世界は現象の蓄積の結果である。
社会は起こっていて存在は発生している。
その一つ一つの背景に蓄積された確かな過去が存在し、それぞれに概念的な死が予定されている。
「私」という存在が能動的に起こした現象をただひたすらに蓄積させることにより、純然たる堆積物が生まれる。
その堆積物こそが私が世界に在るという確証であり、私の対峙する世界そのものである。
巨視的な時間軸から見た一つのある時代に「私」は発生している。
人間存在は時代という単位と切り離して考えることは不可能だ。
ということは、私という存在は今という時代を体現していることになる。
私から生まれる作品も同じことで、そこから日本の、亜細亜の、世界の、人類の、地球の、太陽系の、宇宙の堆積された過去へと紐解いていくことができる。
また、作品とはそうしたものだと考える。
表現とは、その背景が必然的に色濃く反映されるものである。
いや、むしろ能動的必然性により激烈な意志をもって反映させるべきものなのだ。
時代というものは相対的にしか認識し得ない。
「今」を認識するためにiPadやハイブリッドカーを並べたところでそれは当たり前のことで、「今」への認識としては弱い。
逆に、江戸時代の資料(明治でも昭和でもいいのだけれど)を見せられるだけで、自然と「今」ということに意識が向く。
つまり、「今」の対岸に「過去」があり「今」は「過去」との相対で認識される。それは「過去」ではなく、「未来」という想像や予想でもかまわないが、厳然と存在していた時間と比べることで、より「今」の輪郭がはっきりする。
「今」の後ろに「過去」が在り、「過去」の後ろに「今」が在る。
この関係は物事の認識・知覚と相対性という関係のみならず、「存在は常に不在の事象を隠している」ともいえる。
原発の問題は何も解決してなどしてはいないという事実、常識という名のもとに隠された非常識、見えない有害物質で汚染されていく大気や森林や海、我々の影で確実に絶滅へと追いやられていく動植物...
それらの時物の相対性と存在が孕んでいる存在の意味上での相対性は同義である。
それが、ひいては藝術の社会における存在意義だといえる。
しかし、私は藝術をもってして安直な人間批判を主張しているのではない。
当たり前だが、シーシェパードに顕著なまるで暇の産物のような愚劣かつ稚拙な利己的批判精神を持っているわけでもない。
なぜなら我々もまた地球に発生した生物の一部であるため、生物であれば、「生きる」・「増殖する」ということが当たり前の本分であるからだ。
ただ我々は生物として、人間としてたった一つのことを忘れている。
それが「常識」だ。
常識の名のもとに非常識は隠されているが、世界は非常識が大半を占めている。
つまり、本質的には、非常識が巧妙に意識させられていないだけで、その非常識の影で息も絶え絶えに咽び泣く常識というものがあるのだ。
常識とはなんであるか。
故小田実が「これは「人間の国」か」で書き残した読むべき、知るべき文章を載せておく。
以下参照↓
常識は、人間の長い文明形成の歴史の中でかたちづくられてきたもので、それを欠いては人間は人間ではなくなるという基本の共通認識(コモンセンス)である。
常識なくしては、文明は形成されていない。たとえば、困っている人は助ける。人を殺してはならない。もちろん、世界はその常識通りにはなっていない。しかし、だからと言って、常識が常識でなくなることはないだろう。
常識は常識であることによって、常識をそうしたものとして人間が持ち続けることによって、それは事態をただす力になる。
原理とは、根本的にその常識というものに基づいている。思想は人間全体にあいわたる普遍をもつとき、原理の名に値するものになる。
そうでなければ、ただの個人的思考、あるいは、妄念にとどまる。いかに新奇、すばらしいものであろうと本質的にそうだ。
「人間全体にあいわたる普遍」。
人間の能力は象の鼻やキリンの首のようでなければならない。
科学技術が平和利用されることは当たり前のことなのだ。
なぜなら、人間の能力は人間のためであり、人を殺してはならないなんて当たり前すぎる衆知の常識だからだ。
しかし、これらは現在の在り様において「当たり前」ではない。
虚偽を正し必要な勉強をしなければ「当たり前」には辿り着けない。
無論、教科書などというものは糞の役にも立たない。
教育は学級崩壊やモンスターペアレンツの前に本質的に崩壊している。
私は私の対峙する「今」という複合的な世界を表現する。
私が蓄積をテーマとして重要視しているのは、世界の在り方の根源であるからだ。
「在るべき未来への原点回帰」は人間批判でも資本主義批判でもなく、ただただより善き世界を創るためだ。
世界は私が創るわけではない。
我々が創るのだ。
だから、私は社会へ提言をする。
私が蓄積の影に表出するのは、植民地支配という重い非常識を背負った日本であり、原発に代表される虚偽と矛盾に溢れた社会であり、私が育ち学んできた日本であり、私の、人間に対する愛情である。
傷付いた人には、私という存在を見て何か少しでも励みになってほしい。
社会には、私の作品を見て「人間粒」という本来を感じてほしい。
かつてドイツの彫刻家、ハンス(ジャン)・アルプがこの「人間粒」という言葉を使った。
私は人間存在の本質を言い表すとてもよい言葉だと思う。
「我々はより善き人間粒ではなかったか」
― 私が蓄積させるための手法としてなるべく単純な運動を選ぶのは、一つには蓄積というテーマをはっきりさせるためであり、もう一つには、所詮は全て原始的な運動の枝葉としてしか語れないという考えに基づいてのことだ。
より根源性を高めたいがために、造形性などの余計な要素も省いてある。
余計な要素の一つには、「全て手仕事」も省いている。
私は努力賞が欲しいわけでも、産業革命や資本主義を否定しているわけでもないからだ。
ただ、それを扱う人間の意識に今大事件が起きていると感じているだけだ。
私の作品は、「存在における不在の本質」「社会における本質の不在」ただそれに尽きる。
分かりやすく言えば、存在における本質と社会における本質のことだ。
何も難しいことではない。
存在はより根元的かつ本質的な強度が増すほどに、相対的作用により不在の本質が背景として色濃く滲んでくる。
私の表現したい不在の本質は目下、我々人間存在の「常識」だ。
人間と存在は別々ではない。
哲学者がなんの屁理屈を捏ねようが、「私が今ここに在る」ということが本質なのだ。
在るからには人間の役に立たねばならない。
なぜなら、我々の能力は我々のためにあるからだ。
当たり前のことなのだが、「自分のため」を突き詰めれば、他者の存在は絶対的なものであり「自分のため」はイコール「他者のため」であることに気が付くように、「人間のため」とは「地球のため」と同義である。
動植物や昆虫が住めないところに人間は住めない。
この「当たり前の事実」と人間の「常識」とは直接的に繋がっている。
また「原発反対」もそこに連なり、私の作品もそこに繋がっている。
私の思想には批判や反対の精神があっても、作品それ自体は批判や反対の精神を纏ってはいない。
あくまでも作品は私にとっての本質の体現であり、作品の解釈には自由を伴うからだ。
しかし、作品と対峙すればするほど、作品を紐解けば紐解いていくほど、私の思想の深淵に近づくこととなる。
それは同時に私の覚悟とも近づくこととなる。
行き着くは、激烈なる一蓮托生。
作者と鑑賞者の間における、理想的な感覚ではあるまいか。
私は「今」においての日本の藝術は、示唆的なものではなく啓示的なものであるべきだと考える。
それは正に東日本大震災とそれに次ぐ原発メルトスルーによる放射性物質拡散の人災を背負っているからである。
日本社会の中に居る以上、震災と人災(「東日本大震災」のように、人災にも人々の心に刻む名前をつけるべきだ)の以前と以降という思考的なテーマからは逃れることはできないし、間違いなくこれからの全ての主題であるべきだ。
「何事もなかったような」
は許されない。
無能無知蒙昧な官僚はそれを肝に命じておくべきだ。
私が美術においてこういった考えを元に発信をしていくことは、「原発反対」の文字を作品にあしらうことではない。
それはデザインやメディアのするべきことで、私は人間存在の本義から抗議する。
それぞれがそれぞれの分野においてこうした独自の運動を展開すればこそ、それは大きなうねりとなり国民(司馬遼太郎風に言えば「住民」)の総意となるはずだ。
以前、高円寺のライヴデモに行ったが、デモというにはそこに集まった群衆は思想的一体感に欠けていた。
「原発反対」なのだろうが、何を持ってして「原発反対」なのかを語れる人間はいかほどに居たのだろうか。
その時以来、私はデモへは一度も参加していない。
もはや今は「デモ」の時代ではない。
各人がしっかりと未来を見据え、本質的な考えを持ち、各人のメディアできちんと発表をしていくべきだ。
それでなくして、何のフェイスブックでありツイッターなのか。
「腹減ったナウ」や「今日の出来事」では、もはや時代が赦さない。
作品の解釈は自由を建前としながらも、もはや鑑賞者に委ねきるだけの余裕はない。
「考えさせる」では感受性の衰退と無関心の蔓延には追い付けない。
だから、示唆ではなく啓示なのだ。
人間の意識は魔術的な観念や思い込みからの解放などはあり得ない。
ある意味ではデュシャンは夢だった。
解放ではなく、ただの刷り変わりであったのだ。
事実、「造る」ということを異常に遠ざけてきたコンセプチュアルアートの系譜がそうではないだろうか。
コンセプチュアルアートが行き詰まった後は資本と商品性だけが取り残されて、ただの玩具的な作品がいたずらにマーケットを遊泳している。
無論すべてがそうだというわけではないが、村上隆このかた震災・人災以降も変わらず玩具的な作品が出回っている状況を見ると、日本の社会的・意識的末期状況を危惧せずにはいられない。
日本及び日本人は、戦争も水俣病もオウムも、そして今や3月11日の大震災、福島における人災でさえも全て全力で「なかったこと」にしようとしている。
隠蔽に未来なんてあるわけがない。
払いきれなかったツケは必ず後でまわってくる。
官僚という人種はそれを人生で学んでこなかったのだろうか。
アートも社会も人間も、そして私もあなたも決して世界と無縁ではないのだ。
例えば、星空に響くジェット機の轟音に気付くこと。
例えば、いつも誰かの見えない善意において社会はギリギリの人間性を保ち続けているということ。
そういったことが重要で、そういったメタファーが美術としての、藝術としての表現に啓示的な示唆を与えているのだと私は考える。
そして、必ず、こうした作品の意味上での背景が見る人には本質的に伝わるのだ。
だから私は藝術を、美術を信じる。
社会は起こっていて存在は発生している。
その一つ一つの背景に蓄積された確かな過去が存在し、それぞれに概念的な死が予定されている。
「私」という存在が能動的に起こした現象をただひたすらに蓄積させることにより、純然たる堆積物が生まれる。
その堆積物こそが私が世界に在るという確証であり、私の対峙する世界そのものである。
巨視的な時間軸から見た一つのある時代に「私」は発生している。
人間存在は時代という単位と切り離して考えることは不可能だ。
ということは、私という存在は今という時代を体現していることになる。
私から生まれる作品も同じことで、そこから日本の、亜細亜の、世界の、人類の、地球の、太陽系の、宇宙の堆積された過去へと紐解いていくことができる。
また、作品とはそうしたものだと考える。
表現とは、その背景が必然的に色濃く反映されるものである。
いや、むしろ能動的必然性により激烈な意志をもって反映させるべきものなのだ。
時代というものは相対的にしか認識し得ない。
「今」を認識するためにiPadやハイブリッドカーを並べたところでそれは当たり前のことで、「今」への認識としては弱い。
逆に、江戸時代の資料(明治でも昭和でもいいのだけれど)を見せられるだけで、自然と「今」ということに意識が向く。
つまり、「今」の対岸に「過去」があり「今」は「過去」との相対で認識される。それは「過去」ではなく、「未来」という想像や予想でもかまわないが、厳然と存在していた時間と比べることで、より「今」の輪郭がはっきりする。
「今」の後ろに「過去」が在り、「過去」の後ろに「今」が在る。
この関係は物事の認識・知覚と相対性という関係のみならず、「存在は常に不在の事象を隠している」ともいえる。
原発の問題は何も解決してなどしてはいないという事実、常識という名のもとに隠された非常識、見えない有害物質で汚染されていく大気や森林や海、我々の影で確実に絶滅へと追いやられていく動植物...
それらの時物の相対性と存在が孕んでいる存在の意味上での相対性は同義である。
それが、ひいては藝術の社会における存在意義だといえる。
しかし、私は藝術をもってして安直な人間批判を主張しているのではない。
当たり前だが、シーシェパードに顕著なまるで暇の産物のような愚劣かつ稚拙な利己的批判精神を持っているわけでもない。
なぜなら我々もまた地球に発生した生物の一部であるため、生物であれば、「生きる」・「増殖する」ということが当たり前の本分であるからだ。
ただ我々は生物として、人間としてたった一つのことを忘れている。
それが「常識」だ。
常識の名のもとに非常識は隠されているが、世界は非常識が大半を占めている。
つまり、本質的には、非常識が巧妙に意識させられていないだけで、その非常識の影で息も絶え絶えに咽び泣く常識というものがあるのだ。
常識とはなんであるか。
故小田実が「これは「人間の国」か」で書き残した読むべき、知るべき文章を載せておく。
以下参照↓
常識は、人間の長い文明形成の歴史の中でかたちづくられてきたもので、それを欠いては人間は人間ではなくなるという基本の共通認識(コモンセンス)である。
常識なくしては、文明は形成されていない。たとえば、困っている人は助ける。人を殺してはならない。もちろん、世界はその常識通りにはなっていない。しかし、だからと言って、常識が常識でなくなることはないだろう。
常識は常識であることによって、常識をそうしたものとして人間が持ち続けることによって、それは事態をただす力になる。
原理とは、根本的にその常識というものに基づいている。思想は人間全体にあいわたる普遍をもつとき、原理の名に値するものになる。
そうでなければ、ただの個人的思考、あるいは、妄念にとどまる。いかに新奇、すばらしいものであろうと本質的にそうだ。
「人間全体にあいわたる普遍」。
人間の能力は象の鼻やキリンの首のようでなければならない。
科学技術が平和利用されることは当たり前のことなのだ。
なぜなら、人間の能力は人間のためであり、人を殺してはならないなんて当たり前すぎる衆知の常識だからだ。
しかし、これらは現在の在り様において「当たり前」ではない。
虚偽を正し必要な勉強をしなければ「当たり前」には辿り着けない。
無論、教科書などというものは糞の役にも立たない。
教育は学級崩壊やモンスターペアレンツの前に本質的に崩壊している。
私は私の対峙する「今」という複合的な世界を表現する。
私が蓄積をテーマとして重要視しているのは、世界の在り方の根源であるからだ。
「在るべき未来への原点回帰」は人間批判でも資本主義批判でもなく、ただただより善き世界を創るためだ。
世界は私が創るわけではない。
我々が創るのだ。
だから、私は社会へ提言をする。
私が蓄積の影に表出するのは、植民地支配という重い非常識を背負った日本であり、原発に代表される虚偽と矛盾に溢れた社会であり、私が育ち学んできた日本であり、私の、人間に対する愛情である。
傷付いた人には、私という存在を見て何か少しでも励みになってほしい。
社会には、私の作品を見て「人間粒」という本来を感じてほしい。
かつてドイツの彫刻家、ハンス(ジャン)・アルプがこの「人間粒」という言葉を使った。
私は人間存在の本質を言い表すとてもよい言葉だと思う。
「我々はより善き人間粒ではなかったか」
― 私が蓄積させるための手法としてなるべく単純な運動を選ぶのは、一つには蓄積というテーマをはっきりさせるためであり、もう一つには、所詮は全て原始的な運動の枝葉としてしか語れないという考えに基づいてのことだ。
より根源性を高めたいがために、造形性などの余計な要素も省いてある。
余計な要素の一つには、「全て手仕事」も省いている。
私は努力賞が欲しいわけでも、産業革命や資本主義を否定しているわけでもないからだ。
ただ、それを扱う人間の意識に今大事件が起きていると感じているだけだ。
私の作品は、「存在における不在の本質」「社会における本質の不在」ただそれに尽きる。
分かりやすく言えば、存在における本質と社会における本質のことだ。
何も難しいことではない。
存在はより根元的かつ本質的な強度が増すほどに、相対的作用により不在の本質が背景として色濃く滲んでくる。
私の表現したい不在の本質は目下、我々人間存在の「常識」だ。
人間と存在は別々ではない。
哲学者がなんの屁理屈を捏ねようが、「私が今ここに在る」ということが本質なのだ。
在るからには人間の役に立たねばならない。
なぜなら、我々の能力は我々のためにあるからだ。
当たり前のことなのだが、「自分のため」を突き詰めれば、他者の存在は絶対的なものであり「自分のため」はイコール「他者のため」であることに気が付くように、「人間のため」とは「地球のため」と同義である。
動植物や昆虫が住めないところに人間は住めない。
この「当たり前の事実」と人間の「常識」とは直接的に繋がっている。
また「原発反対」もそこに連なり、私の作品もそこに繋がっている。
私の思想には批判や反対の精神があっても、作品それ自体は批判や反対の精神を纏ってはいない。
あくまでも作品は私にとっての本質の体現であり、作品の解釈には自由を伴うからだ。
しかし、作品と対峙すればするほど、作品を紐解けば紐解いていくほど、私の思想の深淵に近づくこととなる。
それは同時に私の覚悟とも近づくこととなる。
行き着くは、激烈なる一蓮托生。
作者と鑑賞者の間における、理想的な感覚ではあるまいか。
私は「今」においての日本の藝術は、示唆的なものではなく啓示的なものであるべきだと考える。
それは正に東日本大震災とそれに次ぐ原発メルトスルーによる放射性物質拡散の人災を背負っているからである。
日本社会の中に居る以上、震災と人災(「東日本大震災」のように、人災にも人々の心に刻む名前をつけるべきだ)の以前と以降という思考的なテーマからは逃れることはできないし、間違いなくこれからの全ての主題であるべきだ。
「何事もなかったような」
は許されない。
無能無知蒙昧な官僚はそれを肝に命じておくべきだ。
私が美術においてこういった考えを元に発信をしていくことは、「原発反対」の文字を作品にあしらうことではない。
それはデザインやメディアのするべきことで、私は人間存在の本義から抗議する。
それぞれがそれぞれの分野においてこうした独自の運動を展開すればこそ、それは大きなうねりとなり国民(司馬遼太郎風に言えば「住民」)の総意となるはずだ。
以前、高円寺のライヴデモに行ったが、デモというにはそこに集まった群衆は思想的一体感に欠けていた。
「原発反対」なのだろうが、何を持ってして「原発反対」なのかを語れる人間はいかほどに居たのだろうか。
その時以来、私はデモへは一度も参加していない。
もはや今は「デモ」の時代ではない。
各人がしっかりと未来を見据え、本質的な考えを持ち、各人のメディアできちんと発表をしていくべきだ。
それでなくして、何のフェイスブックでありツイッターなのか。
「腹減ったナウ」や「今日の出来事」では、もはや時代が赦さない。
作品の解釈は自由を建前としながらも、もはや鑑賞者に委ねきるだけの余裕はない。
「考えさせる」では感受性の衰退と無関心の蔓延には追い付けない。
だから、示唆ではなく啓示なのだ。
人間の意識は魔術的な観念や思い込みからの解放などはあり得ない。
ある意味ではデュシャンは夢だった。
解放ではなく、ただの刷り変わりであったのだ。
事実、「造る」ということを異常に遠ざけてきたコンセプチュアルアートの系譜がそうではないだろうか。
コンセプチュアルアートが行き詰まった後は資本と商品性だけが取り残されて、ただの玩具的な作品がいたずらにマーケットを遊泳している。
無論すべてがそうだというわけではないが、村上隆このかた震災・人災以降も変わらず玩具的な作品が出回っている状況を見ると、日本の社会的・意識的末期状況を危惧せずにはいられない。
日本及び日本人は、戦争も水俣病もオウムも、そして今や3月11日の大震災、福島における人災でさえも全て全力で「なかったこと」にしようとしている。
隠蔽に未来なんてあるわけがない。
払いきれなかったツケは必ず後でまわってくる。
官僚という人種はそれを人生で学んでこなかったのだろうか。
アートも社会も人間も、そして私もあなたも決して世界と無縁ではないのだ。
例えば、星空に響くジェット機の轟音に気付くこと。
例えば、いつも誰かの見えない善意において社会はギリギリの人間性を保ち続けているということ。
そういったことが重要で、そういったメタファーが美術としての、藝術としての表現に啓示的な示唆を与えているのだと私は考える。
そして、必ず、こうした作品の意味上での背景が見る人には本質的に伝わるのだ。
だから私は藝術を、美術を信じる。