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2011年5月29日日曜日

端的かつ大枠的な指針の明示

現代を語るうえで重要な要素は時間の速度だ。
しかし、「速さ」は目で見て捉えづらい。
目に見えないようなものは対比を用いて逆説的に明示するほかはない。
人間は知覚世界で生きている。
そして、その知覚世界は言ってしまえば思い込みだ。
人間の知覚世界は捉えた世界とその受け手とのめくるめく相互関係の結果だ。
無論、生まれてから一生一人で生きていないかぎりその知覚世界は他者の知覚世界ともめくるめく相互関係を起こしている。
しかし、それらは概念的なもので、それすらも私の思い込みだとも言える。
しかし、それが私の捉える世界である以上、私はそれを明示するほかはない。
そして、その明示の仕方は逆説的にというほかはないということだ。

2011年5月22日日曜日

NHKスペシャル「鯨と生きる」をみて。

僕は日本の捕鯨とシーシェパードからの鬼畜的な攻撃についてずっと関心があっ
た。
THE コーブのような一方的なプロパガンダ映画など見たくもない。
シーシェパードの強みは隠し撮りなどの陰惨な手口とYouTubeを使った情報拡散力
だ。
陸続きの人間達独特の、侵略と土足で他人の国にあがりこむことに何の良心の呵
責もない感覚は観ていて嫌悪感以外なにも湧いてこない。
そもそも我々は他人様の事情に感情的かつ主観的な物事の捉え方を押し付けるこ
とを好まない。
いや、少なくとも僕はそうだ。
僕の正義や生き方は僕の範疇になるべくとどめたい。
表現と押し付けは直に繋がっているようでもあり、相反したものでもあるのだ。
思想とはそんなに短絡的で稚拙で浅いものではない。
シーシェパードはどうにもそこの感覚が欠落しているように見受けられる。
手段はあまりに野蛮かつ下卑ていて同じ脳を持った生物だとは思いたくないほど
だ。

鯨漁は日本の伝統的な当たり前の文化だ。
失礼かつ無神経な外国人に一方的な言及をされるいわれはどこにもない。
なぜ彼らはこんなにも傲慢なのだろうか。
日本は戦後からしてあまりに自国のアイデンティティーを傷付けられ踏みにじら
れすぎた。
日本を語るのであれば、まず前提として日本を正確に捉えてからというのが、と
るべき当たり前の立場ではないのだろうか。
シーシェパードのあまりに傲慢で挑発的な態度は頭にくるのを通り越す。
むしろ人間存在の戦争との精神原理を見せ付けられたようで、その一方的で無意
味な暴力にかなしくなった。
「かわいそう」なのはイルカやクジラではなく漁師達だ。
漁師達に責任は何もない。
先祖代々当たり前のように漁をしていただけなのに、ある日突然わけのわからな
い外国人に精神的な嫌がらせと妨害を受ける。
反捕鯨団体の、潤沢な資金を武器にしたいきすぎた言動が目に余る。
そして、国の意地をかけない政治家や民衆に哀しさを覚える。
我々日本人の日本文化をなぜ日本人が護らないのか。
漁師を挑発し、怒る瞬間を捉え都合よく世界に報道し漁師達の気持ちを傷付ける
外国人達のどこが正しいのだろうか。
人の営みや文化をただの感情論だけで語るのは思想的に高次元なことなのか。
いきすぎた言動は止めることができないのだろうか。
食文化を虐殺というのはあまりに押し付けがましい。
我々は貴重な蛋白源を牛や豚のかわりに食しているのだ。
一般的に豚や牛や鳥に比べ、市場や家庭に出回ってはいないが少なくとも捕鯨を
する地域での何千人もしくは何万人の人々にとっては今も貴重な蛋白源であるこ
とにはかわりない。

こういったことに対して、僕らには一体なにができるのだろう。
3.11以降、日本の資本とメディアの関心は被災地に一気になだれ込んだ。
そのスピードと煽動力はまさに一丸となって動いた結果である。
しかし、東北の再生と同時に捕鯨文化が語られることはない。いや、日本の数々
の絶滅危惧文化が震災並に語られることはない。
断っておくが、国が一丸となって再生に向かうのは何一つとして悪いことはない
。
しかし、なぜ文化は同じように語られないのだろうか。
目に見えて町が消え多数の人が困り経済への打撃が無ければTVも新聞もラジオも
文化人も芸能人もスポーツ選手も気にすらしない。
私達の嘆かわしい日本は原発と政治家だけじゃない。
我々国民の感受性の衰退と無関心の蔓延こそが一番の悪である。

2011年5月16日月曜日

造ること・日本人であること

僕は何かを特別視することは嫌いな質で、意図的に避けてきた経緯もあるが、心
情的に赦し難いものがある。
なんにせよある種の特別な目線というのは物事の発展性を妨げる。
全ての事象はこだわることなく、総体的かつ微細に語られるべきである。
より良き未来を想って。

しかし、否応なしに僕は特別性を認めることになる。
しかも一番自分が特別視したくなかったことである。

それは「造ること」。

創ることとは微妙に異なるこの造ることとは、言ってしまえば手仕事感覚のよう
なものであるが、それは小手先な事象ではなく宇宙まで辿れる創造だ。
「一個の有機体は、それが存在するためには全宇宙を必要とする」ならばそれと
て自明の理。

なぜ造ることが特別であるのか。
それは、造ることは造ることでしか理解できないからだ。
まるで屁理屈のように聞こえるこの理屈は、これ以外の言葉では表せない。そし
て、おそらくその間にある壁は同じような言い方ができる全ての事象のなかで最
も分厚い。
造る者と造らぬ者には、圧倒的な差異があるのだ。

僕が体感したのは、『伝統と現代』というシンポジウムである。

中国人のアーティストと批評家の対話は僕を久しぶりに興奮させた。
かたや美術から国のアイデンティティーを語り、かたや美術において東洋と西洋
に垣根はないと決して典型的ではない論調で語ってくれた。
僕の今の心的状態とすれば、実は前者の方によっている。
1年半ほど前はガチガチに後者である。
日本人という言葉それ自体が古すぎると考えていたから。
しかし、僕は自分の作品を造ってからはもっぱら歴史的現在年としての日本人で
あることに固執している。
なぜなら、造ることは自分のアイデンティティーやバックボーンに言及していく
とで、そうなると「日本人であること」は絶対に無視できないからだ。
アイデンティティーが「人間である」ことにはできない。
芸術を人間でくくれない。
「人間である」ではあまりに広義で個人に言及できない。
ならば藝術家の事故顕示欲は如何に消化すればよいと言うのだろうか。
芸術・個人と風土と歴史は切り離せない。
僕は現代美術を考えて制作しているけれど、僕を置くフィールドは美術ではなく
日本に置きたい。
どんなに不毛で無謀でも。
2年前、実際に僕は早く日本から出なければならないと考えていた。
これからは逃げたもん勝ちだと。
国を捨てねば自分が潰されるし、もはやこの国に護る価値も誇りも持てないから
。
今でもその気持ちが完全に払拭できたわけではないが、諦めと同時に覚悟を持っ
ている。
なぜなら僕はどうしようもなく日本人であるからだ。
それはきっと誰でも当てはまるであろうことで、皆どうあがこうと時代と風土と
歴史からは逃れられないのだ。
金髪、八頭身、青い目、自信に満ちた態度を諦めて日本人が日本人たろうとすれ
ば、この未曾有の問題も解決の糸口が見えてくるのではないかと僕は想う。

2011年5月8日日曜日

目に見えない実感覚 存在と記憶・時間と蓄積

全ての存在は時間を孕む。
私は世界を時間の積み重なりと捉える。
現在とは過去の連なりである。

まず、蓄積という手法を用いて私的な時間の検証をする。
なぜなら、時間とは目に見える蓄積でしか実感を伴わないからだ。

連続・反復性に制約された行為により、ある純然たる現象が生まれる。
その現象を媒介し、私の時間を蓄積させる。
一つ一つの現象が意味や表象性を持ってはならない。
そこには瞬発的で即物的な時間がコピーされるのみである。
私はこれらの行為によって自己を解放し、他者はそこに自身を見出だしうる。
正確にいえば「モノ」は作品ではない
行為を蓄積すると必然的に「モノ」になる。
それが第三者からは「作品」に見えるのだ。

結果、即物的な形として目の前に表出された時間の塊は「人間存在」と「時間」
の繋がりを明白にしえた。
私の身体的時間感覚の積み重なりを確認した。

現在においての身体的・即物的な時間を確認できたので、次に過去としての「記
憶」について考える。
そして一つの仮説をたてる。

「我々は実際的な記憶としての過去を引き継いでいる」

例えば、我々は昭和を知らない。
知らないのに昔の看板や三丁目の夕日や歌謡やCMを見て「懐かしい」と思う。
亜細亜の雰囲気・由緒ある神社仏閣の雰囲気に触れたりするのも同様に「懐かし
さ」を感じる。
それはつまり、我々はすでに「知っている」のだ。
我々の中になぜか知らないはずの「記憶」がある。
その「記憶」はいつの記憶だろうか。そしていつ我々の中に組み込まれたのだろ
うか。
例えばDNA。
その「記憶」は、DNAの中に隠され受け継がれたものではないだろうかと考える。
だから我々は見たことのない雰囲気を面影として知っている。
人体をDNAの入れ物だと考えると、DNAはその時代ごとに入れ物から情報を受け継
ぎ、その情報を踏まえて次の入れ物から次の時代の情報を取り込み、それを繰り
返していく。
その過程で必然的な取捨選択が行われ、例えばキリンは首が伸びて象は鼻が延び
たのだとダーウィンは言う。
では、DNAに性格はないのだろうか。
もしあるとすれば、それはいわゆる「前世」に繋がる。
受け継がれるものに「偏り」が生じるとすれば、その偏りは癖であり人格である
からだ。
さすれば我々は皆、誰かであったのだ。
と、仮定できる。

私は私の記憶に順ずる。
人それぞれであるが、皆自分ではどうすることのできない気性や性分というもの
がある。
私は白か黒かはっきりしていなくては気に入らないし、かといって柔軟性がない
のも気に入らないし、悩むのはよいが、優柔不断は嫌いだし、腰が低いのも嫌だ
けれども居丈高なのも嫌なのだ。
こうしてみると、ただの我が儘な人格だけが浮き彫りになるような気がするが、
実はそれぞれここだという明確な線引きが存在する。

私はそのような自分を考える時に、自分はやはり借り物・仮染めなのだと考える
。
この気質は生まれもってのものであって、どうすることもできない誰かのもので
あると。
その感覚を私は「記憶」と認識する。

人間の神の概念の発生の説話の一つに、人間はもともと右脳と左脳が別々に働い
ていて、そのマインドギア(気持ちを託せる道具)として神を創造したという話が
ある。
私にとっての記憶とはこの場合の神と同義である。
私の意識を統括するために一番上に置くマインドギアとしての意識。
しかし、その意識は現在的概念としての神や宗教としてての神とは完全に異なる
。
「記憶」であるが故にそれは厳密かつ確かな過去を包括する。

我々は常に個人的記憶と集合的記憶の中にいる。
集合的記憶とは歴史のことだ。
それを失うと、あるいは書き換えられると、我々は正当な人格を維持できなくな
る。
私の作品の重要なファクターの一つでもある「記憶」とは、おそらく私以外の人
間にも共通するであろう、地底に流れる水脈のような無意識に覆われた意識のこ
とである。
それを読み取りやすく顕在化させたい。
見えるようにしたいのだ。

「我々は既に知っている」という考え方に即して観ていくと、我々は村上隆が少
なくとも唯一無二的な正解ではないことを知っている。
日本が漫画だけの国ではないことを知っている。
しかし、日本は明治維新と戦後と80年代で3度に渡り分断されているうえに、金融
のグローバル化、相継ぐIT革命、実態のわからないグローバリゼーションの波に
すっかり様相を変えてしまっていることも事実だ。
しかし、私はそういった事象に対し決して否定的な目で見ているわけではない。
むしろ、行き過ぎたところでちょうどよいとさえ思っている。
現代から中世を偲び世を儚んだところで何もならない。
海外から日本へ帰ってきてからあらためて発見する日本の「良さ」などには興味
がない。
如何にして歴史的現在年としての日本を捉えるか。
それは、日本を「方法・面影」として捉えることにある。

村上隆が西洋的合理主義と資本主義経済にコテコテに固められたアートの局地的
な末路を示してくれたおかげで、我々はようやく「原点回帰」ができるのだ。
東日本大震災による原発事故も、タイミング的に見れば決して無関係ではない。
今、再び世界の在り方が問われている。
そして、人間の在り方が問われている。
それは国や個人も同様で、日本の在り方、あなたの在り方、私の在り方が問われ
ている。

私は本来あるべき地政学的見地と日本人の本来的にもっている感覚と東洋的観念
をもって集合的記憶と個人的記憶の融合極点を表出する。
それは、私としての私と公としての私の両方を考え、両方の交わる領域を探るこ
とにある。
その鍵となるのが「記憶」であって、公と私を遡ると日本から中国・朝鮮へ、そ
してインド、亜細亜、東洋へと辿り着く。
東洋を語らずして日本は語れず、日本を語らずば歴史的現在年としての日本=私
を包括する事象を語れない。
しかし、東洋は簡単には語れない。
もはや我々自身が忘れてしまい、語れる人間も絶滅危惧種並に少ないからだ。

東洋の扉を開くには如何にしたらよいのだろうか。
その答えは、実は我々のたいへん身近なところに鍵がある。
それは、漢字である。

漢字は言葉の意味を表しているのではない。
文字は言葉を記憶し、文字しか言葉を記憶しているものはなく、漢字はそれを体
現しているのだ。
漢字は甲骨文にはじまったものであるけれど、それを含めてそこには文字以前の
言葉の動向のすべてがあらわれている。
言うなれば、人間が求めた構想や憎悪などすべての動向が表れているのだ。
加えて、エジプトのヒエログリフやメソポタミアの楔型文字などの古代文字の多
くが廃れたが、その後に使用不能のものになっているのに比べて、漢字は古代の
そうした動向をいまもって蘇らせて、なお今日に脈々と生き続けている。その文
字はすこぶる「表意」に富んでいる。
そうだとするなら、この漢字をもってしか、もはや我々の東洋的原初の構想や祈
念や欲望や憎悪をふりかえることはできない。
いわば漢字は、今日の我々が失ったかもしれない多くの記憶を蘇らせる「時空の
方舟」である。
漢字はまさに四角い方形の姿をした「意味の方舟」たちだ。
その一字一字が古代の呼吸であり、古代の観念であり、古代の一挙手一投足なの
だ。
漢字は形をもつ表意文字であり、その形は漢字が成立した時代の人々の生き方や
考え方を具体的に示している。
むしろ、それぞれの文字はその当初の形をなお持ち続けながら、自らの素性を語
りたいと欲しているように私は感じる。

漢字を私のリズムの仲に取り込むことに、私は全く抵抗をかんじない。
私は鋼管を潰し鋼管に私自信を練り込む。
その純然たる現象性を蓄積し、私の身体時間を表出することで「私」(個人的記憶)
の時間を顕在化させている。
それに加え「公」(集合的記憶)としての、漢字に秘められた東洋の記憶をトレー
スすることにより、私は東洋と一体化する。
本来的な雰囲気を取り込み、呪能を意識し、神を感じる。
オカルトやスピリチュアルとのぎりぎりの臨界点に到達する。
私は私を創ることで提言をする。
己を空じることが本当の手段である。
それは、和歌や俳句の空じ方と同じである。
歌というものは「虚」から出ている言葉のつながりであり、そこにはなんらの実
体がないものだ。
歌とは有為転変のことで、「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現をたくしていく。
そんな「虚」を引き受けられるのは自分の心だけだ。
しかし、いざ歌ってみると、そこには文字がつらなり、言葉が見えてくる。
その三十一文字の言葉があらためて自分に返ってくる。
それを繰り返していると、歌と心はしだいに透けてくる。
そして歌ったときに見えていた景気だけが響くようになる。花鳥風月とはその「
景気の響き」なのだ。

これをわかりやすく言い換えれば、
私にとっての作品とは「虚」から出ている行為のつながりであり、そこにはなん
らの実体がないものだ。
行為からの結果とは有為転変のことで、「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現をたくしていく。
そんな「虚」を引き受けられるのは自分自身だけだ。
「引き受ける」という感覚の制作。
しかし、いざ構築していくと、そこには現象がつらなり、モノが見えてくる。
そのいくつかの集合的現象としてのカタチがあらためて自分に返ってくる。
それを繰り返していると、「行為」と「私」はしだいに透けてくる。
そして創ったときに見えていた景気だけが響くようになる。花鳥風月とはその「
景気の響き」なのだ。
いささか和歌と比べてすこぶる激しい響きではあるが、私の「東洋の提言」とは
このようなものである。

「東洋の提言」は一生の課題である。
原点に立ち返れば、「亜細亜は一なり」なのだ。


2011年5月3日火曜日

信ずるものは

皮肉ったり逃がすのでなく、真面目に正面から対抗する。

レディ・メイドはきれてる。
ポップアートもめちゃくちゃいい。

でも、やっぱり僕じゃない。
日本じゃない。

日本についてはあくまでも“感じ”だけど。

確かにマーケットは海外で、アーティストは如何なる形であれ海外に属する人の
ことだと思うけれど、やっぱり芸術はあるのだと思う。

アートの影に、アーティストの影に芸術はあるのだと思う。

広義ではやはり全人類的なものなのだから。
本来的には何も否定できないはずだ。
すべてが我々の愛しい子供たちであるはずだから。

資本主義のせいじゃない。
資本主義を扱う集団性が問題なんだ。
原発が問題なんじゃない。
ウランを扱う人間の質が問題なんだ。

世界は在るだけでなく、認識する側にすべてが委ねられている。

2011年5月1日日曜日

間接的な因果

僕がアル中にならない理由
僕が犯罪を犯さない理由
僕が破綻しない理由

それは心を決めた人がいるからだ

1日の終わりには、大体つかれて呪詛が身体を満たしている。
解決するでもなく心を逃がすために彼女を想う。
そうすると、悩んでいたことや憤懣が徐々に氷解していくことを知っているのだ
。

僕には覚悟がある。
当たって砕ける覚悟がある。
覚悟は決断と束縛を生む。
それを引き受けるのは自分だけだ。
引き受けた先には引き受けたことによる何かしらの結果があるだけだ。
ようは何が生まれるかもわからない卵を自分で生んで自分で温めている。
滑稽にも思う。
しかし、それが僕の生き方であり選択だ。