ARTはPUNKだ。
ROCKでもないしPOPはもはやF**Kだ。
PUNKの本質は自由という覚悟だ。
そして自由とはそもそも仏教語で、自らをもって由とする。だ。つまり究極的な自己責任の受容だ。
反体制もSEX&DRUGもただのスタイルとしての解釈にすぎない。
お洒落じゃない。もっと土臭い人間の咆哮である。
だから、ROCK は長生きしてファンを魅了し続けてよい反面、PUNKはまるで武士のように命を気持ち良く散らせねばならない。
PUNKは命を賭けた個人レベルの反体制だから。
しかし、いつしか時代からPUNKは消えた。
PUNKは完全にスタイル化を果たし現日本においては"ビジュアル系"というお寒いカテゴライズの中に居る。
しかし、それも当たり前のことでそれらはすべてファッションのPUNK"スタイル"だからだ。
私は、お金は世界で最も物質的価値を持たないものであり一番大事なものであると考えている。
PUNKには、そもそも経済観念はない。反体制に後乗りで勝手にレーベルがついてくるだけだ。何しろ仕掛け人すらまともなキチガイ(問題があるならバカヤロー)だからだ。
しかし、仕掛け人の方が一枚上手で、結局は貴重なアーティストはDRUGで永遠のユートピアへ旅立つことになる。
別にARTISTが長生きしてはいけないなんて言わない。
でも、保身に躍起になっているだけの偽物があまりに多すぎる。
あの村上隆だってすぐにそうなってしまった。
結局は権力に嫉妬していただけだったのだ。日本画科の哀しい宿命である。
ARTは物凄くレベルの高い趣味ではないし、生活空間をなんとなく面白くする装飾物でもない。
ARTは、只々、悲痛な叫びである。
PUNKは、ARTに比べ脳細胞が少ないかわりに衝動的で情動的で、あきらかに"生"な感じが強い。
ARTは囲碁・将棋に類するかもしれないが、PUNKはジャンケンのスピード感を持つ。
ここからは個人の人間性と好みだが、やはり私はゴッド.セイヴ.ザ.クイーンであってアナーキー.イン.ザ.UKであって阿部ちゃん万歳ーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!!!!!!
なのである。
戦争知らずのボンボン。血筋でアメリカ留学して世界を知った気なっているボンボン。経済観念ばかり得意で文化的素養が低い野蛮極まりないボンボン。移民政策で自らの生活どころか民族としてのアイデンティティの危惧さえ想像できない究極的な愚者達よ。
君はエライ人でいいからね。上杉鷹山などを見習いなさい。少しはまともな未来が見られるでしょう。
万人を馬鹿にせず、少子高齢化を正面から見据え、原発及び放射能の問題をしっかりと正面から捉えることができる大人になりましょう。
経済観念はまずあなたの資産保持ではなく真の国益を見据えましょう。
堪え性のないTV世代の政策は、"恥ずかしい"ことですよ。
土の香りを嗅いでみなさい。虫の音に耳を済ましてみなさい。
神と塵のあいだに置いている"あなた"ではなく、自らも糞畜生と蔑んでいる庶民と同じ「人間」であることを知ることでしょう。
そのための啓蒙的ARTでありPUNKなのです。少なくとも売れてもいない私にとっては。
管理が大好きな豚さん達、本質的な生を知らずに死になさい。
諺には馬鹿を救う言葉は無いのだから。
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2014年5月31日土曜日
2014年5月25日日曜日
日本は素晴らしい国です。
まず、安全です。それを担保しているのは所得水準の高さです。
他者を殺すリスクの高さに比べ、とにかく働いた方が死との距離が遠いから。
さてしかし、人間とは人間の"生"とは、安全と安穏で本当に全うされるのでしょうか。
ではなぜ、やむにやまれない加害者も被害者も救われないような事件が多発するのですか。
理論上、我々は満足しているのですよね。餌を与えられる犬のように。尻尾を振ってわんわんと。そして理論上、その満足に成り立てば人間は善き労働者になるのでしょ。たいへん優秀な政治家様方。はてさて何故でしょう。便利で最新テクノロジーに囲まれて何不自由ないのに、白髪の生えた初老のおじさま達が汚ない言葉で罵り合い時には暴力を振るうのは。
きっと素晴らしい優秀な政治家様方は見たことないでしょうね。満員電車の現代ドラマを。
これは日記ではありません。
"公"を意識したアーティストとしての私の言葉、文字を媒体とした表現であり作品です。もしくは立体作品の補助的役割を果たしています。
BLOGというのはある性質の人にはあまり良い意味を持ちません。僕がまさにそのある性質の人間であったからよく分かります。
しかし、意識をしっかりと"公"に保ち個人の生活基盤上に基づいたものであればそれは場合によって微弱ではあれ、社会においての個の歴とした表現となりえます。
私が訴えるのは浅薄な日本批判ではありません。
むしろ現代における歴史的現在年としての明確な意識批判です。
五月蝿いことは次回にします。
時間感覚と時代と蓄積と人間のお話は今日はやめておきます。
何故なら眠いから。
二泊三日の労働合宿をしていたから。
お金はからだで稼ぐ。無駄に頭は下げない。
これが私の労働スタイルです。美術を気楽な趣味だと言われないために。クリストの言葉を借りるなら、
"ARTの自立性を保つため"
学生時代、クリストが好きだと言ったら理由も聞かずでかいもん作ってるだけだと思うなよ、おまえの千倍考えてんだ。おまえは甘いと言われたことが心の傷です。
何故なら、私はその時すでに作品よりもその言葉に共鳴し好んでいたから。
人の話を聞きましょう。
ありがとうとごめんなさいを言えるようになりましょう。
これ、素晴らしい政治家様方、できていますか?
あなた方の怠慢のせいで、巷には質悪い"大人"が跋扈しています。無論、あなた方を含めて。
最後にもう一度、これは日記ではありません。
社会的声明であり作品もしくは作品の一部です。
ただ言いたいことは、
汗をかきましょう。
身体を使いましょう。
そうすれば、きっと目の前のストレスをぶつけてくるバーコードハゲのオヤジも気にならなくなるし一生出会わないで済むでしょう。
「場の淀みは人間の淀み」です。
より善く生ましょう。
まず、安全です。それを担保しているのは所得水準の高さです。
他者を殺すリスクの高さに比べ、とにかく働いた方が死との距離が遠いから。
さてしかし、人間とは人間の"生"とは、安全と安穏で本当に全うされるのでしょうか。
ではなぜ、やむにやまれない加害者も被害者も救われないような事件が多発するのですか。
理論上、我々は満足しているのですよね。餌を与えられる犬のように。尻尾を振ってわんわんと。そして理論上、その満足に成り立てば人間は善き労働者になるのでしょ。たいへん優秀な政治家様方。はてさて何故でしょう。便利で最新テクノロジーに囲まれて何不自由ないのに、白髪の生えた初老のおじさま達が汚ない言葉で罵り合い時には暴力を振るうのは。
きっと素晴らしい優秀な政治家様方は見たことないでしょうね。満員電車の現代ドラマを。
これは日記ではありません。
"公"を意識したアーティストとしての私の言葉、文字を媒体とした表現であり作品です。もしくは立体作品の補助的役割を果たしています。
BLOGというのはある性質の人にはあまり良い意味を持ちません。僕がまさにそのある性質の人間であったからよく分かります。
しかし、意識をしっかりと"公"に保ち個人の生活基盤上に基づいたものであればそれは場合によって微弱ではあれ、社会においての個の歴とした表現となりえます。
私が訴えるのは浅薄な日本批判ではありません。
むしろ現代における歴史的現在年としての明確な意識批判です。
五月蝿いことは次回にします。
時間感覚と時代と蓄積と人間のお話は今日はやめておきます。
何故なら眠いから。
二泊三日の労働合宿をしていたから。
お金はからだで稼ぐ。無駄に頭は下げない。
これが私の労働スタイルです。美術を気楽な趣味だと言われないために。クリストの言葉を借りるなら、
"ARTの自立性を保つため"
学生時代、クリストが好きだと言ったら理由も聞かずでかいもん作ってるだけだと思うなよ、おまえの千倍考えてんだ。おまえは甘いと言われたことが心の傷です。
何故なら、私はその時すでに作品よりもその言葉に共鳴し好んでいたから。
人の話を聞きましょう。
ありがとうとごめんなさいを言えるようになりましょう。
これ、素晴らしい政治家様方、できていますか?
あなた方の怠慢のせいで、巷には質悪い"大人"が跋扈しています。無論、あなた方を含めて。
最後にもう一度、これは日記ではありません。
社会的声明であり作品もしくは作品の一部です。
ただ言いたいことは、
汗をかきましょう。
身体を使いましょう。
そうすれば、きっと目の前のストレスをぶつけてくるバーコードハゲのオヤジも気にならなくなるし一生出会わないで済むでしょう。
「場の淀みは人間の淀み」です。
より善く生ましょう。
2014年5月18日日曜日
2014年5月17日土曜日
此岸。彼岸ハ見ヘズ。
花曇り
五月雨の前
彼の言ふ
記録ってなぁ、とっても厄介なもんでね。
記録されてるもんが鍵かスイッチみたいな役割をしちまってね。
せっかく忘れてたあんたの記憶を思い出すのだよ。
あんたがくれたもの、作ったもの、日常のあれこれ、良かった時のこと。
そりゃぁ、くだらんでしょうよ。
むやみやたらにシャッターを押しまくったり、馬鹿みたいにメールをとっていたりしないあんたにはね。
あたしゃぁまるで馬鹿みたいだね。
いずれ消えてなくなるもんに命を張っていたのだからね。
あーいやだ。
ぞっとするよ。
まったくね。
こうなるからやめときゃよかったんだよ。
10年後にまったく同じことやらなきゃいいがね。
あたしゃそいつが一番怖いんだよ..
もうすぐ梅雨がくるねぇ。
いやだねぇ。
2014年5月16日金曜日
告知!!!!!
現在、26日まで表参道の 美容室 Overland にて 「人と文化が交わる場所 Overland × アーティスト 橋本 仁 コラボレーション企画展 Vol.2」として、「橋本 仁 展 あしとりんご ー 在るべき未来への原点回帰 ー・"Who"の肖像」を開催中です。
住所は 渋谷区神宮前4-23-2 原宿テラス 101 です。時間は11時〜20時。火曜定休。
19日は19時〜 参加自由の公開座談会を開催します!
参加費として恐縮ですが自慢の日本酒4合瓶以上を1本か、1000円を頂きます。学生はお酒か500円。
ビールはご用意致します。
奮ってご参加ください◎
大正時代、もしくは60,70年代のような熱い夜を過ごしましょう!
"現代"を、ぶっとばせっ!!!!!!!!!!!
住所は 渋谷区神宮前4-23-2 原宿テラス 101 です。時間は11時〜20時。火曜定休。
19日は19時〜 参加自由の公開座談会を開催します!
参加費として恐縮ですが自慢の日本酒4合瓶以上を1本か、1000円を頂きます。学生はお酒か500円。
ビールはご用意致します。
奮ってご参加ください◎
大正時代、もしくは60,70年代のような熱い夜を過ごしましょう!
"現代"を、ぶっとばせっ!!!!!!!!!!!
2014年5月12日月曜日
2014年5月1日木曜日
橋本 仁 × Overland コラボレーション展覧会 コンセプト
"Who"の肖像
人は、大抵の人は、他者を顔で認識しています。
しかし、その顔への認識たるやへのへのもへじのバランスを変えただけでも知り合いや自画像のように見えるものです。
還元すれば極めて少ない点と線まで削ぎ落とすことが可能で、こと単なる顔という認識であれば傍線を2本横に並べたものを目だと言えば、― ― 目に見えるでしょう。
では、我々は他者の顔の何を見ているのでしょうか。
我々は他者の顔に"全体"を知覚しています。それは五感にとどまらず第六感の範囲にまで及びます。相手の"顔色"をうかがうとはよく言ったものです。
まず顔をみた時に、目鼻口などそこに視覚的に写し出される二次元的な要素は全て朧と霞の中に消え、我々はその人全体の雰囲気を捉えています。肝心な眼光や目つきでさえそれは全体を表す暗喩にしかすぎません。
初対面ならばどのような人で何をやってきて何をしている人なのか。友人であれば体調や気分、恋人であれば尚更気にするところは増えていくでしょう。
そこに至りはじめて細かい表面的なパーツに目がいくこととなります。目・鼻・口とはっきりしてくるにつれ、そこにたち現れてくるものは一体何でしょうか。
"Who"の肖像は、"誰か"と鏡像関係を結ぶ肖像です。
誰しも人は他者と鏡像関係を結んでいます。自分という存在は他者に発見されることで初めて自分になるのです。つまり、個の萌芽は他者の認識から始まるということになります。
そこにある他者への様々な感情も観察による思い込みも、自身を映し出す鏡に他なりません。そのめくるめく鏡の複雑に林立する様を、人間は社会と呼んでいるのです。
鏡像関係を認知することは個の萌芽という意味以外でもとても重要なことです。なぜなら、鏡像関係とは人と人にとどまる関係性ではないからです。
例えば、時代は価値観と鏡像関係を結び、地球は宇宙と鏡像関係をむすんでいます。大は小と、全体は部分と、陰は陽といった具合に。
しかし、これらは観念であり実感覚として体感はしづらいものです。
ですから、生きるには様々な意味でも"他者"が必要なのです。
あなたはわたし、わたしはあなた。
そのようにして観てみることで、人によってはいささか世界が真逆に見えることもあるかもしれません。
そんなふうに捉えてみることで、もしかしたら世界はいまより少し平和になるかもしれません。
ARTは社会における立派な機能の一つだと考えます。そしてそれは観る人に"何かしら"を喚起させる装置でもあります。
それがたとえ作者の意図するところでないとしても、むしろそれが他者との交感であり表現の始まりなのです。
皆さんも、どうぞ壁に掛かっている"誰か"を探してみてください。
もしかすると、それは"自分"かもしれません。
橋本 仁
人は、大抵の人は、他者を顔で認識しています。
しかし、その顔への認識たるやへのへのもへじのバランスを変えただけでも知り合いや自画像のように見えるものです。
還元すれば極めて少ない点と線まで削ぎ落とすことが可能で、こと単なる顔という認識であれば傍線を2本横に並べたものを目だと言えば、― ― 目に見えるでしょう。
では、我々は他者の顔の何を見ているのでしょうか。
我々は他者の顔に"全体"を知覚しています。それは五感にとどまらず第六感の範囲にまで及びます。相手の"顔色"をうかがうとはよく言ったものです。
まず顔をみた時に、目鼻口などそこに視覚的に写し出される二次元的な要素は全て朧と霞の中に消え、我々はその人全体の雰囲気を捉えています。肝心な眼光や目つきでさえそれは全体を表す暗喩にしかすぎません。
初対面ならばどのような人で何をやってきて何をしている人なのか。友人であれば体調や気分、恋人であれば尚更気にするところは増えていくでしょう。
そこに至りはじめて細かい表面的なパーツに目がいくこととなります。目・鼻・口とはっきりしてくるにつれ、そこにたち現れてくるものは一体何でしょうか。
"Who"の肖像は、"誰か"と鏡像関係を結ぶ肖像です。
誰しも人は他者と鏡像関係を結んでいます。自分という存在は他者に発見されることで初めて自分になるのです。つまり、個の萌芽は他者の認識から始まるということになります。
そこにある他者への様々な感情も観察による思い込みも、自身を映し出す鏡に他なりません。そのめくるめく鏡の複雑に林立する様を、人間は社会と呼んでいるのです。
鏡像関係を認知することは個の萌芽という意味以外でもとても重要なことです。なぜなら、鏡像関係とは人と人にとどまる関係性ではないからです。
例えば、時代は価値観と鏡像関係を結び、地球は宇宙と鏡像関係をむすんでいます。大は小と、全体は部分と、陰は陽といった具合に。
しかし、これらは観念であり実感覚として体感はしづらいものです。
ですから、生きるには様々な意味でも"他者"が必要なのです。
あなたはわたし、わたしはあなた。
そのようにして観てみることで、人によってはいささか世界が真逆に見えることもあるかもしれません。
そんなふうに捉えてみることで、もしかしたら世界はいまより少し平和になるかもしれません。
ARTは社会における立派な機能の一つだと考えます。そしてそれは観る人に"何かしら"を喚起させる装置でもあります。
それがたとえ作者の意図するところでないとしても、むしろそれが他者との交感であり表現の始まりなのです。
皆さんも、どうぞ壁に掛かっている"誰か"を探してみてください。
もしかすると、それは"自分"かもしれません。
橋本 仁
橋本 仁 × Overland コラボレーション展覧会 コンセプト
あしとりんご ー 在るべき未来への原点回帰 ー
我々が存在している現在とは"歴史的現在年としての今"と言い表すことができます。
それは常にある膨大な量の過去という時間のうえに今が在るということで、現在の我々はそういったことを株価の推移や移動の速度に惑わされて忘れてしまっているのではないでしょうか。
まるで自分達が進化した末の産物であると思っているかのように、ピタゴラスやソクラテスより物事を解っているのだと。
個人の時間軸においても、生きた分だけ過去があります。
そんなことに価値はないのですが、確証たる感謝というものは必ずあります。
そんな身近な尊い感謝すら、我々は忘れてしまっているように私には思われます。
他者への感謝、自然への感謝、地球への、宇宙への感謝。
たった一つの砂粒が世界に存在するためには、一つの宇宙が必要なのです。
600万年前、我々の祖先はニ本足で立ち上がり種の未来を激変させました。
狩りをし農作物を育て豊富なタンパク質を脳へと調達し、脳は常に合理性を求め負荷を削減し利益を増やしてきました。
結果、脳は脳へのより効率性の高い栄養補給を実現した一方で身体が果すべき仕事を奪いました。
哀しいかな、人類の叡知がもたらしたのは運動量の減少に伴う様々な生活習慣病と、一生を言い訳がましい自らの保身に始終するだけの"人生"という空語でした。
我々が二足歩行の変化を経て"智"を獲得したことにより堕ちたというのならば、我々をその奈落から救い上げるのもまた"智"ではないでしょうか。
我々は人類生誕600万年から遡り、身体性とは、本当の"智"とは何であるかを思い出さなければならないのだと私は考えます。
かつてその時代の社会と戦い抜いたプロテスタントの修道士マルティン・ルターが言いました。
「たとえ明日、世界が滅びようとも私は今日りんごの木を植える」
私は足跡に身体性と過去を見立て、そして植えるように智の林檎を描きます。
在るべき未来への夢をみながら。
橋本 仁
我々が存在している現在とは"歴史的現在年としての今"と言い表すことができます。
それは常にある膨大な量の過去という時間のうえに今が在るということで、現在の我々はそういったことを株価の推移や移動の速度に惑わされて忘れてしまっているのではないでしょうか。
まるで自分達が進化した末の産物であると思っているかのように、ピタゴラスやソクラテスより物事を解っているのだと。
個人の時間軸においても、生きた分だけ過去があります。
そんなことに価値はないのですが、確証たる感謝というものは必ずあります。
そんな身近な尊い感謝すら、我々は忘れてしまっているように私には思われます。
他者への感謝、自然への感謝、地球への、宇宙への感謝。
たった一つの砂粒が世界に存在するためには、一つの宇宙が必要なのです。
600万年前、我々の祖先はニ本足で立ち上がり種の未来を激変させました。
狩りをし農作物を育て豊富なタンパク質を脳へと調達し、脳は常に合理性を求め負荷を削減し利益を増やしてきました。
結果、脳は脳へのより効率性の高い栄養補給を実現した一方で身体が果すべき仕事を奪いました。
哀しいかな、人類の叡知がもたらしたのは運動量の減少に伴う様々な生活習慣病と、一生を言い訳がましい自らの保身に始終するだけの"人生"という空語でした。
我々が二足歩行の変化を経て"智"を獲得したことにより堕ちたというのならば、我々をその奈落から救い上げるのもまた"智"ではないでしょうか。
我々は人類生誕600万年から遡り、身体性とは、本当の"智"とは何であるかを思い出さなければならないのだと私は考えます。
かつてその時代の社会と戦い抜いたプロテスタントの修道士マルティン・ルターが言いました。
「たとえ明日、世界が滅びようとも私は今日りんごの木を植える」
私は足跡に身体性と過去を見立て、そして植えるように智の林檎を描きます。
在るべき未来への夢をみながら。
橋本 仁
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