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2013年3月29日金曜日

桜は狂い咲く
桜は死を想わせる
桜は時間さえ、まるで我が身に備えたようだ。
桜は強さと弱さを体現している。
やはり私達は、どうしようもなく毎年1度、桜に狂うのだ。

日本および東洋、亜細亜を踏まえたうえでの"在り方"を問う

現代の“常識”
それに対しての明確な日本流のアンチテーゼとその方法

結果もたらされるであろう福音の世界

それは希望的観測に依ったもので構わない

なぜなら、それが私の夢なのだから

夢とは持ったときから散りはじめる、まさに桜のようなものである。

この世に生を受けることが、もし何かしらの役目の始まりだとすれば、私は私の役目を全うしたい。

江戸の俳人 室井 其角は、交尾を終えたカマキリの雄がそのまま雌にかじられていく光景に、稔りを終えた草が葉を枯らせていく光景をダブらせて、「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」の句を詠んでいる。

2013年3月24日日曜日

松岡正剛をことわざにすると

「知の風呂につかる巨人」

刺激的な“知”のお風呂につかって、ふぅーっと気持ち良さそうに溜め息をついている様

2013年3月21日木曜日

「平和とは秩序である。」

この言葉が甘美な罠と虚偽の大義名分となり、ただの覇権争いを絶えず繰り返しているのが国家というものである。
秩序という名のもとに戦争をし、勝つことで「正義」になるのだ。この凄まじいマッチョイズム。

民族の領土範囲が隣と地続きであるということは、筆舌に尽くせないほどに退っ引きならない状況であると想像するが、やはり我々には理解することは不可能だろう。

だからこそ、我々のパーソナリティーはそれらとは反対に位置したところにあるのだが、どうも今の我々の脳は色々と変化してしまったらしい。
隣国のニュースは反日ばかりで、何故か本来ならば全く関係ないほどに離れた米国のニュースが必ず1日に1つ以上流されることに疑問を持たない我々は、もはや環境に慣れた奴隷や囚人のそれであろう。

私はそれらに美術の思想を持って、断固反対したい。
だから、美術以外に従事する人達もそれぞれが在るべきかたちを模索し、そう在ってもらいたい。
まずは世界を自分で捉えなおしてほしい。

お金を貰う前に、お金を払う前に、安直に返事をする前に、既存のサービスを選択する前に、生き方を決めてしまう前に、少しでいいから立ち止まってほしい。

いつかきっと思い出すだろう。

土や雨の香りや風の音、太陽の光や雲の色やかたち、星の瞬きに彼岸の声を。

いつかきっと気がつくだろう。

自分の生きていると思っていた世界が、世界の本当に微少な一部分であったことを。
我々が生きているという奇跡と、生きるということが自由の行使であるということを。
妬みや恨みや気負いというものが如何に軽くて覚束なく不必要なものであるかということを。
お金というものが価値の媒体物であるということを。

“知る”こと“気づく”こと“思い出す”こと。
そのために藝術が在るのだということを、いつか我々の地でも話されることがあるだろうか。

私はそうだと、信じたい。

2013年3月18日月曜日

嘘と言い訳の連鎖は遁世という逃げを行使しない限り一生続く

2013年3月17日日曜日

藝術とは金持ちの嗜好を満足させるためのものではない。

藝術を不必要だと断じる人間は、まずお金と価値と価値観と資本主義と対価と消費と人間というものについて沈思黙考し論じるなりなんなりして、それらについて自分なりの考えというものを持つ必要があると思われる。

そのためのヒントが、藝術にはある。

2013年3月7日木曜日

戦争はなくならない

戦争はとめられない

しかし、批判も反対も法による拘束力はない

なぜ自由を行使しないのか

なぜ発言をしないのか

我々の自由とはなんであるか

生き方を選べる自由を与えられているのに、人から貰うことばかりを考えている

人生はお小遣いではない

私の時間は私のもの、あなたの時間はあなたのものだ

私の認識する世界は私のもので、あなたの認識する世界はあなたのものだ

世界が認識によって知覚されるのであれば、それはまさに世界が自らをもって由とするという、己の裁量に全てが任されているということではないのか

もっと切実に、もっと激烈に

我々若者には、そんな“自由”があってもいいのではないだろうか

自由とは、大いなる自己責任にほかならない

決して好き勝手とは違うのだ

”記憶の暗号”に潜む想い、”記憶”を扱うことの意義

ふとした時に、何とも言い難い“懐かしさ”を感じる時がある。
しかしそれは、日本に限らず世界中あらゆるところで感じるものだ。
優しい風がまるで何かを連れてきてくれたかのような、そして傍らを仄かに通りすぎていくような、そのような“感じ”がする。

古の人はそれを、“音連れ”といい、折口信夫は“来影”といった。

私は古寺や古仏、いつからあるとも知れずひそやかに佇むお地蔵さんが好きだ。
何かそこに言い知れぬ安心とざわめき、記憶を喚起させようとする静かな力を感じるのだ。
ひっそりとしたお地蔵さんのそれは、アフリカの大地に匹敵する。

大海原やマンションの屋上、広い河川での眺望や電車の運転席の車窓や船の前部に居るのも好きだ。
前に進むものならば、それは必ずその方向と同じ方向で見る眺望が望ましい。
だとすれば、やはり飛行機はおしいのだ。
しかし、あの天界の眺望はなにものにもかえがたい魅力がある。
だが、その絶景を最大限引き出して見ることができるのは、運転席より他はない。

私はそれらを唯好きであるだけではなく、それら全てに“懐かしさ”を感じている。
万物にはそれぞれ過去という“記憶”がある。
宇宙の、天体の、生物の、それぞれの記憶が識別される。
我々の記憶をもし記録しえていたとしたら、それは地球を何周もするような長巻となり、生物発生30億年のかなたにまで遡る“万世一系”の流れとみることができるようなものでなければならない。
歴史上の事実との符号性を糧に立証される我々の“記憶”とは、その万世一系の流れに端を発したものである。
私は我々日本人の“詠嘆”や“はしゃぎ”、“笑い”の質にこの地で育まれた風土を感じる。
その土地において固有の種と系が育まれるように、我々もまたこの島の必然的性を持っている。
よく世界から称賛されたり不思議がられたり非難されたりするものは、国民性ではなく民族性であり、それは土壌より萌え出る愛しき性なのである。
地球上にある1種類の生物が消えることで、その他の生物にどれだけの事件的負荷がかかることか。
それに加え、あるはずのその系はそこで途絶えてしまう。
何が欠けてもよいものなど一つもない、あまりに美しい関係性、秩序のことを本来は“世界”といったのだ。
だから、我々はその本来の“世界”を感得するために、六感を信じ最大限に発揮させなければならない。
まるで野性動物のそれのように。
そうした時に現代を流れる耳障りな不協和音や吹き溜まり、不快な汚泥、下水臭を感じることができるだろう。

城壁の石組みに懐かしさを覚えても、マンションのタイル壁には懐かしさを感じない。
森やその木々に溢れるような生命の息吹を感じても、歩道や道路にむりやり埋め込まれた木には生命の息吹どころか同情がつのる。

この国やこの地球は、“ナニカガオカシイ”

この違和感に対して、あらゆる生き方をする人間もできる範囲で各々考え尽くされた対処をしなければならない。
生きることに安心してはならない。
自然に安心や怠惰などというものはないし、そもそも我々の記憶は現世に対して警鐘を鳴らし続けている。
我々の中に在る、四五億年の奇跡の記憶。
きっとそれは私が求めてやまない、遡行の欲求の根源なのであろう。
私は鮭のように生まれたところへ帰りたい。
“郷愁”
だから私はえもいわれぬ怒りを抱え、叫ばずにはおれないのだ。
誰が祖国を焼かれうちが無くなっても平気なものだろう。
まるで現世の景観や世相は、古の人間たちが想定した地獄そのものではあるまいか。
造るも人間。壊すも人間。迷うも人間。決めるも人間。
我々は七つの社会的罪を犯してはいないだろうか。

・理念なき政治
・労働なき富
・良心なき快楽
・人格なき学識
・道徳なき商業
・人間性なき科学
・献身なき信仰


生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し