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2013年1月29日火曜日

雑記

他国もしくは肌の色の違う人種に対しては、歴史上鬼畜的な振る舞いをさも正しいと繰り返してきたイギリス人。
馬肉に関しては我らが友を食してしまったと己の業を棚上げするその価値観。

謎である。

2013年1月21日月曜日

2012年 〆

今年も1年の終わりがやってきた。
久々の実家(埼玉)へ向かう電車の中で、この1年を振り返る。

まず思い浮かぶいくつかのことは、新たな血縁の再認識と原発に対しての明確な態度の決定、そして我が母国が堕ちるとこまで墜ちたという哀しき実感であろう。

今年は自分の人生の中で最も海外へ行った1年であった。
まず、2月のKAJIMA彫刻コンクールレセプション翌日からのカンボジア・ベトナム旅行、次いで再従兄弟の銀婚式にお邪魔させて頂いた想い出深き南アフリカ。
夏にヨーロッパ旅行にてドイツ(デュッセルドルフ、ゲッティンゲン、カッセル)、オーストリア(ウィーン)、イタリア(ヴェネツィア)、そして1ヶ月の語学留学、Fijiだ。
何もかもが新しく、何もかもが楽しく、素晴らしい1年だった。
それに加え、南アでは日本大使館公邸での作品設置(現HITACHI Power of Afrika)、5月には学内において優秀と認められたための賞与。

南アとドイツでは再従兄弟に大変なお世話になった。
また、得難い信頼できる友として、善き再従兄弟に出会った。
彼らは年こそ4つ程離れているが、弟というよりは血を分けた友人と呼ぶのが相応しい。
私は正直、自分の血筋というものに感謝したのは今年が人生の初めてのことである。


しかしその反面、自分の人生の幸せを実感すればするほど、その出会いの幸せとは裏腹に、予期せぬ別れに見舞われ、住む処を奪われ、国の汚泥を一身に受け止め続けている被災地の痛感が胸を突く。

批判の気持ちと世界に対しての激情をなんとか「作品」(記憶の暗号 ―あの日の雨は、降り積もる―)として発表することにより、個人的にはなんとか落ち着くことができた。
これを誰ぞが自己満足だと言うならば、言えばいい。
美術におけるマーケットも教育も無い、もしくは腐りきった日本において、本物の「表現」をしているという自負が私にはある。
事実、少数ではあるが、私の作品に共鳴してくれる人や感動してくれる人達、私を信じてくれている人達のおかげで、私は毎年1t以上の作品を造り納めさせて頂いている。
無論、収支についてほぼ赤字といっていい。

しかし、その代価と引き換えに私はアーティストとしてのキャリアを手に入れた。
私は世界を見ているが、日本に対しての言葉を持っている。
なぜなら私は日本人であるからだ。
今や世界有数の馬鹿と愚劣の保有国であるこの日本において、日本人達の心に対して、私は語りかけたいと本気で考えている小さな若者だ。
味方は少ない。嫉妬する者、邪魔する者、馬鹿にする者、否定する者、それら全ては僕とは10も20も離れた「大人」達だ。
それら畜生共とは反対に、味方する者、傍観者、激励する者達は私と年齢の近い人達だ。もちろん、10も20も離れた大人の中にも私を応援し、激励してくれる方々は少なからずいるのだが。
私は既にとても多くの人々に支えられ、生きているのだ。
それらの事実に、私は正直に涙する。

私が表現の中に見ているもの、信じているものは、これら私の実感する人間の温度である。
人間は心の温度を無くしては生きていけない。
冷酷に人を殺す冷めきった温度には、共存というものは無く、破壊や殺戮という消滅へ向けてのエントロピーしか存在しない。

私は世界をそんなに知らぬので、日本を相対的に論じることは不得意とするが、私には今の日本の教育と共通観念から成る日本の舵取りは、経済と外交のみを指しているのではないかと思う。
一体、文化は何処へ行ったのだろうか。
前述した温度の話において、お金と人間関係の中での勝利や支配・侵略に、その温度は存在しているのだろうか。
無論、存在しない。
それは断言できる。
金は唯の価値というものの媒体物でしかなく、人を出し抜いてでも勝ちたいと思い生きてきた人生のあまりに空虚な現在を、誰が嘘無しに自分を肯定しきれるだろうか。
もしできるのならば、それは残念ながら強烈な自己催眠と言う他は無い。

誰もが知る通り、日本には伝統的なもの、生活的なもの以外の美術の市場は存在しないに等しい。
僅かにコンテンポラリーな市場は存在するが、更に正規の意味でのギャラリー・ギャラリストとなどのしっかりとした評価基準を持った市場は殆ど無い。
私は日本人として日本語を持って提言をしたいと常々考えているが、残念ながら有名人好きのミーハーな国民性と無関心と無感動の蔓延、自分で考えることを封じた教育にまみれたこの日本において、個人の表現など無意味である。
しかし、嘆かわしいことではあるが、主に「海外で売れた」・「有名である」といった理由で日本人はコロリと掌を返す。
何処へ行ってもまずは「スゴイ人」として迎えられ、傾聴に値すると思われて自分の話に耳を傾けるようになる。

私が日本を愛しながらも日本を出たいのは、市場の不在と国内では若くエネルギーがある時に社会への発言力を持つことができないからだ。
私は堂々と「在るべき未来への原点回帰」のコンセプトを述べたい。
そして、日本を世界において平和のイニシアチブをとる正しい先進国としたい。
そのためには、国と国民を思う温度を持った政治と、足るを知る無駄の無いエネルギー政策、直ちに原発を撤廃し代替エネルギーに変える、勇気あるエネルギー転換、何より国民の一人一人が世界を見て考えて、文明と社会の歴史と生と死・宇宙を感得するための教育が必要だ。
私は美術家及びアーティスト、藝術家を志す一人の20代の表現者である。
そのような若者が大手をふって好きなことを言える社会でなければならない。
人から貰うことばかり考える国民性を作ったところに日本の未来は無い。
私は私の理想を持って、社会を創る一翼を担いたい。
どうか人間が正しい方向へ舵をとり、異なる価値観を受容し、生きとし生ける全てのものが幸せに暮らせる世の中になりますように。
無宗教の私が祈ることに意味がある。
それこそが祈りというものが根源的であり、真に普遍的なものは民族的であるということだ。

来年の殆どはおそらく南アフリカをはじめとする外国で過ごすことになると思うが、どうか、今年よりは失望の少ない日本であってほしいと私は願う。
そして何より私自身が、私を信じ激励を送り時には様々な援助をしてくれる方々、私を愛していてくれる人達を失望させないように生きていかねらばならないと、ふんどしを絞め直して2012年の筆を置きたい。

記憶の暗号 ーあの日の雨は、降り積もるー


2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
被災地には劣れども、生まれて初めての強烈な揺れへの体験と惨事に対しての非現実感にしばらく何も手につかなかったが、4月に入りぼつぼつと制作を始めた。

身のうちに起きた何かしらの変化と震災と人災の狭間で、心に何か違和感を残したまま制作をしながらゆっくりと考え続けていた。
震災に際しての何かをしたいという気持ちと無神経な好奇心に、すぐに行動を起こすことがためらわれ、震災に合われた地域と自分の生活圏内との距離にテレビ越しの惨事の情報がない交ぜになり、正直に頭が混乱したからだ。

結果、私はいくらかの募金をしデモに一度参加したきり何もしなかった。
それはあの時の日本人としてあってはならない形であったと私は自分を責める気持ちがある。

いいわけがましくも私は私の震災を在りのままのものとして、何かしらのカタチにしたかった。
明確な震災後の人災についても、プラカードを持つでもなく批判と否定の明確化を文字で表現するのでもない、美術としての在り方を考え続けた。

東洋と國と私と常識と倫理と個人的な時間軸と巨視的な時間軸における歴史的現在年の事実を圧搾し、余分な要素を捨て去るまでに1年という歳月を要した。
端的な要素に絞り込み、虚実の鏡の上に真実の水と負の表象として鉄を溶融したものを配置し、それを空間に展示した。

なるべく「在りのまま」として、大事な物事を作品として表現し続ける。
なぜなら私はジャーナリストでも思想家でもないからだ。
思想はあるが、私が持つのは美術家としての思想である。
何がどうであろうとある消えない事実が様々な人間の心と歴史に刻まれ、無くなるまでに大変な時間を要する目に見えない有害物質が大量に降り積もった。
その変えようがない事実への痛感が、新たに加えられた私が捉えた歴史的現在年としての今である。

サイズ;長さ6000×幅900×高さ100(mm)