我々が生きている"現在"とは無数の時間が積み重なってできた、「歴史的現在年としての今」である。
およそ700万年前、人類は二足歩行をはじめた。身体を使い狩猟、採集をし、武器を持ち農耕をはじめ秩序をつくり社会を作った。奇怪な自らの発生の不思議は自分がなぜ生きているのかという生に対する根元的な疑問と不安を生み出し、その解決は歴史的に早い時期から信仰が担った。
一方、信仰の組織的な腐敗もまた早い時期からのことだった。政治と信仰が結びつき、信仰の解釈は一部の特権階級が牛耳ることとなる。あらゆる欲にまみれた教祖と上層部、信仰を理由にした殺戮、それらは人間の人間たる本質的な暗部を今なお忠実に継承している。
しかし他方では敬虔な信徒がいるという事実を忘れてはならない。信仰が他者を貶めることもあれば救うこともあるのだし、言葉だけではなくよりイメージの具体化をはかるため、または信仰的一体感を強めるために絵画・彫刻・音楽などの芸術文化が発達し、どのような封建社会の中でも職人や芸術家はある一定の尊敬を得、支援や擁護を受けてきた。
それは社会機構の中で一つの聖域を構築したといえる。しかしそれは、初期の職人や芸術家が画策したことではなく、人間が自発的に希求したものだった。つまり芸術はそれに触れる人間の"心"を満たしていたのだといえる。
社会が複雑化してくるにつれ、必然的に人間の感動も複雑化してくる。あらゆるものに慣れてしまえば、表面的なものの見方しかできない人間はその感覚の範疇を越えたものにしか感覚を揺さぶられることがなくなっていく。芸術家への支援、擁護をしている誠に有り難い連中は手前勝手な感動への要求を職人および芸術家へ押し付ける。
結果、特権階級に満足を与えるための商品を造ってきた職人や芸術家の中でも歪んだ血統主義や利権構造が構築され、同様に評価基軸も歪み捻れていったのだ。
近年、アールブリュットや子供の絵などがもてはやされるのは、"作品"としてマーケットで運用される以前の芸術がそこに息ずいているからに他ならない。自らの対峙する感動の如何を辿れなければ、制作者にも鑑賞者にもそこにはなんの意義も見出すことはできない。
身体を使って地球で生きてきた時代から徐々に脳への依存比率が傾き現代に至る。
しかし、アールブリュットや幼児の芸術然りラスコーの壁画やアフリカなどの諸先住民族の芸術的文化には、人間が人間であるが故の普遍的な身体性がいつまでも息づいている。
ARTとは社会においてあらゆる"あいだ"を持つバランス補正である。
1915年、歴史的必然によりデュシャンのトイレは形骸化した伝統の暗示を破壊した。それはバチカンに絶対王政に代表されるような絶対的価値観へのARTによる革命的行為ともいえるものだった。
それから100年後の未来が現在である。我々はむしろ破壊された形骸の破片から往時を偲ぶ。新しいモノやコトが何より素晴らしいと考えられていた、眼差しの奥にキラキラとした未来への憧れを持った活気あるあの時代を。
たった一つのある種の"丁寧さ"をあらゆることに適用すれば、なにも破壊を持たずしても今より少しは良くなるかもしれない。例えばそれは失われつつある贈与文化の中にヒントが隠されているかもしれない。
昨今、マラソンなどの趣味のスポーツや天然素材にこだわった高級思考が流行りマクドナルドの不振が続いているのは、現在の人間が心から希求しているものとまったく無関係なことではない。
コカ・コーラよりも身体に滲み入るような湧水を求むるように、失って久しい"あの頃"の面影がARTにもあらゆる分野でも求められているのだと私は感じる。
"あの頃"に回帰するように、私も私の生を全うしたい。もしくは、私は私の死を死にたいと考えている。
土塊だったあの頃に。
あらゆるものを跨げたあの頃に。
彼岸から眺めていたあの頃に。
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