全ての物質がそれぞれ自分勝手なバランスをとろうとし、結局は多様性の飽和状態を生み出す。
それはとても刺激的で、生命が最も躍動し胸踊るような状態だ。
人間は自然とテクノロジー、もしくは人間とテクノロジーの間にいてこそ丁度よい。
明治維新から戦争に入るまでの奇跡的なロマンは、発酵し熟成したまろやか且つコクのあった文化的背景も大いに関係があるが、おおよそそういったことでも生まれ得た奇跡だと私は思う。
そんなことで、私は藝術家として常に何かと何かの間に自分を置きたいと考えている。
そこでバランスをとろうとし、もがきたゆたっている状態でこそ藝術家たる本分であるように思うから。
かつての大天才のように、常に意識せずとも非バランス的で代謝の激しい人間を別にして、私のような凡人出の藝術家志望はそうでもしなければ生きてはゆけない。
そしてもう一つ。
私は現代の「情報」を軸とした均一化へ向かいつつある社会への不満と危惧がつのるばかりであるからだ。
ボーダレスでグローバル。
およそ「アートは...」で始まる常套句はそんなことをうたっている。
私は本当にそうなのかな。と、疑わずにはいられない。
確かに米国や西欧ではそんな雰囲気があるとは思うが、日本ではそもそも「アート」という言葉さえ定着していない。
日本では、アートはよく分からないものであり、芸術は油絵であり、工芸は陶芸であり、彫刻は木やブロンズの具象物体であり、アーティストとはJ-POP歌手である。
それに加え、我々を培ってきた気候や風土とネイションステート入りするまでのかくも香しい私の愛してやまない日本に対しては、そのこだわりこそが無駄なのだと言わんばかりではないか。
全く異なった気候風土で育った概念を亜細亜においてまで無理やりに当て嵌めて、いまなお鼻の高い青い目の金髪に憧れ続けている日本人は、恐るべきスピードで恐るべき均一化を果たさんとしているように見受けられる。
均一と安心ほど邪悪かつ恐ろしいものはない。
均一と安心は怠惰と慢心しか産み出さない。
平和で何もかもが満ち足りて、都合の悪いものは何でも隠して、無能無知蒙昧な政治家は民をメタボリズムの促進剤としてしか捉えられていないような現代は、情報の鬼畜的なスピードと目まぐるしく変わる為替と甘ったるい自分以外への陶酔型偽善的擁護に満ち満ちて、すでに全世界的に均一化しつつある。
ここで断っておかなければならないのは、あくまで均一化というものがまずいのであって、平和は大賛成だ。
平和あってこその人類である。
しかし、なんとも均一化というのはまずいと思うのだ。
このままでは、人類は早急に宇宙に出なければならない。
均一化され何をやっても満足が得られないような世界は、濃度の濃いガスが溜まっているようなもので、常に大爆発の危険をはらむ。
しかし、我々人類はまだ宇宙での生活など始められるほど成長してはいない。
未だ我々はヨチヨチ歩きのままなのだ。
同種で殺し合いなどしているうちは。
私の考えるこの恐るべき均一化に対する打開方法は二つ。
それは、破壊かゆるやかな後退だ。
前者を選ぶならば核戦争後の人類絶滅の色が濃い。
まるで小松左京のSF小説のようだ。
後者は、時間もかかるし何より人間自らが気付き、人類単位で選択し行動しなければならない。
果たしてかくも欲深さを蓄え、醜くいびつになった現代の我々人間粒は今更ながらさも美しい調和を奏でることは可能であろうか。
宇宙からして全ての物質は死へ向かっているのにもかかわらず、それに対抗しうるというのだろうか。
宇宙の内に在る物質は、全てが宇宙に支配されている。
もし宇宙が永遠に拡張を続けるのならば、我々もまた種としての永遠を選択できるかもしれない。
しかし目下、それぞれの物質は進む方向を曲げられず、決められた寿命で天寿を全うする。
だが、私は願わずにはいられない。
そして誠に小さい声ながら、主張せずにはいられない。
我々の子供達への申し訳や人類の可能性や選択肢を。
何より人類がより善き明日を生きてほしいから。
しかし、私は細かくどこをどうすればいいのかは正直わからない。
が、問題点を逆説的に体現し表現することはできる。
世界を変える力のある人間に、私は気付いてほしい。
空や雲や風や土や火や水などの、あまりに馬鹿馬鹿しいほどの当たり前なことが我々の内から無くなりつつあることを。
我々は我々のために在る。
そして我々は我々を憎み、我々は我々に殺される。
我々は日々の鬼畜的なスピードに呑み込まれながらも、人間を見失ってはとうてい生きてはゆけない。
まだ人間は人間を見失ってはいない。
が、失わないともかぎらない。
私は自らの身を削り唯々、願う。
人類よ、人間本来に気付いてくれと。
一人の人間があらん限りの力を使い、農耕民族さながらの連続・反復性の中に自身を埋没する。
私の言いたいことは、その埋没した中に全て埋まっている。
それはとても刺激的で、生命が最も躍動し胸踊るような状態だ。
人間は自然とテクノロジー、もしくは人間とテクノロジーの間にいてこそ丁度よい。
明治維新から戦争に入るまでの奇跡的なロマンは、発酵し熟成したまろやか且つコクのあった文化的背景も大いに関係があるが、おおよそそういったことでも生まれ得た奇跡だと私は思う。
そんなことで、私は藝術家として常に何かと何かの間に自分を置きたいと考えている。
そこでバランスをとろうとし、もがきたゆたっている状態でこそ藝術家たる本分であるように思うから。
かつての大天才のように、常に意識せずとも非バランス的で代謝の激しい人間を別にして、私のような凡人出の藝術家志望はそうでもしなければ生きてはゆけない。
そしてもう一つ。
私は現代の「情報」を軸とした均一化へ向かいつつある社会への不満と危惧がつのるばかりであるからだ。
ボーダレスでグローバル。
およそ「アートは...」で始まる常套句はそんなことをうたっている。
私は本当にそうなのかな。と、疑わずにはいられない。
確かに米国や西欧ではそんな雰囲気があるとは思うが、日本ではそもそも「アート」という言葉さえ定着していない。
日本では、アートはよく分からないものであり、芸術は油絵であり、工芸は陶芸であり、彫刻は木やブロンズの具象物体であり、アーティストとはJ-POP歌手である。
それに加え、我々を培ってきた気候や風土とネイションステート入りするまでのかくも香しい私の愛してやまない日本に対しては、そのこだわりこそが無駄なのだと言わんばかりではないか。
全く異なった気候風土で育った概念を亜細亜においてまで無理やりに当て嵌めて、いまなお鼻の高い青い目の金髪に憧れ続けている日本人は、恐るべきスピードで恐るべき均一化を果たさんとしているように見受けられる。
均一と安心ほど邪悪かつ恐ろしいものはない。
均一と安心は怠惰と慢心しか産み出さない。
平和で何もかもが満ち足りて、都合の悪いものは何でも隠して、無能無知蒙昧な政治家は民をメタボリズムの促進剤としてしか捉えられていないような現代は、情報の鬼畜的なスピードと目まぐるしく変わる為替と甘ったるい自分以外への陶酔型偽善的擁護に満ち満ちて、すでに全世界的に均一化しつつある。
ここで断っておかなければならないのは、あくまで均一化というものがまずいのであって、平和は大賛成だ。
平和あってこその人類である。
しかし、なんとも均一化というのはまずいと思うのだ。
このままでは、人類は早急に宇宙に出なければならない。
均一化され何をやっても満足が得られないような世界は、濃度の濃いガスが溜まっているようなもので、常に大爆発の危険をはらむ。
しかし、我々人類はまだ宇宙での生活など始められるほど成長してはいない。
未だ我々はヨチヨチ歩きのままなのだ。
同種で殺し合いなどしているうちは。
私の考えるこの恐るべき均一化に対する打開方法は二つ。
それは、破壊かゆるやかな後退だ。
前者を選ぶならば核戦争後の人類絶滅の色が濃い。
まるで小松左京のSF小説のようだ。
後者は、時間もかかるし何より人間自らが気付き、人類単位で選択し行動しなければならない。
果たしてかくも欲深さを蓄え、醜くいびつになった現代の我々人間粒は今更ながらさも美しい調和を奏でることは可能であろうか。
宇宙からして全ての物質は死へ向かっているのにもかかわらず、それに対抗しうるというのだろうか。
宇宙の内に在る物質は、全てが宇宙に支配されている。
もし宇宙が永遠に拡張を続けるのならば、我々もまた種としての永遠を選択できるかもしれない。
しかし目下、それぞれの物質は進む方向を曲げられず、決められた寿命で天寿を全うする。
だが、私は願わずにはいられない。
そして誠に小さい声ながら、主張せずにはいられない。
我々の子供達への申し訳や人類の可能性や選択肢を。
何より人類がより善き明日を生きてほしいから。
しかし、私は細かくどこをどうすればいいのかは正直わからない。
が、問題点を逆説的に体現し表現することはできる。
世界を変える力のある人間に、私は気付いてほしい。
空や雲や風や土や火や水などの、あまりに馬鹿馬鹿しいほどの当たり前なことが我々の内から無くなりつつあることを。
我々は我々のために在る。
そして我々は我々を憎み、我々は我々に殺される。
我々は日々の鬼畜的なスピードに呑み込まれながらも、人間を見失ってはとうてい生きてはゆけない。
まだ人間は人間を見失ってはいない。
が、失わないともかぎらない。
私は自らの身を削り唯々、願う。
人類よ、人間本来に気付いてくれと。
一人の人間があらん限りの力を使い、農耕民族さながらの連続・反復性の中に自身を埋没する。
私の言いたいことは、その埋没した中に全て埋まっている。