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2014年9月14日日曜日

子に親に、めくるめく。

あれも嫌い。これも嫌い。
社会にまみれてお辞儀の角度が大事なのだというのは嫌い。結局、人と人の関係だよねとか言いながら作り笑顔の作り声も大嫌い。人生とは好きなことばかりやれるものではないだとか、教育・勤労・納税は国民の三大義務だとか、夢や希望を、自分が見ることさえ恐れて逃げたものに、蓋をするような大人になってはいけない。

私は10月末で30歳になる。
今だにこんなことばかり言っている"お寒い"人間である。最愛のパートナーは無論、5年の歳月を経て私の前から消えていった。とても勘の鋭い女性であったから、おそらく見限られたのであろう。これからの、あまりに長い戦いを思えば、当たり前だと私も思う。
学生生活という名のついたちんけな夢であったにすぎない。

私はアーティストに成る。成り上がりはしないだろうが。粛々と、かつ淡々と。私の正しさ、正義というものに嘘をつかないように生きるため。
誰もが反対をする。誰もが才能が無いと言う。それを蹴散らし作品を実現し賞をとり味方を増やしてきた。既にして茨の道なのである。
しかし更なるぶっとくゴツい最高の茨を私は求める。かかってきやがれ。甲冑でも着ようかな。

なんで、何故、この国は夢をみることを許さないのか。何故、傷を舐め合うコミュニティーしか作ろうとしないのか。何故、肩書きばかりで人間をみるのか。
教育による洗脳なのだろうか。情報による統制なのだろうか。確かに私は教育もできうる限り放棄してきたし、情報も8割くらいは傍受しないようにしている。だからって、なんでこうも価値観が違ってしまうのだろうか。邪悪な父性という毒にあたられた年数が少ないからであろうか。身勝手な大人に自己肯定の道具にされたことは、今のところ無いといってよいだろう。もしかすると、これは中々に大きいことかもしれない。

国というよりも、もっと身近で同じくらいに邪悪な「父性」というもの。
夥しい勝者と敗者を生み出す鬼畜的な資本主義社会機構。その中で生まれる意地汚く下卑た自己肯定という汚物。
自然界ではしばしば、毒をもつ生き物がとても美しい模様をまとうことが少なくない。ケバケバしくも統制がありハレーションの美しいリズムがあり、毒が毒たる甘美な毒性というものさえ生み出していると言えるだろう。
対して、人間が人間の機構の中で育んできた権力思考や勝者と敗者の対立関係、意地汚く他人を卑下するかもしくは世界を限定して語ることでしか得られない腐臭のする自己肯定! それらは自然のかれらのような甘美な毒性を孕んでいるだろうか。リズムなど、皆無ではなかろうか。
同じように、致死的な毒なのに。

私は、年をとらない。
耐え難い重い荷物を背負わないから。
人にどう思われたいだとか、人気者や売れっ子になって目立ちたいだとか、女を抱きまくりたいだとか、でかい土地だの家だの高級車だの、ぜーーんぶ、いらない。

僕は、男だから、唯々正しく在りたい。
男だからとか言うといちいちヒステリックにうるさい昨今だけど、やっぱり男に生まれたからには浪漫やダンディズムや少年性というものを大事にしたい。それらを性別的な特権であるとは思ってもいないし言ってもいない。
でもやはり、男として生まれたからには、男であることにこだわりたいのだ。あれこれ理由をつけて。

実は、これが忌まわしき父性の毒の萌芽であるとは、一方ではあまりに辛い事実なのである。
浪漫が、夢が、たとえそれらを持つ前であったとしても、心と一緒に打ち砕かれて、純粋は瞬時にして邪に染まる。
同僚を妬み上司の悪口を言い寂しさに結婚しマンネリを埋めるために子を作る。長い生きがいはやがて手元を離れ、社会的な役目も肉体の衰えと共に失われてゆく。死を意識し、生の自由に気がついた時には、子は自身の鏡像となりまた孫に毒を吐きかけ始める。なすりつけ、取れないように、念入りに。自身を慰め尊敬するように。

成虫も、卵も、幼虫も、蛹も、胎児だって新芽だってなんだって、あんなに美しいではありませんか。
せめてそれだけは、ユング的にデカルト的に、思い込みだとか言わずに信じましょうよ。

何故に人間の子育てだけが、こんなにも邪悪に映るのでしょう。
それは私自身が汚らわしいから。

ふむ、では、あなたは?





2014年9月10日水曜日

ひねくれもの

窓の外で

馬鹿が吠える

俺も昔、そうだった

それがむしろ、なんだか、自己顕示のような、仔犬の威嚇のような

そんなものだったのだろうと思う

暇ではぐれて淋しくて

それをもし続けていたら

きっと、まるで、ゴミのように

集めて、捨てられ、最後の最後まで塵ひとつ残らず、掃除機で吸い取られてしまうだろう

集めて(税金)、捨てられ(大蔵省)、最後に掃除機で吸い上げる(官僚)

誰かにとっては至上の機構ではないか

天晴れ。





2014年9月3日水曜日

島と私の、あいだ。

私という現象は、国民国家以前その後日本と名付けられたこの島の、気候風土の産物である。
その現象を創出するのは、温暖湿潤の豊かな環境が生み出したこの島の色と香りと時間である。

この島には是か非かということは似合わない。
物事を断定することが苦手で、かつて大江健三郎がいったような、"あいまいな日本としての私"としかいうことができないものだ。
なぜなら、この島の本質は生と死、陰と陽、内と外、彼岸と此岸、それらの「あいだ」にこそ在るからだ。
だから、我々の歴史の中では常に外来の文化習俗を捏ねて編集をしてきたのだ。

それが、私の発生した日本という場なのである。

明治維新後、国民国家となり西洋世界のお仲間に入れてもらった日本は、言わずもがな激動蒙昧な戦争史へと突入することになる。
狂いはじめてブレーキのいかれた日本は、司馬遼太郎をして本来を失った"異胎の国"と言わしめた。
日本の本来は、言い抜けてしまえば唯々海からこんもりと頭を出した地球の表面の一部であるというだけにすぎない。
それだけに、豊かで妖しい森林を背景とした多神多仏で禅めいた香りがひとつ確信を持って感じられるのだ。
分かりにくければ、本来を失わずに漢字を導入し、やがては平仮名を生み出した日本の歴史を思い出してもらいたい。
それが、この島の気候風土が促した選択なのだ。

しかしその本来を失ったまま戦争という事実だけを置き去りにし、いまだ我々は異胎の児としてゴキブリや鼠と共にコンクリートの上を這いまわる。

日本の本来を取り戻すということは、個人の本来を取り戻すということだ。
それは自分の魂と脳と身体に向き合うこと。
身体を使い鼓動に耳をすまし脳を使って想像し、自らがどのようなものであるかを感得するのだ。
気候風土に象られた匣に宿りし多次元存在は如何なるものかということを。

敢えてその場に対極的な相対性を生み出すならば、そこには必ず「あいだ」があり、そこを淡く感じられるのはこの島の湿度ゆえである。

蓄積されたその現象と記憶のただ中に、土塊だった私が在るのだ。