全ての存在は時間を孕む。
私は世界を時間の積み重なりと捉える。
現在とは過去の連なりである。
まず、蓄積という手法を用いて私的な時間の検証をする。
なぜなら、時間とは目に見える蓄積でしか実感を伴わないからだ。
連続・反復性に制約された行為により、ある純然たる現象が生まれる。
その現象を媒介し、私の時間を蓄積させる。
一つ一つの現象が意味や表象性を持ってはならない。
そこには瞬発的で即物的な時間がコピーされるのみである。
私はこれらの行為によって自己を解放し、他者はそこに自身を見出だしうる。
正確にいえば「モノ」は作品ではない
行為を蓄積すると必然的に「モノ」になる。
それが第三者からは「作品」に見えるのだ。
結果、即物的な形として目の前に表出された時間の塊は「人間存在」と「時間」
の繋がりを明白にしえた。
私の身体的時間感覚の積み重なりを確認した。
現在においての身体的・即物的な時間を確認できたので、次に過去としての「記
憶」について考える。
そして一つの仮説をたてる。
「我々は実際的な記憶としての過去を引き継いでいる」
例えば、我々は昭和を知らない。
知らないのに昔の看板や三丁目の夕日や歌謡やCMを見て「懐かしい」と思う。
亜細亜の雰囲気・由緒ある神社仏閣の雰囲気に触れたりするのも同様に「懐かし
さ」を感じる。
それはつまり、我々はすでに「知っている」のだ。
我々の中になぜか知らないはずの「記憶」がある。
その「記憶」はいつの記憶だろうか。そしていつ我々の中に組み込まれたのだろ
うか。
例えばDNA。
その「記憶」は、DNAの中に隠され受け継がれたものではないだろうかと考える。
だから我々は見たことのない雰囲気を面影として知っている。
人体をDNAの入れ物だと考えると、DNAはその時代ごとに入れ物から情報を受け継
ぎ、その情報を踏まえて次の入れ物から次の時代の情報を取り込み、それを繰り
返していく。
その過程で必然的な取捨選択が行われ、例えばキリンは首が伸びて象は鼻が延び
たのだとダーウィンは言う。
では、DNAに性格はないのだろうか。
もしあるとすれば、それはいわゆる「前世」に繋がる。
受け継がれるものに「偏り」が生じるとすれば、その偏りは癖であり人格である
からだ。
さすれば我々は皆、誰かであったのだ。
と、仮定できる。
私は私の記憶に順ずる。
人それぞれであるが、皆自分ではどうすることのできない気性や性分というもの
がある。
私は白か黒かはっきりしていなくては気に入らないし、かといって柔軟性がない
のも気に入らないし、悩むのはよいが、優柔不断は嫌いだし、腰が低いのも嫌だ
けれども居丈高なのも嫌なのだ。
こうしてみると、ただの我が儘な人格だけが浮き彫りになるような気がするが、
実はそれぞれここだという明確な線引きが存在する。
私はそのような自分を考える時に、自分はやはり借り物・仮染めなのだと考える
。
この気質は生まれもってのものであって、どうすることもできない誰かのもので
あると。
その感覚を私は「記憶」と認識する。
人間の神の概念の発生の説話の一つに、人間はもともと右脳と左脳が別々に働い
ていて、そのマインドギア(気持ちを託せる道具)として神を創造したという話が
ある。
私にとっての記憶とはこの場合の神と同義である。
私の意識を統括するために一番上に置くマインドギアとしての意識。
しかし、その意識は現在的概念としての神や宗教としてての神とは完全に異なる
。
「記憶」であるが故にそれは厳密かつ確かな過去を包括する。
我々は常に個人的記憶と集合的記憶の中にいる。
集合的記憶とは歴史のことだ。
それを失うと、あるいは書き換えられると、我々は正当な人格を維持できなくな
る。
私の作品の重要なファクターの一つでもある「記憶」とは、おそらく私以外の人
間にも共通するであろう、地底に流れる水脈のような無意識に覆われた意識のこ
とである。
それを読み取りやすく顕在化させたい。
見えるようにしたいのだ。
「我々は既に知っている」という考え方に即して観ていくと、我々は村上隆が少
なくとも唯一無二的な正解ではないことを知っている。
日本が漫画だけの国ではないことを知っている。
しかし、日本は明治維新と戦後と80年代で3度に渡り分断されているうえに、金融
のグローバル化、相継ぐIT革命、実態のわからないグローバリゼーションの波に
すっかり様相を変えてしまっていることも事実だ。
しかし、私はそういった事象に対し決して否定的な目で見ているわけではない。
むしろ、行き過ぎたところでちょうどよいとさえ思っている。
現代から中世を偲び世を儚んだところで何もならない。
海外から日本へ帰ってきてからあらためて発見する日本の「良さ」などには興味
がない。
如何にして歴史的現在年としての日本を捉えるか。
それは、日本を「方法・面影」として捉えることにある。
村上隆が西洋的合理主義と資本主義経済にコテコテに固められたアートの局地的
な末路を示してくれたおかげで、我々はようやく「原点回帰」ができるのだ。
東日本大震災による原発事故も、タイミング的に見れば決して無関係ではない。
今、再び世界の在り方が問われている。
そして、人間の在り方が問われている。
それは国や個人も同様で、日本の在り方、あなたの在り方、私の在り方が問われ
ている。
私は本来あるべき地政学的見地と日本人の本来的にもっている感覚と東洋的観念
をもって集合的記憶と個人的記憶の融合極点を表出する。
それは、私としての私と公としての私の両方を考え、両方の交わる領域を探るこ
とにある。
その鍵となるのが「記憶」であって、公と私を遡ると日本から中国・朝鮮へ、そ
してインド、亜細亜、東洋へと辿り着く。
東洋を語らずして日本は語れず、日本を語らずば歴史的現在年としての日本=私
を包括する事象を語れない。
しかし、東洋は簡単には語れない。
もはや我々自身が忘れてしまい、語れる人間も絶滅危惧種並に少ないからだ。
東洋の扉を開くには如何にしたらよいのだろうか。
その答えは、実は我々のたいへん身近なところに鍵がある。
それは、漢字である。
漢字は言葉の意味を表しているのではない。
文字は言葉を記憶し、文字しか言葉を記憶しているものはなく、漢字はそれを体
現しているのだ。
漢字は甲骨文にはじまったものであるけれど、それを含めてそこには文字以前の
言葉の動向のすべてがあらわれている。
言うなれば、人間が求めた構想や憎悪などすべての動向が表れているのだ。
加えて、エジプトのヒエログリフやメソポタミアの楔型文字などの古代文字の多
くが廃れたが、その後に使用不能のものになっているのに比べて、漢字は古代の
そうした動向をいまもって蘇らせて、なお今日に脈々と生き続けている。その文
字はすこぶる「表意」に富んでいる。
そうだとするなら、この漢字をもってしか、もはや我々の東洋的原初の構想や祈
念や欲望や憎悪をふりかえることはできない。
いわば漢字は、今日の我々が失ったかもしれない多くの記憶を蘇らせる「時空の
方舟」である。
漢字はまさに四角い方形の姿をした「意味の方舟」たちだ。
その一字一字が古代の呼吸であり、古代の観念であり、古代の一挙手一投足なの
だ。
漢字は形をもつ表意文字であり、その形は漢字が成立した時代の人々の生き方や
考え方を具体的に示している。
むしろ、それぞれの文字はその当初の形をなお持ち続けながら、自らの素性を語
りたいと欲しているように私は感じる。
漢字を私のリズムの仲に取り込むことに、私は全く抵抗をかんじない。
私は鋼管を潰し鋼管に私自信を練り込む。
その純然たる現象性を蓄積し、私の身体時間を表出することで「私」(個人的記憶)
の時間を顕在化させている。
それに加え「公」(集合的記憶)としての、漢字に秘められた東洋の記憶をトレー
スすることにより、私は東洋と一体化する。
本来的な雰囲気を取り込み、呪能を意識し、神を感じる。
オカルトやスピリチュアルとのぎりぎりの臨界点に到達する。
私は私を創ることで提言をする。
己を空じることが本当の手段である。
それは、和歌や俳句の空じ方と同じである。
歌というものは「虚」から出ている言葉のつながりであり、そこにはなんらの実
体がないものだ。
歌とは有為転変のことで、「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現をたくしていく。
そんな「虚」を引き受けられるのは自分の心だけだ。
しかし、いざ歌ってみると、そこには文字がつらなり、言葉が見えてくる。
その三十一文字の言葉があらためて自分に返ってくる。
それを繰り返していると、歌と心はしだいに透けてくる。
そして歌ったときに見えていた景気だけが響くようになる。花鳥風月とはその「
景気の響き」なのだ。
これをわかりやすく言い換えれば、
私にとっての作品とは「虚」から出ている行為のつながりであり、そこにはなん
らの実体がないものだ。
行為からの結果とは有為転変のことで、「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現をたくしていく。
そんな「虚」を引き受けられるのは自分自身だけだ。
「引き受ける」という感覚の制作。
しかし、いざ構築していくと、そこには現象がつらなり、モノが見えてくる。
そのいくつかの集合的現象としてのカタチがあらためて自分に返ってくる。
それを繰り返していると、「行為」と「私」はしだいに透けてくる。
そして創ったときに見えていた景気だけが響くようになる。花鳥風月とはその「
景気の響き」なのだ。
いささか和歌と比べてすこぶる激しい響きではあるが、私の「東洋の提言」とは
このようなものである。
「東洋の提言」は一生の課題である。
原点に立ち返れば、「亜細亜は一なり」なのだ。
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2011年5月8日日曜日
目に見えない実感覚 存在と記憶・時間と蓄積
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