



2014年3月16日日曜日

お久しぶりの

最近、めずらしく滅入ることが多かった。何より少しでも社会性に触れる内容の発言に対し必要以上に神経質になるに伴いFacebookでの活動ができなくなった。
理由は個人的なものである。
しかし、長い時間(私にとって)をかけ考えるにあたり文化的なことにのみ終始していれば差し支えないであろうという終着点に至った。無論、文化は社会と切り離して考えることはできないものであるという事実に則ってのことである。つまりは直接的ではなくともより比喩的、示唆的、暗示的な在り方というものがあるであろうということだ。
誰に説明するにしろ、誤解というものは免れない。何故なら私が社会的もしくは資本主義権力構造の弱者であるからだ。とくに日本において、それは死活問題であり致命傷である。私の言動は常に都合の良いように婉曲され誤解されるのがもはや避け難いものである。否、各々勝手にするがよい。憎まれ役なら買って出よう。それで世界が少しでも本当の幸福に近づくのなら。
これらを踏まえた上で、私は2020年のお寒いオリンピックを予想したいと思う。これは仮にだが、もし次なる巨大地震が列島を襲った場合、オリンピックはたいへんお粗末なものになる。最低なのは官僚の意識で、それを見越した上で自身の生活基盤をあらゆる面で防備しておいて各国からの災害援助・寄付金等で一儲けしようとたくらんでいる。
何が最低かといえば、援助および寄付の金額をあげるために庶民への注意喚起および災害時の緊急宣言をまごつかせ、被害を適度に(官僚の尺度)増幅させてお涙頂戴の舞台を作ろうとしていることだ。もはや残念なことは、こんな単純で浅薄で情けない考えを持つことが頭脳的な確信犯であると酔っていることだ。これは2世3世に極めて顕著な愚劣極まりない愚行・意識である。これらを前提としたうえで、ちんけな批判をビビらずに更なるお寒い予想を勘ぐれば文化・ビジュアル・コンセプトにおいての勘違いと弱さとせこさと卑屈さに満ちたオリンピックが予想される。お涙頂戴路線を中核に据えながらB級(サブカル)とアイドルで脚色し、進級一新とか言いながら古典としての茶道やビジュアルとして受けやすい歌舞伎や能、浄瑠璃、建築文化を盛り込んだ極めて浅いSHOWコンセプトを創出することでしょう。
その言い訳は、「世界が求めているから」
さて、本当にそうなのか。洗脳された阿呆国民がどこまで気がつけるのか、見ものです。

教育も変わらない。洗脳も変わらない。理念は作られる。"あなた"は何処に。
それを考えるならば、ちんけな右傾化に惑わされない本当の"日本"が見えてくるはず。
大事なのは、TVを見ないこと。情報を精査すること。大衆情報を傍受しないこと。とにかく"自分"で考えること。上半身ではなく足腰で行動すること。歴史を正しく学ぶこと。

一番大事なのは、「自分で考えること。」

本当は普通だったことが今では普通ではない。昔、普通ではなかったことが今は普通になっている。高速で移動したり空だって飛べる。でもなんで、こんなに心が荒んでいるんだろう。なぜ隣人が気に入らなくなってしまったんだろう。昔は一つの醤油さしを借りていた程の間柄だったのに。友達はLINEで悪口言い合ったりするものではなかった。涙が出るほど切ない交感があったでしょう。現代の父母、何を思う。
時間の逆行は不可能だ。理論的にも。時代も感覚も戻らない。ならば、新たなより良き世界を想えば良いのでは。時間は分断されない。歴史的現在年としての"今"を考えることが、私は最も重要な人間としての時間感覚なのではないかと考えます。
もしそれが正しく履行されるなら、世界は真の平和を手に入れることができるのではないでしょうか。なにも自宅に噴水が無くたってサウナが無くたって庭にドーベルマンが居なくたっていいでしょう。

今少し腰を据えて、私達ひいては日本の未来を真面目に冷静に考えてみませんか。

本日のささやかな提案です。


2014年3月5日水曜日

寝る前の

なんだか、疲れてしまった。
そんな日は、きっと誰にでもあるのだろう。
情報を全部シャットアウトしてどっかの田舎で気になる全てをゆっくり観察したい。
何に疲れてどうして疲れてしまったのか。
一人の寂しさも、そろそろ一年が経つ。私は寂しいのだろうか。そうではない。
"なにか"を求めている。求めているものは明確ではないが、なにかを求めているということは明確である。時間?お金?愛?アトリエ?安心?希望に満ちた明日?
あぁ、これだ。
不安に疲れたのだ。
これは知っている。たまにそうなる。全てがうまくいかないくせに全てが面倒くさい。世界には努力、それも激烈な努力しか存在しない。さぼっている自身の情けなさが嫌いだ。
人の千倍生きなければ俺の理想は成就されない。社会にもの申したいなどと夢にもならない傲岸不遜を社会的機能まで落とし込むには、私の身体はあまりに不完全にできている。努力だ。激烈な。歴史はそれを明確に示す。考えろ。動け。足腰を使うんだ。不安は勝手な余裕の間隙にはびこるカビのようなものだ。忙殺し殺菌する。膠着しかけた身体の部分を解放する。血脈を激流が奔る。目をひらき、全てを見る。観る。
ここまで書いて、ようやく眠くなってきた。幸せになりますように。そのための努力はなんでもするから。伝えたい気持ちを押し込んで、今日も明日の夢をみよう。
嘘がなくて愛に満ち溢れていてみんなが支え合っているそんな世界。
君とみた夢はどんなだったかな。もう、それらすべてが虚構だったと優しい気持ちが呻くように呟くよ。さようなら。別れというもの。理解するにはもう少し時間がかかりそうだ。
ひと気のない寒そうな山の岩肌で、雄々しく立つ雄ヤギのあまりに立派な角。あの角。今は想像していると眠くなる。強さへの憧れだろうか。それだけ自身の弱さがコンプレックスとしてあるということだ。だからせいぜい強さに憧れる。強靭な肉体。恐れのない心。身についてくる全てのものであらゆる艱難辛苦から身を護る。
護られながらスヤスヤと、スヤスヤと。あるべきやうはなんぞやと、明恵の心の夢をみたい。