僕は何かを特別視することは嫌いな質で、意図的に避けてきた経緯もあるが、心
情的に赦し難いものがある。
なんにせよある種の特別な目線というのは物事の発展性を妨げる。
全ての事象はこだわることなく、総体的かつ微細に語られるべきである。
より良き未来を想って。
しかし、否応なしに僕は特別性を認めることになる。
しかも一番自分が特別視したくなかったことである。
それは「造ること」。
創ることとは微妙に異なるこの造ることとは、言ってしまえば手仕事感覚のよう
なものであるが、それは小手先な事象ではなく宇宙まで辿れる創造だ。
「一個の有機体は、それが存在するためには全宇宙を必要とする」ならばそれと
て自明の理。
なぜ造ることが特別であるのか。
それは、造ることは造ることでしか理解できないからだ。
まるで屁理屈のように聞こえるこの理屈は、これ以外の言葉では表せない。そし
て、おそらくその間にある壁は同じような言い方ができる全ての事象のなかで最
も分厚い。
造る者と造らぬ者には、圧倒的な差異があるのだ。
僕が体感したのは、『伝統と現代』というシンポジウムである。
中国人のアーティストと批評家の対話は僕を久しぶりに興奮させた。
かたや美術から国のアイデンティティーを語り、かたや美術において東洋と西洋
に垣根はないと決して典型的ではない論調で語ってくれた。
僕の今の心的状態とすれば、実は前者の方によっている。
1年半ほど前はガチガチに後者である。
日本人という言葉それ自体が古すぎると考えていたから。
しかし、僕は自分の作品を造ってからはもっぱら歴史的現在年としての日本人で
あることに固執している。
なぜなら、造ることは自分のアイデンティティーやバックボーンに言及していく
とで、そうなると「日本人であること」は絶対に無視できないからだ。
アイデンティティーが「人間である」ことにはできない。
芸術を人間でくくれない。
「人間である」ではあまりに広義で個人に言及できない。
ならば藝術家の事故顕示欲は如何に消化すればよいと言うのだろうか。
芸術・個人と風土と歴史は切り離せない。
僕は現代美術を考えて制作しているけれど、僕を置くフィールドは美術ではなく
日本に置きたい。
どんなに不毛で無謀でも。
2年前、実際に僕は早く日本から出なければならないと考えていた。
これからは逃げたもん勝ちだと。
国を捨てねば自分が潰されるし、もはやこの国に護る価値も誇りも持てないから
。
今でもその気持ちが完全に払拭できたわけではないが、諦めと同時に覚悟を持っ
ている。
なぜなら僕はどうしようもなく日本人であるからだ。
それはきっと誰でも当てはまるであろうことで、皆どうあがこうと時代と風土と
歴史からは逃れられないのだ。
金髪、八頭身、青い目、自信に満ちた態度を諦めて日本人が日本人たろうとすれ
ば、この未曾有の問題も解決の糸口が見えてくるのではないかと僕は想う。
Translate
Translate
2011年5月16日月曜日
造ること・日本人であること
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿