なにもプリンシプルは国としての体だけでなく、個人において重要な精神規範・行動規範になりうる。
さすが松岡正剛。今回も素晴らしい編集的視点を頂いた。
気に入った部分を抜き出した。 以下。
白洲次郎は日本にプリンシプルがないことを悔やんでいた。プリンシプルは原則といった意味である。プリンシプルがないとどうなるかいうと、白洲には日本の敗戦と戦後がいつまでも続くだろうと見えたのだ。
白洲は交渉に勝てと言っているのではない。必要に応じては、妥協もかまわない。しかし、それでもプリンシプルを通したうえで妥協をすべきなのである。わかりやすくいえばプリンシプルをもつということは「こちらの筋を通す」ということだ。“対等”を通すことだ。その「こちら」をやらなくなった日本が残念なのだ。
プリンシプルのない妥協は妥協ではない。たんなる「ごまかし」か「諂い」なのである。
なぜ日本にプリンシプルがなくなったのか、白洲はあるとき小林秀雄に訊ねた。「儒学を失ったからだよ」という答えだった。「いつ、失ったのか」と尋ねると、「ま、明治半ばまではあったよな」だった。
かつて唐木順三は「日本の教養は明治20年生まれまで、そのあとは衰弱していった」と書いた。日本のプリンシプルは明治半ばまではまだ息づいていた日本的な儒学を含む教養だったのである。
もう少し補っていえば、日本儒学であり日本陽明学であり、また国学や洋学なのである。また漢詩とウィリアム・ブレイクとシェイクスピアであり、老荘とモンテーニュとパスカルなのである。それらが「もののあはれ」や「無常」に裏打ちされたもの、それが日本のプリンシプルであって、日本のリベラルアーツなのだ。
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