私はいわゆる現場肉体労働の傍ら、時には福島の山中の圧倒的自然の中、なんやかやの是か非などどうでもよくただ一点、人災放射能を憎んだりしながら日々を過ごすこともある。
知人に浪江町近くの山を所有している方がいるためだ。
あんまりにも自然が自然で圧倒されながらも、それを美しいと思わざるをえない中に身を置く時、どうしても放射性物質は目に見えず、人工である以上責任の所在の対象が自身を含める多数として明確にあるものに、矛盾した怒りを覚えずにはいられないのだ。
山中で育てたズッキーニやオクラが美味しくて、福島駅前で食べたウニが美味ければ美味いほど、腸が煮えくり返るほど放射能が憎らしいのだ。
何より私が埼玉県(住居)と東京都(職場)でのうのうと暮らし、目下一番の目標は留学中の活動費用を少しでも多く貯めることであるというまったくの利己意識にもモヤついた感情を抱いている。
しかし、無論私には私の設定したやるべきことがあり、それを実行するまでは何人にも侵害させず揺らぐものではない。
昨晩、Yahoo!NEWSで湯川遥菜さんという方が内戦下のシリアで拘束されたようであることを知った。
私は氏がどのような人物かは知らない。それをネット検索してから書くべきかもしれないが、私は感情が鮮度を失う方がただでさえ温度が伝わりにくいネット媒体において、それこそがリスクであると考えている。
記事を一部抜粋。
「半分はジャーナリストで半分は医師だ」"などと"英語で答える映像が公開された。身代金要求の有無などは不明。
(文中「などと」につけた""は、橋本 仁がつけた)
まず、私が思ったことは本人の安否、漠然とした心配である。
生命というもの人間だけが特別ではなく今も生と死の新陳代謝が絶え間なくいとなまれていることは理解してるが、文中の"などと"には個人的に自業自得の揶揄が含まれていると感じた。無論、ただの思い込みであるとの自覚もある。
当たり前のように命に人種は関係ないが、せいぜい目の前の人間や情報として目にする邦人の、一人の命をまさか見捨てる気持ちはないだろうと思いながら、ケースとして別物ではあるが幾年か前の同じような事件を思い返し、便利な情報社会に便乗しそのままカーソルを下へ移行しコメントを盗み見た。
すると、ふと予想した危惧のとおり(以下抜粋)
「この人は仕方ない」かな?
護身用の銃を携行。その時点でもう写真家じゃねえよ。
自業自得ですね
とあり、Facebookにあるイイネみたいな親指のみを上に向けたマークとBad的な親指のみを下に向けたマークの比率がほぼ3500対400であった。
無論、一つの命がなくなるのが"自業自得"で"仕方がない"という意見が圧倒多数である。
私はまだ20代の若僧だ。日本で育っている。無職だ。日本的ステータスで言えばこの時点で"ゴミ"と言われる人物だ。
無論、地球内の相対評価で自身が甘くて弱い人間であることを自覚している。故に命の喪失に過敏なのだ。身内の地球内における相対的に甘い病院での死においてすら、いちいち意味を考える。しかし私はそれらの思考が利己的でただの思い込みでもなんらかまわないと考えている。
命の喪失を、まず原因を疑い責任の比重を量り命を失う側と奪う側とで冷静にジャッジし、その割合で是か非かとまるでゲームのように論じるのがそんなに楽しく良いことなのか。
そんなコメントをわざわざ多数の人が目にする場に吐露する人は普段の生活でもそのように発言しているだろうか。
コメントに対する3000を越える賛同はそのまま震災による人災でさえ"運が悪かった"と考える実質的総数だと考えるのは私の考え過ぎだろうか。
冷静に言ってみても、護身用の銃を携行することで写真家ではない。ということや、本人が物品調達の仕事で一儲けしようと現地入りした。ということは私には理解の範疇を越える。
事実確認は他者の情報を介するためどうにもできないが、上記一つめの護身用の銃を持っては写真家ではないということは、はたしてそう言えるだろうか。
死を覚悟すると言えば聞こえもよく格好良いが、はたしてそれを実感覚を伴わない机上の空論で押し付ける大多数というのは寒気がしないだろうか。
「死」はTVという怪しい箱の中でおこなわれる偽物のことではない。
2万人が死ねば2万のそれぞれ固有の「死」があるのだ。
故に「一人の死」は「一つの削除」ではない。
そのように考えるのは、私が平和を傍受した若輩者であるという甘えと余裕によるものなのだろうか。
私にはまさに現行の社会が地獄に見えて人間が餓鬼だらけに見える。
私が狂っているならばその方が世界は幸せだろう。
むしろ私はそう願ってやまない。
私は狂っているのだ。不必要な不安を拾い誇大妄想の強迫観念の中で破滅の狂想曲に酔いしれるアル中なのだ。
それでいいなら、それでいい。
私はまた新たな私を生み出すだけなのだから。
確かに、そろそろ新しい名前を創るのも悪くない。
くそったれと毒ずくのも、そんなに楽なことではないのだ。
私は根暗にblogでのみ特別に発言しているわけではないのだから。
草枕の冒頭は、今も健在ですよ。漱石さん。
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2014年8月19日火曜日
2014年8月12日火曜日
コンセプトスケッチ
万物は表裏一体、そしてその「あいだ」とで構成されている。
生と死。陰と陽。中と外。彼岸と此岸。
すべての相対的関係には「あいだ」が介在し、それぞれに幅と深度と多様性が多次元的に構成されている。
我々は理論上で三次元以上を扱うことはできるが、知覚することはかなわない。
なぜなら、我々が世界と触れることのできるこの身体は三次元で発生し回帰する物質であり、脳もまた同じであるが故に知覚は三次元の域を出ることはない。
俗に言う第六感というものは知覚器官としては脳を使用しているが、それを傍受するのは多次元の名残である意識体であると考える。
意識体とはいわゆる魂として古来から信じられてきた、語弊を恐れずに言えば、霊的なものである。
それらは三次元の周辺の多次元空間で一つの次元を構成していると考えられるが、ある時、匣としての身体に宿るのだ。おそらくそれは、振動するブレーンを行き来する弱い重力のように。
だがしかし、これは場合によってはかなり"危ない話"である。余談だがこの場合、一線を越えるキーワードは"輪廻"である。
さて、私は長らく「Memory Code」と題して身体性と現象と記憶を扱ってきた。
主に素材として鉄を用いてきたが、それは鉄が気体・液体・個体にまたがるもので、その現象性を克明に記述するもので、鉄そのものに宇宙の記憶が潜んでいるからだ。
鉄の内在的記憶と私が付与した外在的記憶は私の身体的記憶と呼応し、私はまさに、「生きている」ということを自覚する。もしくは感得する。
その結果物を私の身体が属する三次元空間に実現させることにより、私は私の歴史を作り始める。
三次元空間での「生きる」とは、かくも重く積み重ねられるものだということを時代や情報の速度や軽さに惑わされ、「生きる」ということを忘れかけた人達へのメッセージを持って、それを作品の社会性としてきた。
大事なことは、自然と人間という一神教的な相対関係ではなく、その「あいだ」の哲学であり感覚であるということを、日本人である私が言える最大限の示唆であり啓蒙であると考えた。
しかし、物体としての私の結果物は固定観念の壁を破ることはできず、ただの無意味な"彫刻"として時に評価され片付けられてきた。
私は唯、そこに自己という存在を表出し第三者はその結果物に自己と他者を投影しうるという普遍的鏡像関係を作り、鑑賞者に内在する"なにか"に語りかけたかっただけなのだ。
私は「記憶の暗号 ― 虚構の被膜 ―」2013年作 から身体性を隠すように、視覚的にきらびやかに、下品に、より表面的な塗装を施すようになった。
重さを隠し汗の香りを隠し時間を潰した。
何故なら、私は努力賞が欲しいのではないのだし、ARTは常に逆説的に捉えられる理想の提示であるからだ。
ARTは情報と同じくして、きっかけであり入口である。目の前の良質なARTには明確な"先"が設定されており、鑑賞者は鑑賞という作者との交感を経てその"先"への道程が拓けるようにプログラムされている。
故に、ARTの真の社会性は見えざるものであり、見える者にはもはや言葉という記号はいらないのだ。
そういった意味で、実はARTはデュシャンが否定したにも関わらず、魔術的で儀式的でオカルトな媒体物であるという一側面を拭えない。
私の大学修了時の作品における社会性は東洋哲学、とくに西田幾太郎の二項同一、陽明学における知行合一に影響を受けている。
是が非かではなく、是も非も受け入れてその「あいだ」で結果を形成してきた、日本という風土の歴史哲学を私は表現したかった。
そのために匣に表面的な装飾をした作品と内側に世界を創った作品を並列し展示をしたのだし、匣の内側には入口を示唆するような異次元的な奥行きと映像的で曼陀羅の様な止まらない現象的色彩を配したのだった。
しかし、私は売れない芸術家。
呪われた詩人。
役に立たない思想家である。
今日も無駄の塊を虚しく世間に吐くだけなのだ。
日本に
ART難民幾千人
増えるだけで声は発せず
革命と歌とはセットである。
やはりARTも歌い謡い唄い詠い吟い謳い唱わねば。
誰かに、届け。
火星の寒空の下、今も誰かが地球を嘆く。
生と死。陰と陽。中と外。彼岸と此岸。
すべての相対的関係には「あいだ」が介在し、それぞれに幅と深度と多様性が多次元的に構成されている。
我々は理論上で三次元以上を扱うことはできるが、知覚することはかなわない。
なぜなら、我々が世界と触れることのできるこの身体は三次元で発生し回帰する物質であり、脳もまた同じであるが故に知覚は三次元の域を出ることはない。
俗に言う第六感というものは知覚器官としては脳を使用しているが、それを傍受するのは多次元の名残である意識体であると考える。
意識体とはいわゆる魂として古来から信じられてきた、語弊を恐れずに言えば、霊的なものである。
それらは三次元の周辺の多次元空間で一つの次元を構成していると考えられるが、ある時、匣としての身体に宿るのだ。おそらくそれは、振動するブレーンを行き来する弱い重力のように。
だがしかし、これは場合によってはかなり"危ない話"である。余談だがこの場合、一線を越えるキーワードは"輪廻"である。
さて、私は長らく「Memory Code」と題して身体性と現象と記憶を扱ってきた。
主に素材として鉄を用いてきたが、それは鉄が気体・液体・個体にまたがるもので、その現象性を克明に記述するもので、鉄そのものに宇宙の記憶が潜んでいるからだ。
鉄の内在的記憶と私が付与した外在的記憶は私の身体的記憶と呼応し、私はまさに、「生きている」ということを自覚する。もしくは感得する。
その結果物を私の身体が属する三次元空間に実現させることにより、私は私の歴史を作り始める。
三次元空間での「生きる」とは、かくも重く積み重ねられるものだということを時代や情報の速度や軽さに惑わされ、「生きる」ということを忘れかけた人達へのメッセージを持って、それを作品の社会性としてきた。
大事なことは、自然と人間という一神教的な相対関係ではなく、その「あいだ」の哲学であり感覚であるということを、日本人である私が言える最大限の示唆であり啓蒙であると考えた。
しかし、物体としての私の結果物は固定観念の壁を破ることはできず、ただの無意味な"彫刻"として時に評価され片付けられてきた。
私は唯、そこに自己という存在を表出し第三者はその結果物に自己と他者を投影しうるという普遍的鏡像関係を作り、鑑賞者に内在する"なにか"に語りかけたかっただけなのだ。
私は「記憶の暗号 ― 虚構の被膜 ―」2013年作 から身体性を隠すように、視覚的にきらびやかに、下品に、より表面的な塗装を施すようになった。
重さを隠し汗の香りを隠し時間を潰した。
何故なら、私は努力賞が欲しいのではないのだし、ARTは常に逆説的に捉えられる理想の提示であるからだ。
ARTは情報と同じくして、きっかけであり入口である。目の前の良質なARTには明確な"先"が設定されており、鑑賞者は鑑賞という作者との交感を経てその"先"への道程が拓けるようにプログラムされている。
故に、ARTの真の社会性は見えざるものであり、見える者にはもはや言葉という記号はいらないのだ。
そういった意味で、実はARTはデュシャンが否定したにも関わらず、魔術的で儀式的でオカルトな媒体物であるという一側面を拭えない。
私の大学修了時の作品における社会性は東洋哲学、とくに西田幾太郎の二項同一、陽明学における知行合一に影響を受けている。
是が非かではなく、是も非も受け入れてその「あいだ」で結果を形成してきた、日本という風土の歴史哲学を私は表現したかった。
そのために匣に表面的な装飾をした作品と内側に世界を創った作品を並列し展示をしたのだし、匣の内側には入口を示唆するような異次元的な奥行きと映像的で曼陀羅の様な止まらない現象的色彩を配したのだった。
しかし、私は売れない芸術家。
呪われた詩人。
役に立たない思想家である。
今日も無駄の塊を虚しく世間に吐くだけなのだ。
日本に
ART難民幾千人
増えるだけで声は発せず
革命と歌とはセットである。
やはりARTも歌い謡い唄い詠い吟い謳い唱わねば。
誰かに、届け。
火星の寒空の下、今も誰かが地球を嘆く。
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