私は文章ベタなので、箇条書が最も自身に合った文章的表現だと思われる。
それらを踏襲してほんの二三言でまとめられたなら、少しは整理能力がついたと自負したい。
●記憶
・自分の記憶
・歴史的記憶
・人為的に記録される以前、宇宙的起源の記憶
●存在
・それのみでは確証たりえないもの
・動的平衡の一状態
・全てのカタチは形骸もしくは三次元世界においてのみの表層的な一瞬の幻である。
・存在を保証、担保するものは唯一の対存在である。
・在ることよりも在ったことに保証されるもの。故に対存在は同質の過去、記憶を有する。
●対存在
・ある存在を担保する同質量の対応、呼応、共鳴する存在。これは一方的な関係ではなく相互的な関係である。
●意識
・三次元下で形成された認識としての脳内意識と生まれて形態を持ち得る以前の元意識または意識体としての意識の二種類に大別される。
●身体
・三次元と元意識を繋ぐ愛しき鍵、媒体
・感情の根源
・脳の命令で動く生体機械だと考えられているが、それは誤りである。
●脳
・人間の全てを司るように考えられているがそれは誤りである。実質的合理性を発揮する演算装置の趣がつよい。
・生まれてからのもの、三次元下のもの
・認識、感知をするもの、記憶をするもの。それらを縦横無尽に編集する能力を持つ。
・休息を要するが故に記憶を基盤とした持続、継続的な意識を有する。「寝ないで働く」の非合理性の理由である。しかし、しばしば身体は脳を凌駕する。疲れるのは身体ではなく、脳である。脳は常に無理をしない。唯一脳を動かせるのは元意識のみである。
●時間
・一定で不可逆の「方向」
・時計のことではない。
・存在の数だけ固有の時間があり、その識別は速度にある。
・可視化することはかなわないが、媒体物を通して認識もしくは感じることができる。
・実現してしまった瞬間を、完全な一存在として、その個別性とともに保持することは不可能である。ひとつの完全な思い出をつくるためには、夥しい瞬間の記憶が必要である。― バシュラール
我々人間は生の根幹に"宇宙と身体を繋ぐ意識"を持つべきであると私は考える。
この世界に不必要なものや絶対的な正義や悪、真に恒久的で不変なものや"こうあらねばならない"などという規定は唯一つもない。平和の恒久を希求するならば、それを実現させるのは我々人間の意識である。多様性を認められない限り一方的な排除という暴力的手法は無くならない。休息や喪失、死があるからこそ生を全うできるのだし、対存在としての他者を愛し記憶に浸ることができるのだ。
これは多分に資本主義にも則した政治的な話であると言うことができる。
全ては動的平衡の"状態"であり、宇宙の原則に則って始まりと終わりのあいだを過ごしている。その原則を忘れてもしくは不都合のため追いやって、政治や経済や社会を論じたところで何の確証に辿り着くことはない。これは物理の法則に則って数式により絶対性を担保された定理を繋ぎ合わせてもなんら「世界」の記述がかなわないことと似ている。相対性理論にしろ紐理論にしろ、それはある視点からのあるほんの一部にしかすぎないのだから。
移動しながらカタチを変えず積層された同一平面の存在しない球体の様であり、そこに"美しさ"をも備えたその「絶対」たるものは、およそ人間には辿り着けない神そのものである。
国民国家の出現以前、広く多様に信仰された神なるものは十分に政治や経済や社会を形成できていたはずである。なにもスーパーマーケットや冷蔵庫、リムジンやプライベートスペースだけが文明や社会ではないだろう。
それがもし絶対的な幸福のカタチを示しているのだとしたら、幸福とはなんと脆く簡単で稀薄なものであるか。
大事なことは動的平衡状態を十分に理解したうえでの、生命がそこにカタチを留めているのと同様な加減のとりかたである。バランスと言い換えてもいい。
実はARTの必然性もそこにある。とくに社会を形成し持続させていくうえでの政治や経済に対する対存在としての意識形成を役割としている。平易にいえば、数字に対しての文字のようなものである。一つの法則を定理によって証明するのに数式と言葉で説明した場合、数式の方がはるかに明解で合理的であるのに対し、言葉はその説明をするのに膨大な量の文字と時間を要する。しかし、コクトーやランボーの詩を理解するのに数字は何の解も導き出せないのに対し文字は余計な解釈をさえ要さない。究極の不必要である。
どちらが強いだの良し悪しだのの話の次元ではない。安くいえば"みんな違ってみんないい"なのだ。
基を辿ればすべては48億年の遥か遠くに根を同じにしているのだから。
つまりは我々もまた、点から究極的拡散状態への始まりと終わりの一部なのである。
その事実への認識こそが、私にとって私がこの三次元下の現在に存在している救いでもある。
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