本当に大事なことはほんのいくつかしかない。
もしもそれで通じてしまうのならば。
●世界(宇宙でも次元でも)の捉え方で最も大事なことは、「始点と拡散・排泄と循環」である。
●"強烈な、度を越した、桁外れで個人的なアナログ性"はいつの時代でも最も普遍的で分かりやすいARTである。なぜならそれは三次元下における時間と身体性の極致だからである。
以上。
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2014年11月21日金曜日
2014年11月17日月曜日
さよならJapan。
何日か前の毎日新聞である。
なにやら国会では消費税を10%に上げるかわりにゴルフ場利用税はやめましょうという議論が起きているそう。ん?
ゴルフ場の利用料は一人数百円~1200円、年間税収は500億円強。
日本の借金は国内総生産の二倍以上、1000兆円を越えているのにもかかわらず現場の人手や資材が足りなくても公共事業をばらまくなど目先の目眩ましばかりが目立つ。
無論、そのおかげで目下私も生きていけているのだけれど。
しかし、それだけでは飽きたらず、どさくさまぎれに貴重な収入源に手をつけようとしている様子。
500億円。
例えばどれくらいのお金かといえば、子供の貧困対策として期待されている返済不要の給付型奨学金が想定している予算が400億円弱。
しかし、"財政は厳しい"と言って政策の表へのぼってくることはない。
解散総選挙。
この目眩ましに気が付ける人はどれだけいるのでしょう。
やっぱりそれでもAKBしか頭に思い浮かばないような日本なのかな。
残念無念。
もう、どーーでもいいけどね。
なにやら国会では消費税を10%に上げるかわりにゴルフ場利用税はやめましょうという議論が起きているそう。ん?
ゴルフ場の利用料は一人数百円~1200円、年間税収は500億円強。
日本の借金は国内総生産の二倍以上、1000兆円を越えているのにもかかわらず現場の人手や資材が足りなくても公共事業をばらまくなど目先の目眩ましばかりが目立つ。
無論、そのおかげで目下私も生きていけているのだけれど。
しかし、それだけでは飽きたらず、どさくさまぎれに貴重な収入源に手をつけようとしている様子。
500億円。
例えばどれくらいのお金かといえば、子供の貧困対策として期待されている返済不要の給付型奨学金が想定している予算が400億円弱。
しかし、"財政は厳しい"と言って政策の表へのぼってくることはない。
解散総選挙。
この目眩ましに気が付ける人はどれだけいるのでしょう。
やっぱりそれでもAKBしか頭に思い浮かばないような日本なのかな。
残念無念。
もう、どーーでもいいけどね。
2014年11月13日木曜日
ARTで貫く古代から現在。
我々が生きている"現在"とは無数の時間が積み重なってできた、「歴史的現在年としての今」である。
およそ700万年前、人類は二足歩行をはじめた。身体を使い狩猟、採集をし、武器を持ち農耕をはじめ秩序をつくり社会を作った。奇怪な自らの発生の不思議は自分がなぜ生きているのかという生に対する根元的な疑問と不安を生み出し、その解決は歴史的に早い時期から信仰が担った。
一方、信仰の組織的な腐敗もまた早い時期からのことだった。政治と信仰が結びつき、信仰の解釈は一部の特権階級が牛耳ることとなる。あらゆる欲にまみれた教祖と上層部、信仰を理由にした殺戮、それらは人間の人間たる本質的な暗部を今なお忠実に継承している。
しかし他方では敬虔な信徒がいるという事実を忘れてはならない。信仰が他者を貶めることもあれば救うこともあるのだし、言葉だけではなくよりイメージの具体化をはかるため、または信仰的一体感を強めるために絵画・彫刻・音楽などの芸術文化が発達し、どのような封建社会の中でも職人や芸術家はある一定の尊敬を得、支援や擁護を受けてきた。
それは社会機構の中で一つの聖域を構築したといえる。しかしそれは、初期の職人や芸術家が画策したことではなく、人間が自発的に希求したものだった。つまり芸術はそれに触れる人間の"心"を満たしていたのだといえる。
社会が複雑化してくるにつれ、必然的に人間の感動も複雑化してくる。あらゆるものに慣れてしまえば、表面的なものの見方しかできない人間はその感覚の範疇を越えたものにしか感覚を揺さぶられることがなくなっていく。芸術家への支援、擁護をしている誠に有り難い連中は手前勝手な感動への要求を職人および芸術家へ押し付ける。
結果、特権階級に満足を与えるための商品を造ってきた職人や芸術家の中でも歪んだ血統主義や利権構造が構築され、同様に評価基軸も歪み捻れていったのだ。
近年、アールブリュットや子供の絵などがもてはやされるのは、"作品"としてマーケットで運用される以前の芸術がそこに息ずいているからに他ならない。自らの対峙する感動の如何を辿れなければ、制作者にも鑑賞者にもそこにはなんの意義も見出すことはできない。
身体を使って地球で生きてきた時代から徐々に脳への依存比率が傾き現代に至る。
しかし、アールブリュットや幼児の芸術然りラスコーの壁画やアフリカなどの諸先住民族の芸術的文化には、人間が人間であるが故の普遍的な身体性がいつまでも息づいている。
ARTとは社会においてあらゆる"あいだ"を持つバランス補正である。
1915年、歴史的必然によりデュシャンのトイレは形骸化した伝統の暗示を破壊した。それはバチカンに絶対王政に代表されるような絶対的価値観へのARTによる革命的行為ともいえるものだった。
それから100年後の未来が現在である。我々はむしろ破壊された形骸の破片から往時を偲ぶ。新しいモノやコトが何より素晴らしいと考えられていた、眼差しの奥にキラキラとした未来への憧れを持った活気あるあの時代を。
たった一つのある種の"丁寧さ"をあらゆることに適用すれば、なにも破壊を持たずしても今より少しは良くなるかもしれない。例えばそれは失われつつある贈与文化の中にヒントが隠されているかもしれない。
昨今、マラソンなどの趣味のスポーツや天然素材にこだわった高級思考が流行りマクドナルドの不振が続いているのは、現在の人間が心から希求しているものとまったく無関係なことではない。
コカ・コーラよりも身体に滲み入るような湧水を求むるように、失って久しい"あの頃"の面影がARTにもあらゆる分野でも求められているのだと私は感じる。
"あの頃"に回帰するように、私も私の生を全うしたい。もしくは、私は私の死を死にたいと考えている。
土塊だったあの頃に。
あらゆるものを跨げたあの頃に。
彼岸から眺めていたあの頃に。
およそ700万年前、人類は二足歩行をはじめた。身体を使い狩猟、採集をし、武器を持ち農耕をはじめ秩序をつくり社会を作った。奇怪な自らの発生の不思議は自分がなぜ生きているのかという生に対する根元的な疑問と不安を生み出し、その解決は歴史的に早い時期から信仰が担った。
一方、信仰の組織的な腐敗もまた早い時期からのことだった。政治と信仰が結びつき、信仰の解釈は一部の特権階級が牛耳ることとなる。あらゆる欲にまみれた教祖と上層部、信仰を理由にした殺戮、それらは人間の人間たる本質的な暗部を今なお忠実に継承している。
しかし他方では敬虔な信徒がいるという事実を忘れてはならない。信仰が他者を貶めることもあれば救うこともあるのだし、言葉だけではなくよりイメージの具体化をはかるため、または信仰的一体感を強めるために絵画・彫刻・音楽などの芸術文化が発達し、どのような封建社会の中でも職人や芸術家はある一定の尊敬を得、支援や擁護を受けてきた。
それは社会機構の中で一つの聖域を構築したといえる。しかしそれは、初期の職人や芸術家が画策したことではなく、人間が自発的に希求したものだった。つまり芸術はそれに触れる人間の"心"を満たしていたのだといえる。
社会が複雑化してくるにつれ、必然的に人間の感動も複雑化してくる。あらゆるものに慣れてしまえば、表面的なものの見方しかできない人間はその感覚の範疇を越えたものにしか感覚を揺さぶられることがなくなっていく。芸術家への支援、擁護をしている誠に有り難い連中は手前勝手な感動への要求を職人および芸術家へ押し付ける。
結果、特権階級に満足を与えるための商品を造ってきた職人や芸術家の中でも歪んだ血統主義や利権構造が構築され、同様に評価基軸も歪み捻れていったのだ。
近年、アールブリュットや子供の絵などがもてはやされるのは、"作品"としてマーケットで運用される以前の芸術がそこに息ずいているからに他ならない。自らの対峙する感動の如何を辿れなければ、制作者にも鑑賞者にもそこにはなんの意義も見出すことはできない。
身体を使って地球で生きてきた時代から徐々に脳への依存比率が傾き現代に至る。
しかし、アールブリュットや幼児の芸術然りラスコーの壁画やアフリカなどの諸先住民族の芸術的文化には、人間が人間であるが故の普遍的な身体性がいつまでも息づいている。
ARTとは社会においてあらゆる"あいだ"を持つバランス補正である。
1915年、歴史的必然によりデュシャンのトイレは形骸化した伝統の暗示を破壊した。それはバチカンに絶対王政に代表されるような絶対的価値観へのARTによる革命的行為ともいえるものだった。
それから100年後の未来が現在である。我々はむしろ破壊された形骸の破片から往時を偲ぶ。新しいモノやコトが何より素晴らしいと考えられていた、眼差しの奥にキラキラとした未来への憧れを持った活気あるあの時代を。
たった一つのある種の"丁寧さ"をあらゆることに適用すれば、なにも破壊を持たずしても今より少しは良くなるかもしれない。例えばそれは失われつつある贈与文化の中にヒントが隠されているかもしれない。
昨今、マラソンなどの趣味のスポーツや天然素材にこだわった高級思考が流行りマクドナルドの不振が続いているのは、現在の人間が心から希求しているものとまったく無関係なことではない。
コカ・コーラよりも身体に滲み入るような湧水を求むるように、失って久しい"あの頃"の面影がARTにもあらゆる分野でも求められているのだと私は感じる。
"あの頃"に回帰するように、私も私の生を全うしたい。もしくは、私は私の死を死にたいと考えている。
土塊だったあの頃に。
あらゆるものを跨げたあの頃に。
彼岸から眺めていたあの頃に。
2014年11月12日水曜日
note。2
私は文章ベタなので、箇条書が最も自身に合った文章的表現だと思われる。
それらを踏襲してほんの二三言でまとめられたなら、少しは整理能力がついたと自負したい。
●記憶
・自分の記憶
・歴史的記憶
・人為的に記録される以前、宇宙的起源の記憶
●存在
・それのみでは確証たりえないもの
・動的平衡の一状態
・全てのカタチは形骸もしくは三次元世界においてのみの表層的な一瞬の幻である。
・存在を保証、担保するものは唯一の対存在である。
・在ることよりも在ったことに保証されるもの。故に対存在は同質の過去、記憶を有する。
●対存在
・ある存在を担保する同質量の対応、呼応、共鳴する存在。これは一方的な関係ではなく相互的な関係である。
●意識
・三次元下で形成された認識としての脳内意識と生まれて形態を持ち得る以前の元意識または意識体としての意識の二種類に大別される。
●身体
・三次元と元意識を繋ぐ愛しき鍵、媒体
・感情の根源
・脳の命令で動く生体機械だと考えられているが、それは誤りである。
●脳
・人間の全てを司るように考えられているがそれは誤りである。実質的合理性を発揮する演算装置の趣がつよい。
・生まれてからのもの、三次元下のもの
・認識、感知をするもの、記憶をするもの。それらを縦横無尽に編集する能力を持つ。
・休息を要するが故に記憶を基盤とした持続、継続的な意識を有する。「寝ないで働く」の非合理性の理由である。しかし、しばしば身体は脳を凌駕する。疲れるのは身体ではなく、脳である。脳は常に無理をしない。唯一脳を動かせるのは元意識のみである。
●時間
・一定で不可逆の「方向」
・時計のことではない。
・存在の数だけ固有の時間があり、その識別は速度にある。
・可視化することはかなわないが、媒体物を通して認識もしくは感じることができる。
・実現してしまった瞬間を、完全な一存在として、その個別性とともに保持することは不可能である。ひとつの完全な思い出をつくるためには、夥しい瞬間の記憶が必要である。― バシュラール
我々人間は生の根幹に"宇宙と身体を繋ぐ意識"を持つべきであると私は考える。
この世界に不必要なものや絶対的な正義や悪、真に恒久的で不変なものや"こうあらねばならない"などという規定は唯一つもない。平和の恒久を希求するならば、それを実現させるのは我々人間の意識である。多様性を認められない限り一方的な排除という暴力的手法は無くならない。休息や喪失、死があるからこそ生を全うできるのだし、対存在としての他者を愛し記憶に浸ることができるのだ。
これは多分に資本主義にも則した政治的な話であると言うことができる。
全ては動的平衡の"状態"であり、宇宙の原則に則って始まりと終わりのあいだを過ごしている。その原則を忘れてもしくは不都合のため追いやって、政治や経済や社会を論じたところで何の確証に辿り着くことはない。これは物理の法則に則って数式により絶対性を担保された定理を繋ぎ合わせてもなんら「世界」の記述がかなわないことと似ている。相対性理論にしろ紐理論にしろ、それはある視点からのあるほんの一部にしかすぎないのだから。
移動しながらカタチを変えず積層された同一平面の存在しない球体の様であり、そこに"美しさ"をも備えたその「絶対」たるものは、およそ人間には辿り着けない神そのものである。
国民国家の出現以前、広く多様に信仰された神なるものは十分に政治や経済や社会を形成できていたはずである。なにもスーパーマーケットや冷蔵庫、リムジンやプライベートスペースだけが文明や社会ではないだろう。
それがもし絶対的な幸福のカタチを示しているのだとしたら、幸福とはなんと脆く簡単で稀薄なものであるか。
大事なことは動的平衡状態を十分に理解したうえでの、生命がそこにカタチを留めているのと同様な加減のとりかたである。バランスと言い換えてもいい。
実はARTの必然性もそこにある。とくに社会を形成し持続させていくうえでの政治や経済に対する対存在としての意識形成を役割としている。平易にいえば、数字に対しての文字のようなものである。一つの法則を定理によって証明するのに数式と言葉で説明した場合、数式の方がはるかに明解で合理的であるのに対し、言葉はその説明をするのに膨大な量の文字と時間を要する。しかし、コクトーやランボーの詩を理解するのに数字は何の解も導き出せないのに対し文字は余計な解釈をさえ要さない。究極の不必要である。
どちらが強いだの良し悪しだのの話の次元ではない。安くいえば"みんな違ってみんないい"なのだ。
基を辿ればすべては48億年の遥か遠くに根を同じにしているのだから。
つまりは我々もまた、点から究極的拡散状態への始まりと終わりの一部なのである。
その事実への認識こそが、私にとって私がこの三次元下の現在に存在している救いでもある。
それらを踏襲してほんの二三言でまとめられたなら、少しは整理能力がついたと自負したい。
●記憶
・自分の記憶
・歴史的記憶
・人為的に記録される以前、宇宙的起源の記憶
●存在
・それのみでは確証たりえないもの
・動的平衡の一状態
・全てのカタチは形骸もしくは三次元世界においてのみの表層的な一瞬の幻である。
・存在を保証、担保するものは唯一の対存在である。
・在ることよりも在ったことに保証されるもの。故に対存在は同質の過去、記憶を有する。
●対存在
・ある存在を担保する同質量の対応、呼応、共鳴する存在。これは一方的な関係ではなく相互的な関係である。
●意識
・三次元下で形成された認識としての脳内意識と生まれて形態を持ち得る以前の元意識または意識体としての意識の二種類に大別される。
●身体
・三次元と元意識を繋ぐ愛しき鍵、媒体
・感情の根源
・脳の命令で動く生体機械だと考えられているが、それは誤りである。
●脳
・人間の全てを司るように考えられているがそれは誤りである。実質的合理性を発揮する演算装置の趣がつよい。
・生まれてからのもの、三次元下のもの
・認識、感知をするもの、記憶をするもの。それらを縦横無尽に編集する能力を持つ。
・休息を要するが故に記憶を基盤とした持続、継続的な意識を有する。「寝ないで働く」の非合理性の理由である。しかし、しばしば身体は脳を凌駕する。疲れるのは身体ではなく、脳である。脳は常に無理をしない。唯一脳を動かせるのは元意識のみである。
●時間
・一定で不可逆の「方向」
・時計のことではない。
・存在の数だけ固有の時間があり、その識別は速度にある。
・可視化することはかなわないが、媒体物を通して認識もしくは感じることができる。
・実現してしまった瞬間を、完全な一存在として、その個別性とともに保持することは不可能である。ひとつの完全な思い出をつくるためには、夥しい瞬間の記憶が必要である。― バシュラール
我々人間は生の根幹に"宇宙と身体を繋ぐ意識"を持つべきであると私は考える。
この世界に不必要なものや絶対的な正義や悪、真に恒久的で不変なものや"こうあらねばならない"などという規定は唯一つもない。平和の恒久を希求するならば、それを実現させるのは我々人間の意識である。多様性を認められない限り一方的な排除という暴力的手法は無くならない。休息や喪失、死があるからこそ生を全うできるのだし、対存在としての他者を愛し記憶に浸ることができるのだ。
これは多分に資本主義にも則した政治的な話であると言うことができる。
全ては動的平衡の"状態"であり、宇宙の原則に則って始まりと終わりのあいだを過ごしている。その原則を忘れてもしくは不都合のため追いやって、政治や経済や社会を論じたところで何の確証に辿り着くことはない。これは物理の法則に則って数式により絶対性を担保された定理を繋ぎ合わせてもなんら「世界」の記述がかなわないことと似ている。相対性理論にしろ紐理論にしろ、それはある視点からのあるほんの一部にしかすぎないのだから。
移動しながらカタチを変えず積層された同一平面の存在しない球体の様であり、そこに"美しさ"をも備えたその「絶対」たるものは、およそ人間には辿り着けない神そのものである。
国民国家の出現以前、広く多様に信仰された神なるものは十分に政治や経済や社会を形成できていたはずである。なにもスーパーマーケットや冷蔵庫、リムジンやプライベートスペースだけが文明や社会ではないだろう。
それがもし絶対的な幸福のカタチを示しているのだとしたら、幸福とはなんと脆く簡単で稀薄なものであるか。
大事なことは動的平衡状態を十分に理解したうえでの、生命がそこにカタチを留めているのと同様な加減のとりかたである。バランスと言い換えてもいい。
実はARTの必然性もそこにある。とくに社会を形成し持続させていくうえでの政治や経済に対する対存在としての意識形成を役割としている。平易にいえば、数字に対しての文字のようなものである。一つの法則を定理によって証明するのに数式と言葉で説明した場合、数式の方がはるかに明解で合理的であるのに対し、言葉はその説明をするのに膨大な量の文字と時間を要する。しかし、コクトーやランボーの詩を理解するのに数字は何の解も導き出せないのに対し文字は余計な解釈をさえ要さない。究極の不必要である。
どちらが強いだの良し悪しだのの話の次元ではない。安くいえば"みんな違ってみんないい"なのだ。
基を辿ればすべては48億年の遥か遠くに根を同じにしているのだから。
つまりは我々もまた、点から究極的拡散状態への始まりと終わりの一部なのである。
その事実への認識こそが、私にとって私がこの三次元下の現在に存在している救いでもある。
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