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2014年6月30日月曜日

ある晴れた日曜日に

思うところあり、今後、政治・思想的発言を控えようかと思っている。
結局のところ、自身の保有する時間と生命を維持するための糧を得るために一番合理的なことは、用意された規則の中で適度に欲望を持ち用意された選択肢の中でその欲望を満たし、生の儚さに保険をかけ万が一の時にそれまでの所得の積み立てでサービスを受けられるようにするということが生命維持と種の保存において最も有効であるという見解を持ち得た。
血沸き肉踊るようなドキドキやパッション、まさに生きている!という躍動が大好きである私は唯々現行の社会とは相反するというだけのことであり、洗脳を受けない代わりに厳しい自由を手に入れたとしても何ら他者との関係においてその差し引きの構図上では同一的な結果であると考えた。

よって、これまで作品制作活動で行ってきた身体性による現象の蓄積は個々が個々で保有するものの差異を感得し、より善き集団的理念を持ちうるのだという思想もしくは理想のためにあるのではなく、三次元の束縛を肯定的に捉え多次元空間におけるエネルギー体としての存在を彼岸として、此岸においての観念的な在り方をある意味、諦観し生ききるまたは認識しきることが三次元における個のできうることの最大値を示すという方向で考えていきたいと思っている。

つまり、我々の身体は匣でありそこに生命エネルギーが張り巡らされ脳は三次元の束縛においての感覚・思考器官であるから、肉体の死は生命エネルギーを多次元に解放するための存在の多次元化である。
むしろそこにこそ本当の在り方があり、我々はいたずらに匣に閉じ込められた哀しい存在である。
まさに祈りはそこから生まれ、この世界の危うさ、人間の不安はすべてこの中途半端な低次元下でしか生きられない我々のあまりに不確かで限りある生へのおののきであると、天気の良い日曜日の昼間に思ったのだった。

三次元の鍵を握るのはまさに重力下に敷かれるこの身体とその世界をのみ感知し合理的に演算する我々の脳である。
多次元空間を観念的に理解できないから、我々は現行の社会システムに抗えないのだ。
誰が悪いのではない。
この三次元の中でしか生きられない我々の限界が皆もどかしいのだ。

この身体が生み出した現象を脳が感知し、進むべき方向を定められた時間によって蓄積されていく。
これが、窮屈さを逆手にとり流れに身を任すことで生を生ききるための、私の考える「人間の行う三次元の純化」である。
おそらくこの三次元下における生き方次第が次の生命エネルギーの解放時における在り方にかなり影響をしてくると私は考える。

脳と身体を飛び越える。

そんな考えに夢中になっている今日この頃。
晴れた夏空がそうさせるのか。


2014年6月29日日曜日

いつもこころに、「最悪」を。

ただただ生の不安から逃げるかのような浮わついたW杯の狂騒の中、すっかり社会からは震災が忘れ去られていた。
渋谷で狂乱を演じた若者達は、震災時には一体何か思ったのだろうか。
メディアの報道次第でやれ復興やれサッカーとなって、今では応援していた手のひらを返し代表選手のこき下ろしに躍起になっているのでは世界大会としての意義は皆無になる。
そこに降って湧いた高慢な脳無し都議の稚拙極まりない女性蔑視発言。
女を生む機械だと言った類の馬鹿野郎がまだまだあーいうところには若い世代から根深く育っていることが顕在化された。

この短期間だけでも、暗澹たる日本の未来をいやというほど見せつけられた。
これでも、この期に及んでまだ政治から社会から人生から逃げるのか、同世代の若者達よ。

想像してみよう。
首都直下、東南海、千葉東方沖、そして最悪のケースはそれらとの連動による富士山噴火。
地震だけの場合、首都機能は地震後1週間程度で回復を始めるだろう。
注意しなければならないのは火事である。火事になった場合、下町などの住宅密集地は地獄と化す。
急発進の復興に向けての閣議の継続は可能だろう。
永田町付近の首都機能は被害が少ない方になるはずだ。

しかし、富士山噴火となるとそうはいかない。
まず首都機能は火山灰により完全麻痺するだろう。
ガラス質の灰である。
外出は大変な困難を要する。
電気ガス水道の全てが利用不可能になる。
回復の目処は予想がつかない。
閣議の継続はスカイプなどのネット利用となるか。
もしくは人的首都機能移転の末、京都・大阪あたりを再開発するのだろうか。

いずれにしろ想像を絶する大変な混乱と被害は間違いない。
この場合、システムを含めた日本の土台からの再建となる。
その際、混乱に乗じ都合のよい国造りが復興政策と抱き合わせにしてすすめられることは間違いない。
これまで官僚にとってのみ都合の良い、民意から反対を受けていた政策は臨時閣議によりメディアの目に触れることなくやすやすと可決されるだろう。
全ては"復興"の大義を後ろ楯に。

方向としては確実に"強い日本"へ向かっていくだろう。
軍の配備に経済力の成長保持、情報だけではなく社会システム統制の強化。
移民を大量に受け入れ復興、軍事機器の内需拡大による労働力の確保をするだろう。

どう考えてみても、現在の安部内閣周辺は「富国強兵」のスローガンに憧れているようにしか見えない。
是か非かではなく、細部を精査し丁寧に議論を進めていかなければならない重要な事案であるが、震災はそれらを全て一つの権力の元で推進していく隠れ蓑になる。

そして、一番の悪いケースは大地震が地球全体で群発しそこに原子炉を狙った世界同時多発テロが起こることだ。
フランスなど一瞬にして消し飛んでしまうだろう。
個人的には、文化的素養が高くARTへのリスペクトを惜しまないフランスが消し飛んでしまうのは残念でならない。

世界の原子炉の位置と場所を地球儀にマッピングするだけで、十分に人為的な世界滅亡のシナリオが見えてくる。
この場合においても、自然災害は格好の隠れ蓑となるのだ。
官僚もテロリストも大差はない。

これらのことを踏まえて如何なる行動にでるのかは個人の自由であり、そこにこそ生き方というものが顕れる。
知らぬふりをするのか。何かするのか。耳をふさぐのか。

正解は、ない。
ただもはや、個としてより善く生きる他はないだろう。
しかし、利潤を前提とした幸福ではなく、本当の意味での幸福を考え生きる力を蓄えておくこと。それだけは必定であると私は思う。

皆、恐れているのだ。
だから皆、一見してポジティブに見える事象に狂喜乱舞するのだ。
悪いものに目を瞑り、未来を明るいとばかり信じてはいけない。

その盲信が未来に暗雲を立ち込めさせることになってしまうのだから。


2014年6月16日月曜日

デッサンパフォーマンスを終えて

人知れず、人と文化が交わる場所― 美容室 Overlandでの個展は今月23日(月)まで延長させて頂いている。
そして本日、林檎のデッサンパフォーマンスの最終日を迎えた。

たいした感慨などないのだが、ただ経験としていくつかの重大な経験をさせて頂いた。
捕捉として、たいした感慨がないというのは決してネガティブな意味ではなく、ただやるべきことをやっているという自負に他ならない。

一つ、デッサンには終わりは無いのだということ。
絵画でも彫刻でも同様であるが、デッサンの根源性は宇宙の根源性に似てまるで一粒の砂粒が存在するには一つの宇宙が必要であることに基づいて、宇宙を再構成しているようである。
一つの林檎にはまさに一つの宇宙が内包されている。
林檎のデッサンも、1億枚あればARTになるだろう。
いつかトライしたい。
聖書によれば、善悪を知る林檎を食べてアダムとイヴは地上に堕とされたらしい。
地上の楽園のうえに造り上げたふしだらな世界のケツを拭くのは今一度、善悪とはなんであるかを見つめ直さねばなるまい。
そいうことを"智性"という。
お受験勉強は知識であって智性ではない。
智性とは個人の精神規範と行動規範にまで及ぶものだ。
知識過多の人間は、無意味に哀しい。

デッサンというのは、対象と自分に没入するなんとも丹念で愛しい行為である。
そういった意味で、描くという行為は祈りであって懺悔に等しくもある。
そして俗に言う、「林檎が描ければなんでも描ける」は本当かもしれない。
林檎ひとつの中にデッサンとしての全てが在ると思われた。
生きた自然物であり球体であり食べ物でもあり色が鮮やかだ。ヘタに木の幹と大地を感じる。
基本を学ぶうえでも最適なモチーフだと考える。

次に、電車賃を払い常に赤字を出しながら無意味な労働としてのデッサンをただただ一生懸命にやることで、ようやく私は久々にMemory Codeの感覚に入り込んだ。
無意味で激烈な労働性。これぞARTだと思わずにはいられない。
生産性と非生産性のあいだに在り、万物換金主義と時間の有用性に真っ向から対抗しうる現代アート、プロレタリアの芸術的革命である!
現に私は肉体労働で糧を得ている。
徹頭徹尾、私は身体性に埋没できているのだ。
幸せである。
身体で稼いで身にもならないことに必死で金を使う。
これぞ、ART。
ARTはひっそりと激烈に日陰で花を咲かせるのだ。


どうか僕を幸福にしようとしないでください。
それは僕にまかして下さい。

アンドレ・レニエ「半ばの真実」


ただ官僚と役所の阿呆を食わせるために小中高大就職結婚出産出世という生き方を"幸福"だと押し付け洗脳し、そこからはずれた生き方を選択する人間にはすこぶる生きにくい日本社会である。
私はこじきのようで構わない。
良寛のように、西行のように、明恵上人のように在りたいのだ。


幸福がそんなにみじめなものなら、幸福から私を救ってください。

ジャン・ジロドウ「間奏曲」


かつてROCKが、PUNKが生き方そのものであったように、ARTも本来は生き方そのものなのである。
個の判断基準が何かしらの結果として作品化されたもの。それがARTの源泉たる表現である。
それが社会的になんらかのポジティブな作用を持つものとなり、ARTとなる。
ARTはその根本において反逆ではあるが、反戦争、反差別、反自然・固有の文化習俗の破壊なのである。
それは、ARTの源が生命に基づく人間の源に起因するからだ。
生命に基づく人間の源は、細胞膜の内と外という彼岸と此岸の境界線以外では、地上の悲惨でくだらなくて腹立たしい人から人への被害の全てを包括する。
まるで観音菩薩のように。

言葉上、説明をするために現実の社会問題に言及せざるをえないが、本来、私が信じるのは宗教以前の神、国民国家以前の風土である。
ただし、ART以前のARTはない。
芸術も然り。

なぜなら、それらはすべて祈りや呪力の象徴であり手段であったから。
この世界に機能や意味のないものなど何もない。それ以前の原宇宙的なものは、"この世"のものではない。
ただ、我々が愚かすぎてその機能の正しい扱い方を知らないだけなのだ。

むしろ機能はただただ待っている。
いつか人間が自己の過ちに気づき、正しく世界を起動させるのを。


2014年6月9日月曜日

肉体労働歌



露時雨

雨に怯えて

空が泣く



「空が泣いている」
「悲しいの」
「いや、恐いんだ」
「自らが失われていくのが、恐いんだ」



逃げるように酒を呑む。

そして、言い訳をしなくてもすむように全てを忘れてしまうのだ。

失うことが辛いなら、全てを忘れてしまえばいい。

生きるということは、弱さとの付き合い方が肝心だ。

泣いて世界に還るあの雲も、もしかしたらその存在の耐えられない軽さと共に在るのかもしれない。

今日も板橋の鉄工所にて溶接と切削・研磨作業の仕事を終えて、ぽつりぽつりとバスの窓にあたる雨粒を見て池袋までの30分ほどを詩情にまかせた。
雨は嫌いだ。でも、嫌いというには放っておけない、自身の一部がその湿度の中に巣くっている。

素敵な5月が終わり、夏がむらむらと待ち遠しい梅雨である。
巷には、そんな梅雨を吹き飛ばすべく惜しげもなく華を散らすように露出の高い女性が溢れかえる。いや、燃え上がる。
そんな夏の熱気に狂う日本は、今年は如何なる狂態を曝すのか。

そして私は、そんな狂態にいつまで付き合えるのだろう。
愛を捨ててしまった私には、今ではまるで死は親戚ほどの距離である。

隣人から親戚へ。兄弟から双子へ。最後は完全な同一化。

やりたいことが多すぎる。まだ、死ぬにはあまりに早い。


アフリカに

恐れをなして

死を思ふ



自嘲である。


2014年6月6日金曜日

反、反捕鯨

楽天が鯨肉の販売を「禁止商材」に指定した。
海外にもマーケットを持っていて、更に拡大を目指すためには企業としてやむを得ない選択であったことはまず前提として頷ける。
しかし、メディアの伝え方は的を得ていない。
これではただ、まるで鯨肉が悪いかのような印象を与えるかもしくは浅薄なシーシェパードや反捕鯨団体批判しか生み出さない。
無論、シェパードや反捕鯨団体は暇すぎて自身の攻撃性をどこに向けてよいやら分からない精神病者と金銭目当ての弱いものいじめを生業とする暗い陰惨な連中ではある。
しかし、原発問題しかり物事を是か非かで二極化し論じ歴史的に失敗をし続けている日本である。
そこに情報の速度が加わりただでさえ島国から外を見据えた思考が不得意な日本はもはや白痴の判断力に落ち込んでいる。
だから、ここにおいてこそメディアの姿勢というものは極めて重要なのである。

どう扱ってよいか分からないから取材もしないなどジャーナリストも半チク以下だ。
地産地消している食材の在り方をただありのまま伝えれば、あとの判断は自ずとされる。
いくら学問から精神規範と行動規範が喪失し判断力が低下しているとはいえ、我々はまだ思考能力を失ってはいない。
現代の私達にまず必要なのは情報に対して足を動かすこと。
指先でチャラチャラと情報をこねくりまわすのではなく、できうる限りきちんと裏をとること。
実は情報とは個人にとって真実ではなくただのきっかけにすぎないのだ。
実感覚を伴わない情報に意味は発生しない。
捕鯨に関していえば、まず見に行くこと。そして食べること。
もしくは、それ以前にまず自身の周辺を拡大し興味を持つこと。
いずれは宇宙の感得にまで至る。

完全なプロパガンダ映画を見てただの狩りと食事を非人道的などと言うスーパーナンセンスな発言は夢遊高次元の人間様のとるに足らない妄言である。
大義名分をこしらえて食べもしない殺戮を同種でしまくっている非生産性に、一神教的合理主義は気づいていないのか。
もしくは正面から見据えられない自らの弱さを、より弱者に怒りや批判としてぶつけることで逃げているのか。

脳内に無意識に入り込み現代の人間性を構築してしまう洪水のような情報をコントロールしなければならない。
そういった意味で捕鯨にまつわる文化的視点や企業や国の判断、反捕鯨団体の表裏は我々日本人にとって情報を実感覚を伴って思考し、島外の意識を捉えるためのよい実践題材的現代社会の問題の一つである。

そして、鯨肉は美味い。
美味くなければいくら栄養価が高かろうが保存がきこうが文化にはならないのだ。私には対外的に示す文化的正統性など、どうでも良い。
ニタリ鯨、イワシ鯨、ツチ鯨、ミンク鯨の差が分かるほどに私は鯨を食べた。
ちなみに私が知っている美味い鯨肉が食べられる店は、湯島の「海鮮居酒屋 一心」と神田の「くじらのお宿 一乃谷」だ。
鯨肉を食べようと思った動機はシーシェパード及び反捕鯨団体のあまりに押し付けがましく失礼極まりない振る舞いと、資金力を背景としたプロパガンダに政治経済的な意図を感じ怒りを覚えたからだ。
「何処かに鯨の肉を食べている人がいて、なんか外国人が批判している。鯨は昔給食に出てたんだって」
では、私の意識は赦せないのだ。
そこで赦してしまっては思考性は育たない。
自身の思考性を育てるのは自分自身である。
何故なら我々は本質的に自由だから。
自由とは自らを負うことだ。

そして最後に、これら諸問題はArtistとして社会存在(末端とはいえ社会を構成する一部)としての"私"に踏襲される。
何故なら、ARTとは自由に担保された時代の鏡像、未来の示唆であるから。

幾度かひいているが、やはり今でもセザンヌの言葉は光彩をはなつ。

「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」

時代と芸術が切り離せないものである以上、時代を構成する意識や速度や情報といったものとも切り離せないのが、芸術およびARTというものである。
故に、捕鯨問題しかり原発しかり集団的自衛権しかり日中、日韓、日米関係しかり情報統制しかり、環境、食料問題しかり、私は常にARTの視点でもって思考し答えられねばならないのだ。

社会存在としてのArtistは違うが、ARTは普遍で自由だ。

そこがいい。


2014年6月3日火曜日

"弱さ"それは存在の不確かさである。 向き合うか、逃げるか。

人生とは、自分に出逢うための旅路である。
そして自分とは、死ぬときの自分のことである。

自己とは他者に写しだされる鏡像である。

個と他の鏡像関係は人の振り見て我が振り直すといったものではなく、本質的に自己の存在を担保しているのが他者であるということだ。
我々はみな他者に発見され自己たりうるのだ。
他者に確証され自己たりえ、自己もまた他者の存在を担保する鏡像に他ならない。
故に社会という関係性の中では実態や実存というものは、あまりに稀薄なものである。
多様で流動的な在り方のみが、在るだけだ。
それを現象とみなしてもいい。

だから、弱さには本質という強さが内包されているのだ。
逆に強くなるのは簡単だ。
寒い日に服を着るようなものだから。
能動的に弱いままでいること。
それが最も存在として在りづらく本質の近くに寄り添い続けることができる唯一の方法である。








今さらくだらないことであるけれど、Blogというものについて。

個人的な日記を見せたいという露出趣味ではない。

「公」を導入することにより文章は完成する。
それがちんけな心情吐露であるか、読み物として成立するか。

境界線を探るのが一つの目的である。

無論、より作品を理解してもらうための補助的役割も同時に持つ。