言葉があふれるような時がある。
それは美しい事象に触れた時やなんかにふいにくる。
我々の中や世界中に眠る膨大な宇宙の記憶を垣間見た時や、美しい言葉や現象、景色に触れた時。
松岡正剛を読んだ時には、僕と茫洋とした巨大な記憶やこの國の風や土を一緒に捉えられて、その視点からの物事を考証してみたくなる。
自然は当たり前に圧倒的な自然さで、土は静かに息をしている。
しかし、美しい言葉はなかなかあるものではない。
言葉も表現であって端的には発言者そのものであるのだから、ほんの小さなところでの整合性を欠いたりしただけでなんとなく嫌な感触を得ることがある。
「素直に美しい」とは同時に「好き」でもある。
僕は最近はじめて池澤夏樹の小説を読んだ。
そして今も読んでいる。
まだ二冊目だからそうそう言い切ることはできないけれど、僕には記憶の彼方の堀辰夫の文章が美しいというぼんやりとした記憶と重なる。
堀辰夫を読んだのはもうずいぶん昔のことで、確か結核で隔離された美しい女なんかが出てきたような気がする。
僕はそういった場面・人物設定が大好きだ。
もちろん直接的には、堀辰雄と池澤夏樹では似ても似つかないのだけれど。
池澤夏樹の小説で最初に読んだのは「スティルライフ」
次は一緒に綴じてある「ヤー・チャイカ」
どちらもすこぶる大好きで、「スティルライフ」の冒頭は抜粋するに値する。
著作権とか馬鹿みたいなことに問題が無ければ、以下↓
この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。
今は「マシアス・ギリの失脚」を読んでいる。
そこでも冒頭にある島の朝の描写と鳥の伝承が爽やかな風のように快い。
こんな時、西田敏行のもしもピアノが弾けたなら♪を思い出す。
そう、弾けたならば思いの全てを唄にしてあなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に美しい詩が詠めたなら、あなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に池澤夏樹のような文章が創れたのならばきっと、あなたへ思いのすべてをもっと上手に伝えられたことでしょう。
考えてみれば、僕はなんと偶然なことに美術という立派な表現媒体を持っている。
しかし、趣味と職業とが決定的に異なるように僕にとって美術は僕のためにあるのであって「あなた」のためにあるのではない。
表現とはどんなに生ぬるい捉え方をしようとも絶対的に個人的なものだからだ。
まぁ、僕にとってはだけど。
だから、僕がもし美しいとされる絵や彫刻を造ることができたとしても、それは「あなた」への思いを伝える媒体にはなり得ない。
もしもピアノが弾けたなら♪をいかにロマンチックに捉えようとも、美術が引き合いに出されたとたんに「いやいや、大事な気持ちは言葉なんかじゃ伝わらないよ。行動行動。実感覚がなにより大事でしょ。」とか言い出す始末。
趣味なら言えることが本気でやってると言えない。
趣味なら趣味と割りきって集合的な評価や賛同を得ようとは考えないから楽に一元的にもできるけれど、本気になるとそうはいかない。
幾次元にも捉え否定し再考し考え抜いたうえでまた失敗。
生きていきたいから評価も欲しいし金も欲しいし。
とかとか。
なんとか楽になりたいもんだ。
もし楽になったら、その時はもしかしたら「あなた」への想いをカタチにして受け取ってもらえたらと僕は思う。
いや僕は、もしかしたら本当はそれを夢みているのかもしれない。
そんな気もする。
それは美しい事象に触れた時やなんかにふいにくる。
我々の中や世界中に眠る膨大な宇宙の記憶を垣間見た時や、美しい言葉や現象、景色に触れた時。
松岡正剛を読んだ時には、僕と茫洋とした巨大な記憶やこの國の風や土を一緒に捉えられて、その視点からの物事を考証してみたくなる。
自然は当たり前に圧倒的な自然さで、土は静かに息をしている。
しかし、美しい言葉はなかなかあるものではない。
言葉も表現であって端的には発言者そのものであるのだから、ほんの小さなところでの整合性を欠いたりしただけでなんとなく嫌な感触を得ることがある。
「素直に美しい」とは同時に「好き」でもある。
僕は最近はじめて池澤夏樹の小説を読んだ。
そして今も読んでいる。
まだ二冊目だからそうそう言い切ることはできないけれど、僕には記憶の彼方の堀辰夫の文章が美しいというぼんやりとした記憶と重なる。
堀辰夫を読んだのはもうずいぶん昔のことで、確か結核で隔離された美しい女なんかが出てきたような気がする。
僕はそういった場面・人物設定が大好きだ。
もちろん直接的には、堀辰雄と池澤夏樹では似ても似つかないのだけれど。
池澤夏樹の小説で最初に読んだのは「スティルライフ」
次は一緒に綴じてある「ヤー・チャイカ」
どちらもすこぶる大好きで、「スティルライフ」の冒頭は抜粋するに値する。
著作権とか馬鹿みたいなことに問題が無ければ、以下↓
この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。
今は「マシアス・ギリの失脚」を読んでいる。
そこでも冒頭にある島の朝の描写と鳥の伝承が爽やかな風のように快い。
こんな時、西田敏行のもしもピアノが弾けたなら♪を思い出す。
そう、弾けたならば思いの全てを唄にしてあなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に美しい詩が詠めたなら、あなたに聞かせたことでしょう。
もしも僕に池澤夏樹のような文章が創れたのならばきっと、あなたへ思いのすべてをもっと上手に伝えられたことでしょう。
考えてみれば、僕はなんと偶然なことに美術という立派な表現媒体を持っている。
しかし、趣味と職業とが決定的に異なるように僕にとって美術は僕のためにあるのであって「あなた」のためにあるのではない。
表現とはどんなに生ぬるい捉え方をしようとも絶対的に個人的なものだからだ。
まぁ、僕にとってはだけど。
だから、僕がもし美しいとされる絵や彫刻を造ることができたとしても、それは「あなた」への思いを伝える媒体にはなり得ない。
もしもピアノが弾けたなら♪をいかにロマンチックに捉えようとも、美術が引き合いに出されたとたんに「いやいや、大事な気持ちは言葉なんかじゃ伝わらないよ。行動行動。実感覚がなにより大事でしょ。」とか言い出す始末。
趣味なら言えることが本気でやってると言えない。
趣味なら趣味と割りきって集合的な評価や賛同を得ようとは考えないから楽に一元的にもできるけれど、本気になるとそうはいかない。
幾次元にも捉え否定し再考し考え抜いたうえでまた失敗。
生きていきたいから評価も欲しいし金も欲しいし。
とかとか。
なんとか楽になりたいもんだ。
もし楽になったら、その時はもしかしたら「あなた」への想いをカタチにして受け取ってもらえたらと僕は思う。
いや僕は、もしかしたら本当はそれを夢みているのかもしれない。
そんな気もする。
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