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2011年9月30日金曜日

吐露

全ての物質がそれぞれ自分勝手なバランスをとろうとし、結局は多様性の飽和状態を生み出す。

それはとても刺激的で、生命が最も躍動し胸踊るような状態だ。

人間は自然とテクノロジー、もしくは人間とテクノロジーの間にいてこそ丁度よい。

明治維新から戦争に入るまでの奇跡的なロマンは、発酵し熟成したまろやか且つコクのあった文化的背景も大いに関係があるが、おおよそそういったことでも生まれ得た奇跡だと私は思う。

そんなことで、私は藝術家として常に何かと何かの間に自分を置きたいと考えている。

そこでバランスをとろうとし、もがきたゆたっている状態でこそ藝術家たる本分であるように思うから。

かつての大天才のように、常に意識せずとも非バランス的で代謝の激しい人間を別にして、私のような凡人出の藝術家志望はそうでもしなければ生きてはゆけない。

そしてもう一つ。

私は現代の「情報」を軸とした均一化へ向かいつつある社会への不満と危惧がつのるばかりであるからだ。

ボーダレスでグローバル。

およそ「アートは...」で始まる常套句はそんなことをうたっている。

私は本当にそうなのかな。と、疑わずにはいられない。
確かに米国や西欧ではそんな雰囲気があるとは思うが、日本ではそもそも「アート」という言葉さえ定着していない。
日本では、アートはよく分からないものであり、芸術は油絵であり、工芸は陶芸であり、彫刻は木やブロンズの具象物体であり、アーティストとはJ-POP歌手である。

それに加え、我々を培ってきた気候や風土とネイションステート入りするまでのかくも香しい私の愛してやまない日本に対しては、そのこだわりこそが無駄なのだと言わんばかりではないか。
全く異なった気候風土で育った概念を亜細亜においてまで無理やりに当て嵌めて、いまなお鼻の高い青い目の金髪に憧れ続けている日本人は、恐るべきスピードで恐るべき均一化を果たさんとしているように見受けられる。

均一と安心ほど邪悪かつ恐ろしいものはない。
均一と安心は怠惰と慢心しか産み出さない。
平和で何もかもが満ち足りて、都合の悪いものは何でも隠して、無能無知蒙昧な政治家は民をメタボリズムの促進剤としてしか捉えられていないような現代は、情報の鬼畜的なスピードと目まぐるしく変わる為替と甘ったるい自分以外への陶酔型偽善的擁護に満ち満ちて、すでに全世界的に均一化しつつある。

ここで断っておかなければならないのは、あくまで均一化というものがまずいのであって、平和は大賛成だ。
平和あってこその人類である。
しかし、なんとも均一化というのはまずいと思うのだ。
このままでは、人類は早急に宇宙に出なければならない。
均一化され何をやっても満足が得られないような世界は、濃度の濃いガスが溜まっているようなもので、常に大爆発の危険をはらむ。
しかし、我々人類はまだ宇宙での生活など始められるほど成長してはいない。

未だ我々はヨチヨチ歩きのままなのだ。

同種で殺し合いなどしているうちは。

私の考えるこの恐るべき均一化に対する打開方法は二つ。

それは、破壊かゆるやかな後退だ。

前者を選ぶならば核戦争後の人類絶滅の色が濃い。
まるで小松左京のSF小説のようだ。

後者は、時間もかかるし何より人間自らが気付き、人類単位で選択し行動しなければならない。

果たしてかくも欲深さを蓄え、醜くいびつになった現代の我々人間粒は今更ながらさも美しい調和を奏でることは可能であろうか。

宇宙からして全ての物質は死へ向かっているのにもかかわらず、それに対抗しうるというのだろうか。

宇宙の内に在る物質は、全てが宇宙に支配されている。
もし宇宙が永遠に拡張を続けるのならば、我々もまた種としての永遠を選択できるかもしれない。

しかし目下、それぞれの物質は進む方向を曲げられず、決められた寿命で天寿を全うする。

だが、私は願わずにはいられない。
そして誠に小さい声ながら、主張せずにはいられない。

我々の子供達への申し訳や人類の可能性や選択肢を。

何より人類がより善き明日を生きてほしいから。

しかし、私は細かくどこをどうすればいいのかは正直わからない。
が、問題点を逆説的に体現し表現することはできる。

世界を変える力のある人間に、私は気付いてほしい。

空や雲や風や土や火や水などの、あまりに馬鹿馬鹿しいほどの当たり前なことが我々の内から無くなりつつあることを。

我々は我々のために在る。
そして我々は我々を憎み、我々は我々に殺される。

我々は日々の鬼畜的なスピードに呑み込まれながらも、人間を見失ってはとうてい生きてはゆけない。

まだ人間は人間を見失ってはいない。
が、失わないともかぎらない。

私は自らの身を削り唯々、願う。

人類よ、人間本来に気付いてくれと。

一人の人間があらん限りの力を使い、農耕民族さながらの連続・反復性の中に自身を埋没する。
私の言いたいことは、その埋没した中に全て埋まっている。

2011年9月28日水曜日

無題

言葉があふれるような時がある。
それは美しい事象に触れた時やなんかにふいにくる。
我々の中や世界中に眠る膨大な宇宙の記憶を垣間見た時や、美しい言葉や現象、景色に触れた時。

松岡正剛を読んだ時には、僕と茫洋とした巨大な記憶やこの國の風や土を一緒に捉えられて、その視点からの物事を考証してみたくなる。
自然は当たり前に圧倒的な自然さで、土は静かに息をしている。
しかし、美しい言葉はなかなかあるものではない。
言葉も表現であって端的には発言者そのものであるのだから、ほんの小さなところでの整合性を欠いたりしただけでなんとなく嫌な感触を得ることがある。
「素直に美しい」とは同時に「好き」でもある。

僕は最近はじめて池澤夏樹の小説を読んだ。
そして今も読んでいる。
まだ二冊目だからそうそう言い切ることはできないけれど、僕には記憶の彼方の堀辰夫の文章が美しいというぼんやりとした記憶と重なる。
堀辰夫を読んだのはもうずいぶん昔のことで、確か結核で隔離された美しい女なんかが出てきたような気がする。
僕はそういった場面・人物設定が大好きだ。
もちろん直接的には、堀辰雄と池澤夏樹では似ても似つかないのだけれど。

池澤夏樹の小説で最初に読んだのは「スティルライフ」
次は一緒に綴じてある「ヤー・チャイカ」
どちらもすこぶる大好きで、「スティルライフ」の冒頭は抜粋するに値する。
著作権とか馬鹿みたいなことに問題が無ければ、以下↓

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。

二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。



今は「マシアス・ギリの失脚」を読んでいる。
そこでも冒頭にある島の朝の描写と鳥の伝承が爽やかな風のように快い。

こんな時、西田敏行のもしもピアノが弾けたなら♪を思い出す。
そう、弾けたならば思いの全てを唄にしてあなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に美しい詩が詠めたなら、あなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に池澤夏樹のような文章が創れたのならばきっと、あなたへ思いのすべてをもっと上手に伝えられたことでしょう。

考えてみれば、僕はなんと偶然なことに美術という立派な表現媒体を持っている。
しかし、趣味と職業とが決定的に異なるように僕にとって美術は僕のためにあるのであって「あなた」のためにあるのではない。
表現とはどんなに生ぬるい捉え方をしようとも絶対的に個人的なものだからだ。
まぁ、僕にとってはだけど。
だから、僕がもし美しいとされる絵や彫刻を造ることができたとしても、それは「あなた」への思いを伝える媒体にはなり得ない。
もしもピアノが弾けたなら♪をいかにロマンチックに捉えようとも、美術が引き合いに出されたとたんに「いやいや、大事な気持ちは言葉なんかじゃ伝わらないよ。行動行動。実感覚がなにより大事でしょ。」とか言い出す始末。
趣味なら言えることが本気でやってると言えない。
趣味なら趣味と割りきって集合的な評価や賛同を得ようとは考えないから楽に一元的にもできるけれど、本気になるとそうはいかない。
幾次元にも捉え否定し再考し考え抜いたうえでまた失敗。
生きていきたいから評価も欲しいし金も欲しいし。
とかとか。

なんとか楽になりたいもんだ。

もし楽になったら、その時はもしかしたら「あなた」への想いをカタチにして受け取ってもらえたらと僕は思う。

いや僕は、もしかしたら本当はそれを夢みているのかもしれない。

そんな気もする。

2011年9月20日火曜日

反省

二足の鞋

僕は二足の鞋が好きである

二足どころか三足も四足も履けばよいと思っている

それだけのキャパシティがあるのなら

今の日本はアメリカからもらった鞋しか履いていない

しかもあまりに履きづらい鞋だ

日本は戦後このかた履けるはずのないはずの鞋を履きこなそうとするだけの66年間だった

所詮、日本のサイズに合わない鞋を履きこなすなど土台無理な話だ

しかし、それならば二足の鞋を履けばよい

システムは外人さん、文化は日の本

何をもってして日本人の趣味趣向・性質・価値観まで外人さんにしたがるのか

学生紛争このかた、未だに無能な政治家達は民衆を恐れ人民の管理に明け暮れ、外国に萎縮して本人達はアメリカ人並にブクブク太っていくだけだ

我々は虚しいただの人間粒だ

己の力に慢心し、己に対して欺瞞を持ち、己が己を殺すのだ

しかし、それは己が己を愛し己が世界を救うのだと言い換えることもできる

己は他の鏡、他は己の鏡

どちらを選択するかはまったくの自由だ

生き方はいつでも変えられる

僕らはその根元的な選択の自由を示唆できるにとどまるが、それは傲慢でもなく下らなくもない、ただただ小さい個人的な愛なのだ

かつて内村鑑三が言っていた

武士道に足りないのは愛だけだと

ならば武士道に愛が備われば、素晴らしい精神規範・行動規範になるのではないか

我々は、我々というアイデンティティーは、失っていいものなのだろうか

今、日本としての在り方を論ぜずしていつ論ずるのか

吉田松蔭がいまここにいたならば、我々は我々の不甲斐なさによって松蔭を泣かせるだろう

なぜアメリカと仲良くしたいだけのために被爆し国土を汚染しなければならないのか

中国・北朝鮮・韓国・ロシアを牽制するためか
アメリカさんからの旨い汁がそこまで旨すぎるためか

ならば、国民を護るという大義名分の上に国民国土を汚すのは本末転倒ではないのか

無能無知蒙昧で傲慢かつ高慢な人間達

悪者は誰か


それは我々人間だ

一度でいい

立ち止まり、ゆっくりと話を聞いて譲り合いより善い世界を造りませんか

まるで小学校の学級会のように

それだけ我々は大事なものを置き忘れて生きてきてしまったのではないだろうか

我々はあまりに稚拙に堕落しすぎた

2011年9月12日月曜日

9.19 さよなら原発5万人集会

http://sayonara-nukes.org/

今

感動― 感覚が動く、心が動く

我々はいったい何に感動するのだろう

ビルの屋上も空からの眺めも地中の部屋も、あるはずのない、できるはずのない、本来ならば人間の範疇でないことも、それらは全て人間の所業である

象の鼻は象のためにあり、キリンの首はキリンのためにある

そして、我々の能力は我々のためにある

我々は我々に感動するのだ

自然といわれる宇宙や地球規模のもの、我々を包括する世界には、我々は感動どころか圧倒される

今、美術は「何のために何をやりどうなったのか」を知る安心、またはマーケットでこねくりまわされ磨耗するただの商品...
それだけのものになっている

我々は我々として、在るべき人間粒としての在り方を忘れてはいないだろうか

私は今一度ただ一粒の人間粒に立ち返りたい

人間存在の生命をみてみたい

そして私の生命を捧げたい

何故、何をしてどうなったかを知ることができたところで、問題が解けた現代人の些末な悦びを促すだけだ

先人達の藝術に通ずる人間存在の言霊、人を人たらしめるはずの藝術は、象の鼻のようであり、キリンの首のようなものではなかったか

私は私の考える本質を世に問いたい

時間は戻らない
しかし、知ることはできる

有史以前、太古に遡る悠久の時間と、我々が慌ただしく絶望と希望の間を右往左往している現在は、確かに繋がっているのだと

テクノロジーにしろシステムにしろ、全ては原始的な行動の枝葉としてあるはずだ

私は唯々、時間と現象と気と体力を媒体に託して蓄積する

いつしかホモサピエンスとしての我々の一端を、垣間見るのを夢みながら

2011年9月9日金曜日

Memory Code

私は普遍的かつ本質的なものを表現したいと考え日々作品制作をしている。
それは、たとえば土のようであり、忘れられた祠のようなもの。

世界のあらゆるところに介在する内と外の関係性は、蓄積された時間に由来する。
DNAの蓄積情報や木の年輪や石の積層、大地の断層…のように。

人は心を強烈に揺さぶる何かに出会った時、動けなくなったりふいに涙がでたりする。
それは意識と無意識の間の出来事。

生きづらく、捉えづらくなった世界でも、どこかに必ず真水のようなものが存在する。
我々の鼓動や代謝、それらの蓄積。

我々は日々エネルギーを摂取し消費して生きている。
その蓄積が意味を取り込み人生というものをかたどるのだ。

万物は蓄積から始まる。
私は積層された 断面を示唆する。
断面は有史以前の世界を暗示し、唯の懐古趣味でなく、我々をあるべき未来への原点回帰へと導く装置となる。

より善き世界を生きるため。

しかし、それらはあくまで多世界解釈の域をでることはない。

世界には確かなものも不確かなものも存在してはいないのだから。

より善きものは、私の内にしか存在していないのだから。