最近、めずらしく滅入ることが多かった。何より少しでも社会性に触れる内容の発言に対し必要以上に神経質になるに伴いFacebookでの活動ができなくなった。
理由は個人的なものである。
しかし、長い時間(私にとって)をかけ考えるにあたり文化的なことにのみ終始していれば差し支えないであろうという終着点に至った。無論、文化は社会と切り離して考えることはできないものであるという事実に則ってのことである。つまりは直接的ではなくともより比喩的、示唆的、暗示的な在り方というものがあるであろうということだ。
誰に説明するにしろ、誤解というものは免れない。何故なら私が社会的もしくは資本主義権力構造の弱者であるからだ。とくに日本において、それは死活問題であり致命傷である。私の言動は常に都合の良いように婉曲され誤解されるのがもはや避け難いものである。否、各々勝手にするがよい。憎まれ役なら買って出よう。それで世界が少しでも本当の幸福に近づくのなら。
これらを踏まえた上で、私は2020年のお寒いオリンピックを予想したいと思う。これは仮にだが、もし次なる巨大地震が列島を襲った場合、オリンピックはたいへんお粗末なものになる。最低なのは官僚の意識で、それを見越した上で自身の生活基盤をあらゆる面で防備しておいて各国からの災害援助・寄付金等で一儲けしようとたくらんでいる。
何が最低かといえば、援助および寄付の金額をあげるために庶民への注意喚起および災害時の緊急宣言をまごつかせ、被害を適度に(官僚の尺度)増幅させてお涙頂戴の舞台を作ろうとしていることだ。もはや残念なことは、こんな単純で浅薄で情けない考えを持つことが頭脳的な確信犯であると酔っていることだ。これは2世3世に極めて顕著な愚劣極まりない愚行・意識である。これらを前提としたうえで、ちんけな批判をビビらずに更なるお寒い予想を勘ぐれば文化・ビジュアル・コンセプトにおいての勘違いと弱さとせこさと卑屈さに満ちたオリンピックが予想される。お涙頂戴路線を中核に据えながらB級(サブカル)とアイドルで脚色し、進級一新とか言いながら古典としての茶道やビジュアルとして受けやすい歌舞伎や能、浄瑠璃、建築文化を盛り込んだ極めて浅いSHOWコンセプトを創出することでしょう。
その言い訳は、「世界が求めているから」
さて、本当にそうなのか。洗脳された阿呆国民がどこまで気がつけるのか、見ものです。
教育も変わらない。洗脳も変わらない。理念は作られる。"あなた"は何処に。
それを考えるならば、ちんけな右傾化に惑わされない本当の"日本"が見えてくるはず。
大事なのは、TVを見ないこと。情報を精査すること。大衆情報を傍受しないこと。とにかく"自分"で考えること。上半身ではなく足腰で行動すること。歴史を正しく学ぶこと。
一番大事なのは、「自分で考えること。」
本当は普通だったことが今では普通ではない。昔、普通ではなかったことが今は普通になっている。高速で移動したり空だって飛べる。でもなんで、こんなに心が荒んでいるんだろう。なぜ隣人が気に入らなくなってしまったんだろう。昔は一つの醤油さしを借りていた程の間柄だったのに。友達はLINEで悪口言い合ったりするものではなかった。涙が出るほど切ない交感があったでしょう。現代の父母、何を思う。
時間の逆行は不可能だ。理論的にも。時代も感覚も戻らない。ならば、新たなより良き世界を想えば良いのでは。時間は分断されない。歴史的現在年としての"今"を考えることが、私は最も重要な人間としての時間感覚なのではないかと考えます。
もしそれが正しく履行されるなら、世界は真の平和を手に入れることができるのではないでしょうか。なにも自宅に噴水が無くたってサウナが無くたって庭にドーベルマンが居なくたっていいでしょう。
今少し腰を据えて、私達ひいては日本の未来を真面目に冷静に考えてみませんか。
本日のささやかな提案です。
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