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2013年3月7日木曜日

”記憶の暗号”に潜む想い、”記憶”を扱うことの意義

ふとした時に、何とも言い難い“懐かしさ”を感じる時がある。
しかしそれは、日本に限らず世界中あらゆるところで感じるものだ。
優しい風がまるで何かを連れてきてくれたかのような、そして傍らを仄かに通りすぎていくような、そのような“感じ”がする。

古の人はそれを、“音連れ”といい、折口信夫は“来影”といった。

私は古寺や古仏、いつからあるとも知れずひそやかに佇むお地蔵さんが好きだ。
何かそこに言い知れぬ安心とざわめき、記憶を喚起させようとする静かな力を感じるのだ。
ひっそりとしたお地蔵さんのそれは、アフリカの大地に匹敵する。

大海原やマンションの屋上、広い河川での眺望や電車の運転席の車窓や船の前部に居るのも好きだ。
前に進むものならば、それは必ずその方向と同じ方向で見る眺望が望ましい。
だとすれば、やはり飛行機はおしいのだ。
しかし、あの天界の眺望はなにものにもかえがたい魅力がある。
だが、その絶景を最大限引き出して見ることができるのは、運転席より他はない。

私はそれらを唯好きであるだけではなく、それら全てに“懐かしさ”を感じている。
万物にはそれぞれ過去という“記憶”がある。
宇宙の、天体の、生物の、それぞれの記憶が識別される。
我々の記憶をもし記録しえていたとしたら、それは地球を何周もするような長巻となり、生物発生30億年のかなたにまで遡る“万世一系”の流れとみることができるようなものでなければならない。
歴史上の事実との符号性を糧に立証される我々の“記憶”とは、その万世一系の流れに端を発したものである。
私は我々日本人の“詠嘆”や“はしゃぎ”、“笑い”の質にこの地で育まれた風土を感じる。
その土地において固有の種と系が育まれるように、我々もまたこの島の必然的性を持っている。
よく世界から称賛されたり不思議がられたり非難されたりするものは、国民性ではなく民族性であり、それは土壌より萌え出る愛しき性なのである。
地球上にある1種類の生物が消えることで、その他の生物にどれだけの事件的負荷がかかることか。
それに加え、あるはずのその系はそこで途絶えてしまう。
何が欠けてもよいものなど一つもない、あまりに美しい関係性、秩序のことを本来は“世界”といったのだ。
だから、我々はその本来の“世界”を感得するために、六感を信じ最大限に発揮させなければならない。
まるで野性動物のそれのように。
そうした時に現代を流れる耳障りな不協和音や吹き溜まり、不快な汚泥、下水臭を感じることができるだろう。

城壁の石組みに懐かしさを覚えても、マンションのタイル壁には懐かしさを感じない。
森やその木々に溢れるような生命の息吹を感じても、歩道や道路にむりやり埋め込まれた木には生命の息吹どころか同情がつのる。

この国やこの地球は、“ナニカガオカシイ”

この違和感に対して、あらゆる生き方をする人間もできる範囲で各々考え尽くされた対処をしなければならない。
生きることに安心してはならない。
自然に安心や怠惰などというものはないし、そもそも我々の記憶は現世に対して警鐘を鳴らし続けている。
我々の中に在る、四五億年の奇跡の記憶。
きっとそれは私が求めてやまない、遡行の欲求の根源なのであろう。
私は鮭のように生まれたところへ帰りたい。
“郷愁”
だから私はえもいわれぬ怒りを抱え、叫ばずにはおれないのだ。
誰が祖国を焼かれうちが無くなっても平気なものだろう。
まるで現世の景観や世相は、古の人間たちが想定した地獄そのものではあるまいか。
造るも人間。壊すも人間。迷うも人間。決めるも人間。
我々は七つの社会的罪を犯してはいないだろうか。

・理念なき政治
・労働なき富
・良心なき快楽
・人格なき学識
・道徳なき商業
・人間性なき科学
・献身なき信仰


生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し

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