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2013年8月25日日曜日

松岡正剛 千夜千冊 「プリンシプルのない日本」白洲次郎著
なにもプリンシプルは国としての体だけでなく、個人において重要な精神規範・行動規範になりうる。
さすが松岡正剛。今回も素晴らしい編集的視点を頂いた。
気に入った部分を抜き出した。 以下。


 白洲次郎は日本にプリンシプルがないことを悔やんでいた。プリンシプルは原則といった意味である。プリンシプルがないとどうなるかいうと、白洲には日本の敗戦と戦後がいつまでも続くだろうと見えたのだ。
 白洲は交渉に勝てと言っているのではない。必要に応じては、妥協もかまわない。しかし、それでもプリンシプルを通したうえで妥協をすべきなのである。わかりやすくいえばプリンシプルをもつということは「こちらの筋を通す」ということだ。“対等”を通すことだ。その「こちら」をやらなくなった日本が残念なのだ。
 プリンシプルのない妥協は妥協ではない。たんなる「ごまかし」か「諂い」なのである。
 なぜ日本にプリンシプルがなくなったのか、白洲はあるとき小林秀雄に訊ねた。「儒学を失ったからだよ」という答えだった。「いつ、失ったのか」と尋ねると、「ま、明治半ばまではあったよな」だった。
 かつて唐木順三は「日本の教養は明治20年生まれまで、そのあとは衰弱していった」と書いた。日本のプリンシプルは明治半ばまではまだ息づいていた日本的な儒学を含む教養だったのである。
 もう少し補っていえば、日本儒学であり日本陽明学であり、また国学や洋学なのである。また漢詩とウィリアム・ブレイクとシェイクスピアであり、老荘とモンテーニュとパスカルなのである。それらが「もののあはれ」や「無常」に裏打ちされたもの、それが日本のプリンシプルであって、日本のリベラルアーツなのだ。
色んな人間が色んなことを言っている。
色んな人間が色んなことを考えている。
そんなこんなになるべく関わらないようにせねばならん。
そんなこんなの核心に触れていなければならん。

何事もバランス。
動的平衡。
在るがままに。
Let it be.

2013年8月20日火曜日

親からお小遣いをもらい、アルバイト先からお小遣いをもらい、会社からお小遣いをもらう。
それは社会では"お給料"と呼ばれるものらしい。
小中高大就職結婚出産出世。それが"人生"の全てであるらしい。

これが日本人の20代30代の現状だ。
もしかしたらそれが日本の現状とも言えるのかもしれない。
立派な労働の対価としての給料と、お小遣いとしての給料。それはどこで線引きがされるだろう。
それは、労働に対しての意識や手にしたお金の使い方、人生観や世界観ではなかろうか。一言で申すならば、"価値観"の持ち方ではないだろうか。

今の日本人の殆どは、就職することで考えることを止めてしまってはいないだろうか。
就職することで未来永劫の安心と安全を勝手に傍受してはいないだろうか。
もっと良くない場合は、大学に入った時点で勉強をやめ思考をストップさせてしまってはいないだろうか。
もしくは人生で一度も自分の世界を疑ったことが無いのではないだろうか。
まだあまりに稚拙な人生経験の中で、すでに高慢なプライドを胸中に蔓延らせ他人の話に耳を塞ぎ、自身により自己という精神をぬるま湯でちゃぷちゃぷと遊ばせてはいないだろうか。
"人生は甘いものではない"
それはどんなアンポンタンな大人も口を揃えて言ってきたことだ。しかし、そこでいう"甘さ"とは一体どれだけの"大人"が分かっているというのだろう。
"大人"とは年齢か。はたまた就職か。では日本であればJ-POP歌手は大人か、プロかアーティストか。自分でアポイントを取り営業し仕事を取り収支の計算をしていなくともそれは特別か。特例か。
それらがたかだか小中高大就職結婚出産出世で全てまかないきれる話だと本当に思っているのか。
だとしたらあなた方、むしろ大丈夫か。

明日、世界は崩壊するかもしれない。それは身近な家族に起こるかもしれないし、信じ頼りきっている社会システムで起こることかもしれない。ある日突然、我々の生活は全ての人類平等に原始時代に回帰してしまうかもしれない。そんな中ではハリボテ国民国家の"日本"など一瞬で掻き消されてしまうに違いない。いわゆる神の、ほんの一掻きで。
そんなことは考えないのだろうか。どこにも保証の無い明日というものに不安も懐疑も抱かないというのだろうか。しかも逃げではないと思い込む、もしくは逃げているという自覚さえ無い。
いつの間にか現代人たるものはこんなにも傲岸不遜の極みに達した。
私は無論、身体性の蓄積によりこれらのことに対抗していく小さな力を発揮していくほか自身の答えを見出せないのであるが、その発揮もこの土地ではもはや危うく、その価値さえ失われてしまった湿度の無い人間砂漠なのではないのだろうかと考えた今日この頃。
理解がされるだろうことを諦めきったうえでの心情吐露もこれでいくつかになる。
別れられない男女関係と同じように、自身を思えばこそ歴史的現在年としての"日本"を思わずにはいられない。それが、私にとっての歴史的現在年としての"私"なのである。
この先、この戦いの末に何が見えるのか。
しかし、私が生きている限りこの戦いは如何なる形においても継続されることとなるだろう。
それは、私がこの歴史的現在年の日本に生まれた根元的な理由、天命の立証であるからだ。
他力本願の極致としての神は崇めなくとも、天命はある。
それは死に際しての生きた証として顕れるものだ。
人はやはり、"死"こそが"生"であり"生"こそが"死"であるのだ。
空海はとっくにそのことを見抜いていた。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し

2013年8月18日日曜日

やはり腰を落ち着け長いスパンを頭に思い描いたうえで、考え続けなければならない。
批判をするのは誰でもいつでもできる。大事なのは明確な希望と可能性の提示だ。これは誰か一人の力で何とかできるような類の事柄ではない。
一番の基本は忘れないこと。それを基礎としたうえで倫理を根幹としたエネルギーと経済、軍事力の是非と日本の在り方を論じていく必要がある。
それらは決して腐った政治家と欺瞞に満ちた国会に任せ切るものではない。
日本の中での個から様々のコミュニティーにおいて多様に語られ論じられるべきである。
正解は、おそらく、無い。
と言う他は無い。なぜなら、この歴史的現在年における夥しい"個"の集合体の意識、価値観を一つに踏襲するなど完全に無理な話だからだ。宇宙の仕組みからしてそうはなっていない。だから、独裁というものは必ず終末を迎えてきたのだ。これは民衆の意思の勝利のほかに巨大な摂理の働きを感じ取るべき事柄である。間違ってはいけないのは、決してそれは"神"などという他力本願の塊による有難い啓示などではないということだ。
逆も然り。我々の感覚を超える大災害、大事故、そうまさに東日本大震災という名詞に隠された明確な"人災"。は、神などというものの手によるものでは一切ない。
敗戦後の舵取りのなかの誤りと米国の非人道的な世界経営観、傲慢・欺瞞を主軸としたエリート教育と国公立の洗脳骨抜き教育。これらのどこが神と運命と啓示なのだ。
いいかげん寝ぼけた頭を揺り動かし起きるべきときはとっくに過ぎている。
なぜ神がどーのこーのと言うかと言えば、現在の日本人の殆どの脳は無宗教ながらもほぼ100パーセント他力本願、いわば神と奇跡と偶然に頼りきっているような状態だからだ。
実存主義がいいわけではない。しかし、実存さえ持たないというのはあまりに稚拙な精神観だ。むしろ、人間として生まれた意義をまだ一つも感得していない状態だ。それが、年齢を問わず日本国民の殆どの心的状態である。
この嘆かわしさ、憤り。憤怒を抱えるに十分に足る歴史的現在年としての日本である。
さて、話がまたも稚拙な批判に逸れてしまった。批判の批判をしながら感情的批判に足が向いてしまうのはまさに悪い癖である。I can't shake off my bad habit.悪い癖がぬけなくてね。何故か一瞬で暗記してしまったセンテンス。これは我が本質を暗示したからか。
原発に際し、個人的感情と社会におけるアーティストとしての立場からいうと徹頭徹尾反対で、今すぐ世界中何処においてもあらゆる核開発を凍結し速やかに全ての処理に向けて各国がまずそこにおいてのみでも協力し合うことが何よりも重要かつ迅速に取り掛からなければならない人類の急務である。
また一方、現世にしがみつく我が業に従い感情を一旦殺し切ったうえでものを申せば、平和利用としての可能性とリスク、明確な改善点とその手法、緩やかなエネルギー転換と新たな軍事力保持の建前を必要としている、この小さな島国"日本"の苦労が分からないわけではない。政治家の"ご苦労"は別としてだ。
そもそも我々は生活の殆ど全てを既に問題の"電力"に依存している。残念ながら手放しで批判できるほどの潔白では毛頭ない。
しかし、声明・信条・心情・理念・観念・哲学・精神規範・行動規範において少なくとも全面賛成ということだけはあり得ない。それだけは断じて間違っている。
だから、意識調査と銘打って既存のいくつかの選択肢を選択させた巧みな誘導尋問による統計など全くの無意味だ。賛成にしろ反対にしろ、それら全ての賛成と反対に質というものがあり思考プロセスと決断が種々雑多に入り混じっている。そう、まるで数字のうえでの死者の数が問題なのではなく、その死者の数だけ、その数だけの「死」が現実に在るのだということが重要なのだというように。

戦前を忘れてはいけない。戦後はまだ終わっていない。東日本大震災はまだまだ終わらない。原発の被害はいつ果てるとも知れない。これから新たな震災、災害、人災が日本列島を覆うだろう。
もともと他人事など一つも無いのだ。
明日は我が身。
大なり小なりこれは至るところで真実である。
生と死、出会いと別れ、傍受と喪失。
それら全てが他人事ではないのだ。
今一度、我々は歴史的現在年としての日本の"今"がどうなっているのかを知ろうとし、考えなければならない。

2013年8月10日土曜日

TPPについて、西武秩父線の廃線に然り(世間的には小さいことかもしれないが、自分には身近な問題であった)このままアメリカに食い潰されてしまうのか、もしくは観念的にでもアメリカの一州に数えられてしまうのか、友好国の皮を被った敗戦被侵略国。
国民国家としての"日本"には興味はないが、風土・文化としての日本は言わば自己の形成粒子の魂である。
これ以上勝手な理由で蹂躙されてくれるな。
政治家による勝手な日本経営ゲームに振り回されるのはもうまっぴらだ。
もちろん企業家の世界人としての傲慢な自覚と利己主義にも。
倫理と論理(もしくは合理)の区別ができていない。
親の潤沢な資金の一部で外国へ遊学を決め込むのはよいが、平成以前の思想、歴史を学べ。むしろ江戸、むしろ桃山、蝦夷、平安、武家、平家!

しっかりしろよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!