やはり腰を落ち着け長いスパンを頭に思い描いたうえで、考え続けなければならない。
批判をするのは誰でもいつでもできる。大事なのは明確な希望と可能性の提示だ。これは誰か一人の力で何とかできるような類の事柄ではない。
一番の基本は忘れないこと。それを基礎としたうえで倫理を根幹としたエネルギーと経済、軍事力の是非と日本の在り方を論じていく必要がある。
それらは決して腐った政治家と欺瞞に満ちた国会に任せ切るものではない。
日本の中での個から様々のコミュニティーにおいて多様に語られ論じられるべきである。
正解は、おそらく、無い。
と言う他は無い。なぜなら、この歴史的現在年における夥しい"個"の集合体の意識、価値観を一つに踏襲するなど完全に無理な話だからだ。宇宙の仕組みからしてそうはなっていない。だから、独裁というものは必ず終末を迎えてきたのだ。これは民衆の意思の勝利のほかに巨大な摂理の働きを感じ取るべき事柄である。間違ってはいけないのは、決してそれは"神"などという他力本願の塊による有難い啓示などではないということだ。
逆も然り。我々の感覚を超える大災害、大事故、そうまさに東日本大震災という名詞に隠された明確な"人災"。は、神などというものの手によるものでは一切ない。
敗戦後の舵取りのなかの誤りと米国の非人道的な世界経営観、傲慢・欺瞞を主軸としたエリート教育と国公立の洗脳骨抜き教育。これらのどこが神と運命と啓示なのだ。
いいかげん寝ぼけた頭を揺り動かし起きるべきときはとっくに過ぎている。
なぜ神がどーのこーのと言うかと言えば、現在の日本人の殆どの脳は無宗教ながらもほぼ100パーセント他力本願、いわば神と奇跡と偶然に頼りきっているような状態だからだ。
実存主義がいいわけではない。しかし、実存さえ持たないというのはあまりに稚拙な精神観だ。むしろ、人間として生まれた意義をまだ一つも感得していない状態だ。それが、年齢を問わず日本国民の殆どの心的状態である。
この嘆かわしさ、憤り。憤怒を抱えるに十分に足る歴史的現在年としての日本である。
さて、話がまたも稚拙な批判に逸れてしまった。批判の批判をしながら感情的批判に足が向いてしまうのはまさに悪い癖である。I can't shake off my bad habit.悪い癖がぬけなくてね。何故か一瞬で暗記してしまったセンテンス。これは我が本質を暗示したからか。
原発に際し、個人的感情と社会におけるアーティストとしての立場からいうと徹頭徹尾反対で、今すぐ世界中何処においてもあらゆる核開発を凍結し速やかに全ての処理に向けて各国がまずそこにおいてのみでも協力し合うことが何よりも重要かつ迅速に取り掛からなければならない人類の急務である。
また一方、現世にしがみつく我が業に従い感情を一旦殺し切ったうえでものを申せば、平和利用としての可能性とリスク、明確な改善点とその手法、緩やかなエネルギー転換と新たな軍事力保持の建前を必要としている、この小さな島国"日本"の苦労が分からないわけではない。政治家の"ご苦労"は別としてだ。
そもそも我々は生活の殆ど全てを既に問題の"電力"に依存している。残念ながら手放しで批判できるほどの潔白では毛頭ない。
しかし、声明・信条・心情・理念・観念・哲学・精神規範・行動規範において少なくとも全面賛成ということだけはあり得ない。それだけは断じて間違っている。
だから、意識調査と銘打って既存のいくつかの選択肢を選択させた巧みな誘導尋問による統計など全くの無意味だ。賛成にしろ反対にしろ、それら全ての賛成と反対に質というものがあり思考プロセスと決断が種々雑多に入り混じっている。そう、まるで数字のうえでの死者の数が問題なのではなく、その死者の数だけ、その数だけの「死」が現実に在るのだということが重要なのだというように。
戦前を忘れてはいけない。戦後はまだ終わっていない。東日本大震災はまだまだ終わらない。原発の被害はいつ果てるとも知れない。これから新たな震災、災害、人災が日本列島を覆うだろう。
もともと他人事など一つも無いのだ。
明日は我が身。
大なり小なりこれは至るところで真実である。
生と死、出会いと別れ、傍受と喪失。
それら全てが他人事ではないのだ。
今一度、我々は歴史的現在年としての日本の"今"がどうなっているのかを知ろうとし、考えなければならない。
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