Translate

Translate

2011年4月15日金曜日

教育とか宗教とかとか

電車の中で優秀そうな高校生くらいの子達が本を片手にその本の値段当てゲーム
をしてる。
そのうちそれにも飽きたのか、それぞれ読書をし出す。
近頃はますます本を読む若い人が減っているが、やはり優秀な人間ていうのは小
さいころからこんなもんなのかと感嘆する。
僕自信、今ほど本を読むようになったのはここ何年かのことなのだ。
兎に角、いきなりPS2なんぞ出して目の前の友人との会話もせずにゲーム中での世
界の共有がコミュニケーションになっている恐ろしい子らに比べれば、月とスッ
ポン雲と泥だ。

しかし、驚いたのは題名から察するに内容が経済についての評論本なのだ。
まぁ、人の読んでいる本にまで口出しをするほど下世話なことはないのだけど、
同じ時分に鼻くそほじってだらだらしていた自分に照らし合わせると、なんとも
異様な光景に見えたのだ。
僕は少なくとも高校生まではダニみたいな人間だった。実際に教師から「おまえ
みたいな奴をクズっていうんだ」とか、お節介にも教師から母親に「あんな子は
見たことがない、あの子はもう駄目です」と素晴らしい烙印を押されたこともあ
る。
しかし、自慢じゃないが見事なクズっぷりであったことも事実だ。

現在の日本人は、経済観念にはそこそこ明るい人が増えているような気はするけ
れど、肝心な存在に対しての言及がなされていないように思われる。
電車の中では経済書か自己啓発本かマンガ、小説がいいところだ。
僕が憧れる哲学や社会論や国学的な本を読んでいるような人達は見当たらない。
そんな中では存在がお金と同義で、生きることがお金ありきで、万物の起源の概
念さえもお金にしてしまったように感じられる。
欲や夢や希望や主張や表現や思想や宗教、宇宙や天体や地球や自然や社会、それ
ぞれの起源や歴史や縁起、そしてそれらのど真ん中を貫く時間とは、全てが密接
に繋がり、全てがばらばらで語ることができるほどの密度を持っている。
これでも唯の一部であり、大体だ。
世界は物理的にも概念的にもあまりに膨大で多様だ。
確かに世界を捉えるための立脚点として一つの柱をたてることは基本的なことだ
が、それを政治や経済に求めるのは、あまり上手なことだとは思えない。
政治だって経済だって、所詮は借り物なのだから。

物事の根本を考えなくなったようにみえる日本人の背景には、教育が一つの大き
な要因を占めているように感じる。
家庭の教育がお粗末で、国が定めた学校教育がお粗末で、教師に思想がなく、思
想は闘争的概念を持たず、宗教は政治と経済にとって変わられた。

まず、家庭での教育とは新渡戸稲蔵が武士道に記しているように、家庭の中に自
然に浸透し受け継がれてきた、決して理屈では語り尽くされない精神規範や行動
規範のことであると思うのだけど、核家族なんて(ニートにしかりなんでも名前を
つけるとそれっぽくなってしまうことも問題ではないだろうか)考え方ができてし
まい、個人の小さな自由と引き換えに脈絡と繋がれてきた日本的な雰囲気を簡単
に破壊してしまった。
学校教育については、勘違いしたグローバリズムとシステマチックの波に押され
るようにして、学校が会社化してきて教師が点数評価され親の発言力が増し裁判
だのスキャンダルだの表層的でとるにたらない事象にビビって、教師が皆阿呆に
なってしまった。
そんな教師達に思想があるわけもなく、対外的な評価もあるし課せられた義務に
がんじがらめになっている。
教育者にも自由はないのだ。
大体、国が定める学校教育は一体なにを目指しているのだろう。
優秀な人間なんて育つはずもないし、己の育った環境さえ理解できない。
教科書どおりにやったところでせいぜいそれぞれの基礎知識が身に付くだけだ。
漢文や古文の奥に潜む世界や現代文の社会的背景や作者の個人的な心情理解、数
学や物理に潜む情緒、英語と戦後教育とグローバリズムと合理主義や地政学、東
洋的価値観の推移と仏教伝来の道と世界的な哲学の飛躍と現代の息吹、人間の所
業。

これらは基礎教育ではないのだろうか。
観念や概念を育てることで知識は勝手に付随してきはしないだろうか。
現在日本の知識先行型教育モデルは正しいのだろうか。
また、その見直しはタブーであるのか。
きっと何かしらの政治的理由があるのだろう。
しかし、そこで出てくるのが個人の思想である。
そこで重要なのが教育者としての思想なのである。

しかし、思想については個々のものであるので、その是非までは僕の範疇にはな
い。

さて、宗教についてだが実は僕は現在の宗教については皆目検討がつかないし、
興味もないし、大嫌いだしおぞましい。
というと、怒る人も分からない。
思想や宗教は個人の自由であるなら怒ることもないだろう。
他人に押し付けたいという利己的な欲求があるから否定されて怒るのだ。
勝手にやっていればいいじゃないか。
それで何か自分にしか分かっていないようなことがあるならば、勧誘ではなく主
張すればよいではないか。
声高に。
選挙の街頭演説のように宗教が街頭演説しちゃならんなんてことはないだろう。
キリスト教はよくやっている。
まぁ、録音のだだ流しだけど。
同じ意見や価値観を持った人達が一所に集まってモゾモゾと頷き合っているなん
て、それは仏陀やキリストの目指すところの宗教ではないのではないだろうか。
思想や宗教は政治に受け入れられ利用されないかぎり、もっとパンクなものなの
ではないだろうか。
世にその真髄の是非を問う。
その行為自体に対してはまず分け隔てなく発言の場が与えられる。
そういったことが本来的なグローバリズムの一端ではないだろうか。
そういった寛容さを育むことが教育の本分ではないのだろうか。
思想や宗教の行動規範や精神規範は本来的な意味を保ち得ているだろうか。

はてさてまたくどくどと偏った意見を書いてしまった。
くどいのはよくないことは知っていてもくどくなってしまう。
これは性格でしょう。
しかし、誰も読んでいないであろうことを願い、この場は僕の理論実験や頭を整
理するための吐き溜めとして使っている。

誰も僕の文を読みませんように。

ではでは

0 件のコメント:

コメントを投稿