Translate

Translate

2011年4月15日金曜日

衝動

もう我慢できない。
感覚として成否はでているはずでしょう
なぜ揉める
利権か 
暴力団か 
政権か
これでもなお日和見を続けるのか
いつから日本は責任のとりかたを忘れてしまったんだろう
いつから日本は自身しか考えられなくなってしまったんだろう 
政治家諸君、少しでも責任や自負があるならば、それ相応の対応をすべきではないか
分っているのにできないなんて言い訳にはならない
自分の命を惜しみすぎだ
理不尽にも消え去った命をどう思う
思うどころか関東直下型でなくてよかったなどと思ったか
責任の取り方と誰がそれを担うか考えよ
腹が立つ腹が立つ
地震からひと月しかたっていないのにもかかわらず既に被災地とそうでない地域とで意識の差が明快になっている
その余裕面をたたき潰してやりたいような衝動に駆られる
ああ、腹が立つ
何に腹が立つ
東電と国とのあからさまに腹が立つ
それに準じるメディアに腹が立つ
あれでもなお反省の色なしか
日本がこんな状況なのに
家に帰れば広大な土地と潤沢な資金と温かいご飯と家庭が待っている
おめでとう
いつかそれらが泡沫の夢であると気づくでしょう
そうでもないか
腐りきっている
腹が立つ
放っておけない
1500人のデモに参加すれど報道は一切なし
責任感あるメディアは一切なし
嘆かわしきかな日本
哀しきかな日本
もはや日本人の精神は絶滅したのか
諦め嘆くしかないのだろうか
口惜しや、ああ口惜しや

教育とか宗教とかとか

電車の中で優秀そうな高校生くらいの子達が本を片手にその本の値段当てゲーム
をしてる。
そのうちそれにも飽きたのか、それぞれ読書をし出す。
近頃はますます本を読む若い人が減っているが、やはり優秀な人間ていうのは小
さいころからこんなもんなのかと感嘆する。
僕自信、今ほど本を読むようになったのはここ何年かのことなのだ。
兎に角、いきなりPS2なんぞ出して目の前の友人との会話もせずにゲーム中での世
界の共有がコミュニケーションになっている恐ろしい子らに比べれば、月とスッ
ポン雲と泥だ。

しかし、驚いたのは題名から察するに内容が経済についての評論本なのだ。
まぁ、人の読んでいる本にまで口出しをするほど下世話なことはないのだけど、
同じ時分に鼻くそほじってだらだらしていた自分に照らし合わせると、なんとも
異様な光景に見えたのだ。
僕は少なくとも高校生まではダニみたいな人間だった。実際に教師から「おまえ
みたいな奴をクズっていうんだ」とか、お節介にも教師から母親に「あんな子は
見たことがない、あの子はもう駄目です」と素晴らしい烙印を押されたこともあ
る。
しかし、自慢じゃないが見事なクズっぷりであったことも事実だ。

現在の日本人は、経済観念にはそこそこ明るい人が増えているような気はするけ
れど、肝心な存在に対しての言及がなされていないように思われる。
電車の中では経済書か自己啓発本かマンガ、小説がいいところだ。
僕が憧れる哲学や社会論や国学的な本を読んでいるような人達は見当たらない。
そんな中では存在がお金と同義で、生きることがお金ありきで、万物の起源の概
念さえもお金にしてしまったように感じられる。
欲や夢や希望や主張や表現や思想や宗教、宇宙や天体や地球や自然や社会、それ
ぞれの起源や歴史や縁起、そしてそれらのど真ん中を貫く時間とは、全てが密接
に繋がり、全てがばらばらで語ることができるほどの密度を持っている。
これでも唯の一部であり、大体だ。
世界は物理的にも概念的にもあまりに膨大で多様だ。
確かに世界を捉えるための立脚点として一つの柱をたてることは基本的なことだ
が、それを政治や経済に求めるのは、あまり上手なことだとは思えない。
政治だって経済だって、所詮は借り物なのだから。

物事の根本を考えなくなったようにみえる日本人の背景には、教育が一つの大き
な要因を占めているように感じる。
家庭の教育がお粗末で、国が定めた学校教育がお粗末で、教師に思想がなく、思
想は闘争的概念を持たず、宗教は政治と経済にとって変わられた。

まず、家庭での教育とは新渡戸稲蔵が武士道に記しているように、家庭の中に自
然に浸透し受け継がれてきた、決して理屈では語り尽くされない精神規範や行動
規範のことであると思うのだけど、核家族なんて(ニートにしかりなんでも名前を
つけるとそれっぽくなってしまうことも問題ではないだろうか)考え方ができてし
まい、個人の小さな自由と引き換えに脈絡と繋がれてきた日本的な雰囲気を簡単
に破壊してしまった。
学校教育については、勘違いしたグローバリズムとシステマチックの波に押され
るようにして、学校が会社化してきて教師が点数評価され親の発言力が増し裁判
だのスキャンダルだの表層的でとるにたらない事象にビビって、教師が皆阿呆に
なってしまった。
そんな教師達に思想があるわけもなく、対外的な評価もあるし課せられた義務に
がんじがらめになっている。
教育者にも自由はないのだ。
大体、国が定める学校教育は一体なにを目指しているのだろう。
優秀な人間なんて育つはずもないし、己の育った環境さえ理解できない。
教科書どおりにやったところでせいぜいそれぞれの基礎知識が身に付くだけだ。
漢文や古文の奥に潜む世界や現代文の社会的背景や作者の個人的な心情理解、数
学や物理に潜む情緒、英語と戦後教育とグローバリズムと合理主義や地政学、東
洋的価値観の推移と仏教伝来の道と世界的な哲学の飛躍と現代の息吹、人間の所
業。

これらは基礎教育ではないのだろうか。
観念や概念を育てることで知識は勝手に付随してきはしないだろうか。
現在日本の知識先行型教育モデルは正しいのだろうか。
また、その見直しはタブーであるのか。
きっと何かしらの政治的理由があるのだろう。
しかし、そこで出てくるのが個人の思想である。
そこで重要なのが教育者としての思想なのである。

しかし、思想については個々のものであるので、その是非までは僕の範疇にはな
い。

さて、宗教についてだが実は僕は現在の宗教については皆目検討がつかないし、
興味もないし、大嫌いだしおぞましい。
というと、怒る人も分からない。
思想や宗教は個人の自由であるなら怒ることもないだろう。
他人に押し付けたいという利己的な欲求があるから否定されて怒るのだ。
勝手にやっていればいいじゃないか。
それで何か自分にしか分かっていないようなことがあるならば、勧誘ではなく主
張すればよいではないか。
声高に。
選挙の街頭演説のように宗教が街頭演説しちゃならんなんてことはないだろう。
キリスト教はよくやっている。
まぁ、録音のだだ流しだけど。
同じ意見や価値観を持った人達が一所に集まってモゾモゾと頷き合っているなん
て、それは仏陀やキリストの目指すところの宗教ではないのではないだろうか。
思想や宗教は政治に受け入れられ利用されないかぎり、もっとパンクなものなの
ではないだろうか。
世にその真髄の是非を問う。
その行為自体に対してはまず分け隔てなく発言の場が与えられる。
そういったことが本来的なグローバリズムの一端ではないだろうか。
そういった寛容さを育むことが教育の本分ではないのだろうか。
思想や宗教の行動規範や精神規範は本来的な意味を保ち得ているだろうか。

はてさてまたくどくどと偏った意見を書いてしまった。
くどいのはよくないことは知っていてもくどくなってしまう。
これは性格でしょう。
しかし、誰も読んでいないであろうことを願い、この場は僕の理論実験や頭を整
理するための吐き溜めとして使っている。

誰も僕の文を読みませんように。

ではでは

2011年4月11日月曜日

記憶

例えば、我々は昭和を知らない。

知らないのに昔の看板や三丁目の夕日や歌謡やCMを見て「懐かしい」と思う。
それはつまり、我々はすでに「知っている」のだ。
我々の中になぜか知らないはずの「記憶」がある。
その「記憶」はいつの記憶だろうか。そしていつ我々の中に組み込まれたのだろ
うか。
その「記憶」は、DNAの中に隠され受け継がれたものではないだろうかと考える。
だから我々は見たことのない雰囲気を面影として知っている。
人体を唯の入れ物だと考えると、その時代ごとに入れ物から情報を受け継ぎ、DNA
はその情報を踏まえて次の入れ物から次の時代の情報を取り込んでいく。
では、DNAに性格はないのだろうか。
もしあるとすれば、それはいわゆる「前世」に繋がる。
受け継がれるものに「偏り」が生じるとすれば、その偏りは癖であり人格である
。
さすれば我々は皆、誰かであったのだ。
現実的に。
個人的な想いであれば、僕は孔子がいい。名前だけに。
前世は決してスピリチュアルなんて名詞で誤魔化されるものではない。
「スピリチュアル」は大事なものを隠してしまう。
だから僕は世の中的にスピリチュアルとされている事象についてはいくらかの興
味があるが、「スピリチュアル」という言葉は大嫌いなのだ。
僕は僕の記憶に順ずる。
人それぞれであるが、皆自分ではどうすることのできない気性や性分というもの
がある。
僕は白か黒かはっきりしていなくては気に入らないし、かといって柔軟性がない
のも気に入らないし、悩むのはよいが、優柔不断は嫌いだし、腰が低いのも嫌だ
けれども居丈高なのも嫌なのだ。
こんなことを言うとひじょうに身勝手なめんどうくさい人間性だけが浮き彫りに
なるのだが、実はそれぞれここだという明確な線引きが存在する。
僕はそのような自分を考える時に、自分はやはり借り物・仮染めなのだと思うこ
とがある。
この気質は生まれもってのものであって、どうすることもできない誰かのもので
あると。
その感覚を私は「記憶」と名付けた。

人間の神の概念の発生の説話の一つに、人間はもともと右脳と左脳が別々に働い
ていて、そのマインドギア(気持ちを託せる道具)として神を創造したという話が
ある。
僕にとっての記憶とはこの場合の神と同義である。
僕の意識を統括するために一番上に置くマインドギアとしての意識。
しかし、その意識は現在的概念としての神や宗教としての神とは完全に異なる。

「記憶」であるが故にそれは厳密かつ確かな過去を包括する。
よって僕は自分の中にあるものをこねくりまわす時は、直接それらの歴史に手を
触れようと意識する。
それはら決して手に触れることはできないが、なんとなくそれらが現在の何を示
唆し、何を未来へ受け継ぐべきなのかを訴えているように感じるのだ。

僕は僕の意識、言ってしまえば勘で動いている。
その勘を勘違いしないように僕は様々な本を読み、世界を解読しようと日々考え
る。

僕の作品の重要なファクターの一つでもある「記憶」とは、おそらく僕以外の人
間にも共通する、地底に流れる水脈のような無意識に覆われた意識のことである
。
それを読み取りやすく顕在化させたい。
見えるようにしたいのだ。


2011年4月10日日曜日

そう言えば

橋本仁は本名ではない。
なぜわざわざ偽名を使うのかというと、芸術は本名では負いきれないからだ。
僕はアーティストとしての人格を持つ。
それは僕のつもりとは裏腹に現状とかならずしも一致するものではない。
しかし、僕が橋本仁として在る時はアーティストとして在る時だ。

偽名はあくまで偽名であっても、名である以上人格を持たなければそれは名にな
らない。
人格を持たない名はただの現実逃避だ。
人格をつくることは、すなわち新たな人格を再構築することである。
なぜ新であるものが再構築になるかというと、たとえ偽名のための仮人格とはい
え、全くの別人を設定してしまっては意味を持たないからだ。
偽名を使う以上、それは社会の中でポジティブに作用させなければならない。
つまり、実生活からの逃避が目的ではないからだ。

マインドコントロールとは恐ろしいもので、化粧やお洒落をしないと外へ出られ
ないように、反対に化粧や服装や髪型や髪の色などによっては普段の自分からは
考えられないような行動をとることもある。
それはサングラス一つとってもあることであるし、人間は儀式的に日々気付かぬ
マインドコントロールをしている。
そしてそれは現実逃避にとって変わることが少なくない。

もちろん僕も例外ではない。
僕も日々マインドコントロールをしている。
僕にとっての人格発動スイッチのキーは、大きくはコンタクトレンズと眼鏡だ。
次に朝シャンと寝癖。
あとは場面場面で作業着やバイト着だったりする。

そういった、小さな儀式的マインドコントロールにより起動する人格が実生活の
中に存在するように、社会の中での人格を起動させるのが偽名なのだ。
これはハンドルネームなどという小賢しい横文字とは根本的概念が全く異なる。
偽名は役であり、憑依であり、見立てである。
僕は芸術家としての自分と芸術家以前の自分を偽名で分かつ。
俗っぽい言い方をすれば、オフィシャルとプライベートを分けるという言い方も
できるが、微妙にニュアンスが異なる。

橋本仁を負い、そこに芸術を負わせることで、僕にとっての芸術は成立する。
今の僕にはこれ以上は言葉にできない。しかし、そこにはまぎれもない必然性が
真水のように流れている。

2011年4月9日土曜日

ヤン・リーピン クラナゾ より

ヤン・リーピンのクラナゾを観た。
物凄かった。
自分が亜細亜人であることを誇りに思う。
そして、自分の中に亜細亜・東洋の血が流れていることを強く再認識した。
もはや日本からは芸術において傑物は出ないだろうが、同じ亜細亜の朋輩がこの
ような亜細亜を提示してくれたことを有り難くもあり、悔しさもある。
こんな時、岡倉天心の茶の本の冒頭にある、「亜細亜は一なり」を思い出す。
そして、もはや日本の活路は日本を方法化させる以外にはないと感じた松岡正剛
を思う。
もし、日本人に日本の知識・理解があり、正しい価値基準と判断力があったなら
、もしくはそのような教育がされていたならば、日本は日本として再生できたで
あろう。
哀しくも日本人の良い面でも悪い面でもある「ある種の柔軟さ」が仇となった。
しかし、良くも悪くも思想統制の厳しい中国からは、良い例としてかくも美しい
傑物があらわれた。
もはや日本を嘆くまいが、やはり日本を思うのだ。

しかし、圧巻だった。
ややバタ臭い感じの演出もあったが、それが「世界基準」というものなのだろう
。
西洋人に東洋を真正面からぶつけても見向きもされず、馬鹿にされるか生意気だ
と潰されるかだ。

あくまでも西洋人は合理的思考性の自信を崩そうとはしない。
「自分達が一番だ」もはや強迫観念化しているこの意識に亜細亜は迫害され、日
本は侵略された。
戦争の勝ち負けと戦勝国の思想の押し付けは日本にもかなり大きな責めがあるの
で、それは言いっこ無しになってしまうが。
しかし、明治維新後の西洋への爆発的な憧れに始まり敗戦から平成へと、今や日
本はもう二度と昭和までは確かにあったであろう、日本の匂いを嗅ぐことはもう
できない。

すぐに話がこういった方向にずれがちだが、とにかくヤン・リーピンは凄かった
。
ヤン・リーピン自身も勿論凄まじいのだが、やはりチベット仏教の香りというか
、信仰と愛と土着的な文化と何より亜細亜の各国で急速に失われつつある東洋の
香りがそこにはあった。
老婆と巡礼の旅にでて輪廻までをも体験して、僕らも見終わって生まれ変わった
のだ。
なにより舞台に信仰が生きていた。

しかし、クラナゾが素晴らしければ素晴らしいほど、我々が大きな問題を抱えて
いるであろうことが浮き彫りになる。
それは、チベット仏教が題材にされること自体がもはやチベットにおいても急速
に、合理的資本主義やグローバリゼーションの荒波が押し寄せてきているという
ことだ。

もはや東洋人だけの問題ではない。
今や世界の在り方が問われている。
原発の問題は日本だけの問題じゃない。
人間の在り方が問われている。

ヤン・リーピンのクラナゾも、素晴らしく荘厳で美しくセクシーでエキゾチック
だったが、世界の観客に対し厳しい問いを投げかけているかのようでもあった。

2011年4月7日木曜日

警鐘が聞こえる

実感がなくなる

警鐘がなる

僕のたかだか26年間において、実感覚の喪失が一番顕著な思い出として例をあげ
るとすれば、それは駅の改札が自動改札機に変わったことである。
夢の国ディズニーランドも同様である。
そして今、本がなくなろうとしている。
いかに本が大事であるか。

政治家は由々しき事態とよく口にするが、何が由々しき事態を招くかを分かって
言っているのだろうか。
これでは結果に対しただ「由々しき」をつけただけにすぎない。
「由々しき」は由々しき事態が起こる前に、それが既に由々しきことであるとわ
かっていなければ世の中はたいへんなことになってしまう。
事実たいへんなことになっているし、本がなくなろうとしているこの現状は、既
に由々しき事態だ。

僕は装丁やデザインという目線や印刷・出版業からの目線で語られる本の電子化
についての警告も大事だと思うが、一個人的には本と人との関係において重要な
のは、ページをめくることにあると考える。

触ることで実感が生まれ、目の前の物質を視覚と嗅覚と触覚で認識する。
そこから記憶や時間感覚までもが刺激される。
僕は古本屋さんや本、とくに古い本の匂いが好きだ。
そこに「懐かしい」を感じる。
こういった実感覚が、身体的スピードを越えた物凄い速さでどんどんと失われ、
時代と共に怠惰と速さにとって替わられていく。

速いことがそんなに大事だろうか。

楽を越えて怠惰に足を踏み入れてはいないだろうか。

考える。
耳をすませる。

警鐘が聞こえる。

明治維新から、戦後から、もしくは1987年から、僕には分からないが、どうやら
僕の生まれるずっと昔から鳴りつづけていたようだ。

このままではいけないと。

昔予備校でデッサンをしている時に先生が言っていた。

『行き過ぎろ、行き過ぎて戻れ、行き過ぎて戻るとちょうどよい。そうして人は
適当な感覚を創るのだ』と。

それ以来、作品は『ちょうどよい』がいいと思う。
『どうでもよい』でも『なんでもよい』ではなく、適材適所、適格に、適当に。

時代と作品の関係を感覚的に言えば、まさに『ちょうどよい』なのだ。

世界中の多くの人間達が、社会や世の中が『前に進まなければならない』と思い
込んでいる。

しかし、時間は勝手に更新されていく。

概念や価値観は「見直される」ことがあってもよい。

それに順じて変化できるもっとフレキシブルな集合的価値観の育成は不可能なの
だろうか。

僕は変化を受け入れられないのは、ただ不安感が強いとか怠惰であるだけだと思
っている。

変化はどこにでもある当たり前の現象だ。
砂漠の砂は一日として同じ表情の日はない。
昨日あった山が翌日にはごっそりとなくなっている。

今、人類の歴史の中で何度かあったのかどうかはわからないけれど、またそもそ
もの根本や根底を探るような動きや価値観が総体的に出てきてもよいのではない
かと僕は思う。

僕が製作のテーマに掲げる実感覚とは、受け手の感覚や記憶をいかに反応させる
かにある。
僕は僕の実感覚を作品を媒体にして訴え続ける。
本来的な人間の身体的な様々のサイズを伝えたい。

作品では伝わらないのか。
では、言葉だったら少しは考えてくれるのだろうか。

松岡正剛が日本は小さくなるべきだというように、我々はまず極小な生き物であ
るともう一度認識すべき時がきているのではないか。
高村薫がこれからは仏教だというように、我々の存在は小さくもあり大きくもあ
るという価値観を知るべきではないのだろうか。

僕はこれからも人間の本質を考える。

もっと分かりやすく、鮮明に。

2011年4月3日日曜日

古い見方

今日、インターネットを初めて良いものだと思った。

便利であった。
恩恵を受けた。

調べものをしたのだ。

調べものには最適だとは聞いていたが本当だった。

なんでも載っている。

気がした。

ただ一つ、韓国やタイでは整形が当たり前だと聞いていたので、宗教上での是非
が知りたかったという下世話な調べものをしただけなのだが、まさか 整形 宗教
だけでポンッと答えが出てくるとは思わなかった。

僕以外にもこんな下世話な質問をする人間がいるようで、Yahoo!知恵袋というサ
イトで同じ質問をしている方がいらっしゃった。

目に見えないのに感謝する。

変な感じ。
何やら間違っているような。

しかし、疑問が解消する方が有難い。

インターネットやTVは本当に僕を悩ませる。

インターネットやTVに実感覚はなく僕自身は実感覚のみを信じているのに、やっ
ぱり恩恵を受けたり必要だと思う局面があるのだ。

まぁ、頭を柔らかくしてフレキシブルに対応していけばと納得するのは簡単なれ
ど、そこをコネコネ考え続けるのが僕の芸術に対する姿勢なので、答えを性急に
せず暫定的に現状についていこうと思った。

2011年4月2日土曜日

「知っている」「わかっている」から

僕は松岡正剛が好きだ。しかし、松岡正剛を知っているかと親しい友人や初対面
でも気に入った人に尋ねてみるとなかなか知らない。そして、教えようと思いネ
ットで見ることができる千夜千冊という歴史に残る日本人の重要な無形文化財と
もいえる偉大な仕事の話をすると大体皆しっている。
これはなんだろうか。
千夜千冊は知っているというのは知っているだけで、これは単なる情報としてた
だ名前を知っているというだけなのだろうか。
僕は常々『知っている』と『わかっている』とを分けて捉えている。
そうした方が生きやすいのだ。
しかし、情報社会というのは困ったもので、『知っている』ことは『知っている
』としてその数量は多ければ多いほど善しとされるのだ。必ずしも『知っている
』から『わかっている』に転ずるプロセスは重要視されない。『知っている』単
体である価値やステータスが生まれている。
これは好みであろうが、僕はこうした世界観や価値観が嫌いだ。
僕は本を読むのが好きで、勉強が好きだ。
しかし、勉強が好きなのは知識が増えるから好きなのではない。
世界を広げ、密度を増すから好きなのだ。
僕の頭の中では、ある時期から僕自身の再構成が始まっている。僕自身の再構成
と連動し、その存在を取り巻く環境の再構成から宇宙の再構成までがここ8年来の
僕の仕事というか趣味である。しかし、それはいずれ仕事に繋げなければならな
い。
僕はめったに傷つかないし、めげたり落ち込むことが少ない。
それは忘れることが特技なうえに、僕にはもう一つの目下建設途中のどでかい宇
宙があるからだ。
僕はまず僕自身の存在を作り、それを社会の中で生かさなければならず、そうし
てやっとそこから環境を突き詰めていって宇宙に届かせなければならない。これ
は全くスピリチュアルなんてくだらない話ではない。因みに僕はスピリチュアル
という言葉が大嫌いだ。僕が自分の脳に遊ぶのは、それが僕にとって『生きる』
ことと同義であるからだ。酸素を吸って二酸化炭素をだし、食物を身体へ入れて
排便する。それと全く同じなのだ。そこでは、ただ『知っている』だけでは何の
厚みもなくただただ僕の世界に放たれ霧散していくだけなのだ。
僕はテトリスのように厚みのあるものを積み上げなければならない。
積み上げるだけでなく、厚みをさらに増し、世界観として過去も導入しさらに地
中奥深くまで土壌を作りマントルを発生させ化石も埋め込まなければならない。
ダイヤモンドは生成されようがどうでもいいが、金・銀・銅・鉄・亜鉛は生成さ
れなければならない。恥ずかしいことに僕も金属をかじって金属を好きになって
しまったからだ。以上僕の話はイームズのパワーオブテンを見ればわかる話であ
る我々の物質的な世界は『私』から宇宙まで離れていくことで存在の一番外枠へ
言及していくことになるが、私の中ではまず一番外枠の宇宙を私と同義としてそ
こから逆の流れとして世界が始まる。
言葉としてうまくかけているかは分からないけど、あくまで全部イメージです。
フィクションならフィクションでもいい。
それが何であれ僕には必然性を伴うリアルであることにはかわりないのだから。

芸術と社会性

芸術に社会性が無ければいけないのかを考える。
芸術はしばしば才能を用いて語られる。
才能とは何か。
才能とは何のためにあるのか。
基本的な考え方として、生物的にある種の才能はその種のためにあると考える。
人の才能は人のためにある。
才能をもって芸術が語られるのであれば、その芸術も人のためにある。
人=社会としてもよい。
要するに芸術は芸術たれば無理に社会性を付与させずとも社会性を持つのではな
いだろうか。
我々は社会からは離れられない。
どうあがこうが社会の一部からは逃れられない。
何を躍起になって社会性を謳いたがるのか。
芸術においての社会性を自然な思考プロセスとして組み込むことができない理由
が僕にはどうもわからない。
別に何か特定のものをやり玉に挙げてまで、何かしらに対してのアンチテーゼをする
必要性を感じているわけでもないけれど、ただなんとなくこいった矛盾をとりあげていくのもおもしろいかなと思っている。
ではまた明日。