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2014年10月16日木曜日

不在

いつしかとある何処かの場所で

一人男が酒をあおっていたのだとさ

何杯目かもわからなくなってきた時、ふと何かがそこらを掠める

幸せの残り香か、血肉の飛び散る凄惨な未来の予感

あなたがもういないから

世界はすっかりめちゃくちゃだ

人が人を殺し血で血をあらう

あなたがもういないから

笑いながら皮を剥ぐ

世間話をしながら、罪のない目玉をくり抜く

最後に映された醜い私が虚空の夜に彷徨っていた

一瞬後には全ては野に帰り野犬の腸におどるというのに

あなたがもういないから

世界は残酷さで満ち溢れている

あなたがもういないから

私はなにもみつけられない

あなたがもう、いないから。






2014年10月14日火曜日

思考日和

ARTなど、どうでもよい。

そう言えなくて何故、表現者などというものを志したか。
私は正確にはART WORLD内のARTISTとしては一生扱われないかもしれない。しかし、私は私の表現をしなければならない。自分に嘘をつくことはできないから。
だから、ARTなどどうでもよいのだ。そんなことより、生まれてからずっとつきまとう、この生きている故の矛盾や問題の方がよっぽど大事なことなのだ。

性欲も物欲も置き去りにして、唯々、私は私を包括するものと対話をし続ける。
内なる宇宙を対存在として。

見えづらいものや見えないものにこそ目を向けることが、現代社会からの逃亡を企てる唯一の方法かもしれない。
ここで大事なことは、逃亡には浪漫があるが逃避に浪漫はないということだ。逃避には唯々、言い訳がましさやうしろめたさがあるだけだ。だからこそ、逃亡は素早く大事に、美しく、厳かに粛々と、儀式のように行われなければならない。それが逃避なのか逃亡なのかは、その主体となる者の必然性が決めるのだ。

例えば影や負や時間や空間に目を向けてみる。
そこから顕れるものは実は単純で、結局はこの三次元における場と水と大気と土とに収束する。
なぜなら、我々は死という方法を持たずしてこ身体と三次元からは目下逸脱するわけにはいかないのだから。
死後には死後の、言葉があるはずだ。
そういった意味では、人間は、死なない。次段階としての始まりと終わりのあいだになるだけだ。

時間とは始まりと終わりのあいだ、つまりは流れそのもの、敢えていうならば、「方向」である。方向は一定で不可逆なものだ。そのために記憶や記録というものは我々にとって存在の根幹を保証する最も重要なファクターである。そのために、世界は本であると言っても過言ではない。誰でも、何れでも、世界を記述する一冊の本であるのだ。

時間には万物それぞれ固有の速度があるため、個々が独自の時間速度を保有しその数だけ固有の時間というものがある。
人間でいえば、あなたの時間、私の時間というように。
次元は固定され界の限られた世界のことではない。
幾重にも重なる次元のあいだで、あらゆるものが相関しあい、次元の構成要素は常にずれたり移動や交換をおこないながらそのかたちを保っている。つまり、動的平衡である。
世界の時間は我々よりもずっと長く大きく、故にゆっくりだ。次元においての相関関係も次元や物質、その固有の時間速度でおこなわれている。
つまり時間とは、"不可逆で一定の方向と個々で異なる速度"のことであると言い換えることができる。

我々の認識する世界であれ次元であれ社会であれ、それら全ての細部からが無数の固有時間により構築されている。我々は個であると同時に我々を包括するものの一部である。
そして我々が可視できる世界のほんの一部でさえも、固定されたものは一つもなく常に始まりと終わりの過程であり途中であり、我々自身を含め動的な現象そのものなのである。

脳という我々の内なる小宇宙において世界とは、個々に認識される空間と機構の観念である。
つまりは三次元下で生成された脳と身体を基盤として建設された余剰の産物である。
我々は"在る"という確約された状態にあるのではなく、むしろ奇跡的にあやふやにかたちを留めているにすぎない。
故に自身を担保するのは圧倒的な他者であり、その他者の質が自身の存続に深く関わっている。ここでいう他者とは、人間に限ったことではなく対存在として自らの存在を担保する他者や記憶や記録のことである。

例えば、政治に無関心でいることが致命的な理由は、その本人の意識・認識において本人自身の存在自体が根底から危ぶまれるからである。
"圧倒的他者としての社会"に無関心でいることは極めて致死的な意識の持ち方だ。
部分は常に全体に左右され、部分の革命的現象は一見ゆるぎない何物をも破壊する力を持つ。
故に意識こそが次元をまたぎ脳と身体に縛り付けられた世界からの逃亡を企てる最重要の鍵となる。

ここまでのことを分かりやすくまとめると、まず我々人間は"脳(ブレインマインド)と身体(ボディマインド)と元意識(スピリットマインド)としての私"という融合状態として三次元下に在る。
万物は等しく全体と細部の関係において蓄積された時間であり、時間とは方向と速度のことであるから、"個"はそれぞれが保有する時間の速度に担保される。
つまり、全ての存在は対存在に担保されるわけであるから、個の対存在は時間の速度ということになる。

結果、宇宙や素粒子や社会や私達まで、そこにある"速度やふるまい"こそが最も本質的なものであると私は考える。
全てに個が認められるからこそ、在り方は多様性に基盤を置かなければならない。是が非かの二元論からなる結果では余剰がなく、正に対しての負、陽に対しての陰、つまりは影の文化が生まれない。
実際、歌舞伎や猿楽は河原者と言われる橋元のこじきや流しの一座から生まれたものであるし、ROCKやPUNKや政党や新聞だって道端やコーヒーハウスでの密会や談合から生まれている。そして、それらは全てが後の世のスタンダードになっているのだ。
これはつまり、本質は"負"の中にこそ潜んでいて負が本質を負っているということであり、負を見つめられる視線と胆力を持っていなければ一生本質に触れることなく生を終えることになるということだ。
だから、歴史の中でごくたまに人間の構築した社会という虚構の胸クソ悪さに気がついてしまった人達は、しばしば陰に魅入られた。コクトーは負けることや喪失を知らない人は何も学ばなかった人だというし、ジュネは負の中に身をおかずにいられなかった。宮武骸骨は滑稽新聞を刊行し、太宰も三島も彼岸へ渡ってしまった。

負や余剰に対しての"浄化"や"救済"を盾にした輝かしくおぞましい神軍の押し付けは、文化を滅ぼし戦争を引き起こす。
歴史的現在の阿鼻叫喚図は、私には我々人類のとってきた選択の齟齬を見つめなおすよう要求しているように思えてならない。

私がこれまでもこれからも、死ぬまでの生の基軸としておくものは「存在と記憶・時間と蓄積」に他ならない。それはそのまま私のART活動の基盤にもなっている。
そこに脳と身体がこの三次元という界との癒着を果たし、めくるめく現在という瞬間の確証を問う私の生き方が始まる。
これは私が人間であることをやめない理由でもある。

私が人間であって現在という瞬間の蓄積上に成り立っているという事実は、そのまま「"過去に担保された現在"の中で生きている私」に引き継がれ、生きるということが「辿る」ということに変換される。
この見地に則り、本質は動的平衡上の"辿られるもの"であり文化・習俗ですら一切の形骸は本質を辿るためのキーでしかないといえる。
つまり立ち顕れ可視化されたモノではなく、その方法にこそ本質が隠されている。
本質とは存在の根本であり本来である。
我々の脳は記憶と連想を基盤とした想像と創造、そしてそのために合理的な解を導き出す演算能力に特化している。
記憶と連想は過去・現在・未来の時間観念を生み出し、生に生ずる漠然とした不安はその回避のために現在の生が自らの創出に起因するということで、自らがこの世に在るという確証を得るに至る。
そのために宗教はまず根本的な生命の源を示し、それを神と崇めた。
他部族との争いを経て集団が拡大していくにつれ、その規範として王と国と政治が生まれる。
生命の源は王や天皇にとって変わり、現在の資本主義下ではお金という虚蒙にすり変わっている。
人間の脳はより効率の良いエネルギー摂取のために身体を使い農耕をし狩猟をし交換をし社会を形成し交換の際の互いの価値観の相違軋轢を解消するために貨幣を生み出し相互関係の巨大な機構を作ってきた。
それらは本来、全て人類の未来のため生産性の向上の究極形を求めて変化をしてきたはずである。
しかし現在では、その中で生まれた巨大資本を背景とした文化・風土・土地の収奪と蹂躙、商品化が飽くなき戦争と死、憎しみの連鎖を大量に撒き散らしている。
正統性を振り回し情報を隠蔽統制し、脳を使わず疑わず思考しない集団の国民国家を作り上げた目的は唯々、羨望による西洋社会への仲間入りのため、はたまた集団教育による洗脳・統制と怠惰な豚を肥えさせるための収奪機構とちんけなスリルを求めた暇潰しの戦争のためだった。
多様性は次々と統合され合理的なカテゴライズを経て界を限られた。それと共に無意識に認識される生の選択肢も数を減らし現在では勝者と敗者、是か非だけの一神教的二者択一の人生という空語が数多の若者の夢を奪う。

しかし我々は、それらに対抗しうる揺るがぬ「意識」と「身体」を持っている。
しかしそれらは意識を意識し、身体を意識しなければ扱えない。より原初に立ち還り、記憶と連想、想像と創造を鍛え磨かなければならない。
人類に示される行き先が生産性の向上からいつしか滅亡へとすり変わった現在において、それでも我々が選択可能な未来というものが必ず在るのだということを信じたい。
「僕らの世界の救い方」は「在るべき未来への原点回帰」にある。そのために、負や陰に隠された本質を辿りなおし記録と記憶を手繰りよせ、新たなかつ膨大な編集作業を人類規模で行わなければならない。
そのための人類一人一人のキータームが、意識と身体性であると考える。私の持つこの意識が、私のARTの社会性を担保しているのだ。

換金されロンダリングに利用され金をもて余したセレブの暇潰しに消費され、分け前を貰い誉めそやされ芸術家や先生と言われ、空虚だけを抱きしめあの世でジュネやコクトーや安吾から冷笑を受ける。
私はそんなARTにもARTISTにも興味はない。

現代でこそ冷笑される、理想と信念と人間美こそが私にとってはARTであり、それを体現する者こそがARTISTであると私は考えている。

矛盾のように理解する人もあるかもしれないが、ARTISTとしての絶対条件は死ぬほど考えて売れることなのである。



2014年10月8日水曜日

きえる月にみる夢は

美人で、儚くて激しくて、まるで月のような人だった。
月だって太陽だって、そりゃ曇っていなけりゃ同じように明日でてくるのだけれど、月は違うんだ。
大気の具合で見え方がとかそういう話でなくて、具体的に昨日とは違ってる。
欠けているんだ。厳かに大胆に。
満ち欠けの話でなくて、欠けている。昨日より。
また巡るそれとはやっぱり違っていて、もう二度と、戻ってはこないんだ。その月は。―

「なんだいそれは。」
「いや、俺はわかるぞ。」

皆既月食の夜、家へ帰るなり少年はそんなことを言うともなしに言っていた。
何故だかは分からない。
それすら月の魔性だとでもいうように。
少し大人びたようなその言い回しに違和感を覚えながらも、どうせ教科書で読んだなにかの一節だろうと思い込み父母は思い思いにそれに応えただけなのだ。
無論、その答えとて今日はとくべつ宇宙へ繋がるような虚空へと、そのままゆっくりと霧散した。

そして少年の詞は方舟に。

想いは遥か流星の背に乗せられた。





2014年10月3日金曜日

note 。


頭がいっぱいである。

前回を読み直せば下手クソな文体と愚痴っぽさに吐き気がする。
自身の想定したはずの日記や心情吐露に収束しない、文章としてのエスキースやドローイングには程遠い、馬鹿らしい内容であったことを反省している次第である。しかしもし自己弁護する猶予があるのだとすれば、半分ほどの割合で文章は酔っ払って書くことがあるということだ。無論、前回私は呑んでいた!尚、この悪癖を治すつもりは毛頭無い。Viva 酔っ払い である。スーイスーイスッタカラッタスラスラスイスイスイ~♪ なのである。

ということで、エスキースないしドローイングらしく自身の思惟構造を整理してみよう。まずは題目をいくつかだしてみる。

・国民国家以前、気候風土としての日本、および国といわれる世界の"場"。

・日本という方法。すなわち土地から醸される歴史という"方法"。"南アフリカの方法"だって、あるわけだ。しかしその方法として突出していてそれが時代や地政学的知見からいっておもしろいのは、抜群に日本である。シリアスなのに何処か祭りで遊んでいるのが日本である。切れる文化より笑いと祭りの、日本という方法である。まつりは祭りで祀りで政である。

・メディアと女と男の関係性。男の体たらくは女が生み出している。女の体たらくはメディアが生み出している。結局は、馬鹿な男が日本を、いや世界を滅ぼす。メディアと教育の責任は、現在の社会形態においては確実に男にある。

・3次元という呪縛。スピリットマインドとボディマインドとブレインマインド。存在は大きく3つの存在が三次元下で合わさったものである。万物はまずサンドイッチだ。そして3次元下における存在とはじつは蛹であるということ。

・物体、存在、確かなものや形象やカタチという一瞬の幻。

・お金と時間、ARTの可能性。やるべきこととできること。「在るべき未来への原点回帰」、「僕らの世界の救いかた」。

・ある日ある時ある場所で、生まれたからには意味がある。必然を"感じる"という訓練。生きるということは現代の観念とは著しくずれたところで常に激烈なのである。

・宇宙、地球、人体。意識と身体性。存在と記憶、時間と蓄積。

・土。

・エロス。

なるほど。本質を見ようとして色々考えているということはうかがえる。
しかして、これにみあう行動が必要である。知行合一は理念であるが行動が足りぬ。して行動を担保する経験と実績が足りぬ。つまりは巡り還りやはり行動が足りぬ。

ポイントは、足腰・制作。である。要するに、ボディマインドと表現である。やはり私にとって、ARTは陽明学なのである。
しかしこの間、私は一時もあの3月11日を忘れていない。
2万を超える死が時代に投げかけた意味を、まだ私は汲み取りきれていない。
死は、ただの消滅や削除ではない。本当に、関わった全てに意味がある。それを汲み取るということは、生きるという意味の一つである。生きている以上、生きなければならないのは、反面あまりに平等な死があるからだ。だから、メメント・モリ という言葉があるのだ。

死を、おもえ。

私にはそれがART,芸術が担う本質、根幹であると思えてならない。もっというなら、実は全ての社会や文化の根源であると私は考える。生きるということは、死へ、もしくは死から、なのである。だから、


生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し


と空海はいったのだ。