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2011年4月9日土曜日

ヤン・リーピン クラナゾ より

ヤン・リーピンのクラナゾを観た。
物凄かった。
自分が亜細亜人であることを誇りに思う。
そして、自分の中に亜細亜・東洋の血が流れていることを強く再認識した。
もはや日本からは芸術において傑物は出ないだろうが、同じ亜細亜の朋輩がこの
ような亜細亜を提示してくれたことを有り難くもあり、悔しさもある。
こんな時、岡倉天心の茶の本の冒頭にある、「亜細亜は一なり」を思い出す。
そして、もはや日本の活路は日本を方法化させる以外にはないと感じた松岡正剛
を思う。
もし、日本人に日本の知識・理解があり、正しい価値基準と判断力があったなら
、もしくはそのような教育がされていたならば、日本は日本として再生できたで
あろう。
哀しくも日本人の良い面でも悪い面でもある「ある種の柔軟さ」が仇となった。
しかし、良くも悪くも思想統制の厳しい中国からは、良い例としてかくも美しい
傑物があらわれた。
もはや日本を嘆くまいが、やはり日本を思うのだ。

しかし、圧巻だった。
ややバタ臭い感じの演出もあったが、それが「世界基準」というものなのだろう
。
西洋人に東洋を真正面からぶつけても見向きもされず、馬鹿にされるか生意気だ
と潰されるかだ。

あくまでも西洋人は合理的思考性の自信を崩そうとはしない。
「自分達が一番だ」もはや強迫観念化しているこの意識に亜細亜は迫害され、日
本は侵略された。
戦争の勝ち負けと戦勝国の思想の押し付けは日本にもかなり大きな責めがあるの
で、それは言いっこ無しになってしまうが。
しかし、明治維新後の西洋への爆発的な憧れに始まり敗戦から平成へと、今や日
本はもう二度と昭和までは確かにあったであろう、日本の匂いを嗅ぐことはもう
できない。

すぐに話がこういった方向にずれがちだが、とにかくヤン・リーピンは凄かった
。
ヤン・リーピン自身も勿論凄まじいのだが、やはりチベット仏教の香りというか
、信仰と愛と土着的な文化と何より亜細亜の各国で急速に失われつつある東洋の
香りがそこにはあった。
老婆と巡礼の旅にでて輪廻までをも体験して、僕らも見終わって生まれ変わった
のだ。
なにより舞台に信仰が生きていた。

しかし、クラナゾが素晴らしければ素晴らしいほど、我々が大きな問題を抱えて
いるであろうことが浮き彫りになる。
それは、チベット仏教が題材にされること自体がもはやチベットにおいても急速
に、合理的資本主義やグローバリゼーションの荒波が押し寄せてきているという
ことだ。

もはや東洋人だけの問題ではない。
今や世界の在り方が問われている。
原発の問題は日本だけの問題じゃない。
人間の在り方が問われている。

ヤン・リーピンのクラナゾも、素晴らしく荘厳で美しくセクシーでエキゾチック
だったが、世界の観客に対し厳しい問いを投げかけているかのようでもあった。

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