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2011年8月19日金曜日

藝術の言葉 言葉の藝術

デュシャン以降、藝術は観念の藝術となった。
それは藝術が専ら哲学と思想へ大幅に傾くことを意味しており、今や死語たる「デッサン」は省みるだけ損をするようなものとなってしまった。

鑑賞者の感心は目の前の作品との交感から作者の動機とユーモアと表面的な驚きに向けられる。
もはや鑑賞者は個人にとっての価値ではなく相対的(資本主義的)価値観に左右され、作品は「あぁ、そうだったのか」の低俗な安心を得るためだけの道具となった。
それだけ世の中で価値観の指針を打ち立てるのが難しいという今の生きづらい世相を反映しているかのようでもある。

しかし、それはあくまで言葉と視覚のみの世界であって、幾次元にもまたがる情報と現象の蓄積たる藝術品はその中では永遠に理解されることはないだろう。
皮肉なことに、マルセル・デュシャンが促したアウラからの解放は、より強いブルジョワ思考のアウラにがんじがらめにされてしまった。

藝術家が言ってはいけない、「藝術は言葉じゃない」は説明に対しての体のいい逃げ口上であるが、あながちそれは完全に否定しきれるものでもないと考える。
なぜなら、創らない人間こそが藝術を言葉に当て込みたがり規制の価値観に押し込めてきたからだ。
自らの価値観の変容を受容できないがために、生まれたてのいたいけな藝術作品をギチギチの箱に押し込めて安心する。
コレクションには同じ大きさの箱がただただ無味乾燥に積み上がっていくだけだ。

芸術は言葉じゃない

本当に言葉じゃない。

今や鑑賞者は作品を観た時に言葉に納得しているだけだ。
ならばそこには実体はいらない。
3D画像と説明書があれば事すんでしまう。(案外それをやれば逆説的表現としてウケるかもしれない。それもまた集団意識の皮肉である。)

しかし、それならば造ることはいらなくなる。
作品に実体はなく、すべてデータベース化され、bitで換算されてしまう。
では、実体とはなんなのか。
価値の媒体であるはずのマネーがデジタル化し、食品はすでに命の介在が確認しづらい。
住む家は家具付のただの箱になり、土地に執着がなくなった。
そこに氏神などが存在する余地は全くない。
我々の実感の本体である衣食住は全てにおいて概念としてのデジタル化を果たそうとしつつある。

ただ唯一、人間の生の実体としての藝術を残して。

敢えて極論に突っ走ったが、現状に対する危機感と藝術に託された希望を説くにはこうあるべきだと考えた。
藝術家の言葉はデザイナーの言葉とは違う。
注意の行き届いた言葉などいくらでもそこいらに転がっている。
ゴミが欲しければゴミ箱を漁ればいい。

我々は努めて「藝術は言葉じゃない」の「本義」に立ち返るべきである。

言葉は言葉好きに任せておけばいい。

2011年8月2日火曜日

遅ればせながら、原発再考

正直、私は今まで原発に対しての自分の姿勢を決めかねていた。
「成るように成る」「成るようにしか成らない」と逃げていたようなふしもある。
原発は人類にとって如何なるものか。
原発は資本主義経済にとって如何なるものか。
我々はあるべき未来に対しどのように在るべきか。
私は私なりの私見を述べる。
私は、原発は即座に廃止するべきだと考える。
原発に替わるエネルギーは、言い方は乱暴だが、勝手になんとかなる。
なんとかするしかないからだ。
ある意味追い込み作のようでありながら、何も追い込まない。
我が日本にはまだ十分なエネルギー政策ができる国力があるからだ。
国は政治家と軍人のものではないということを政治家と軍人が自覚すればの話だが。
人民は決して馬鹿ではない。
己ばかりが強大という欺瞞は墓穴になる。
今しか原発を廃止するチャンスはない。
今なら日本から世界を変えることだってできるのだ。
「利権こそが世界であり生きるということだ」という考えを捨てることができるなら。
今ならまだ間に合う。
我々は今しかない。
抽象的で感覚的な警鐘にならざるをえないが、私は持ちうる全ての力でこの小さな小さな警鐘をならす。
追伸;児玉龍彦氏(東京大学先端科学技術研究センター教授東京大学アイソトープ総合センター長)の参考人質疑は必見である。