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2014年5月1日木曜日

橋本 仁 × Overland コラボレーション展覧会 コンセプト

"Who"の肖像

人は、大抵の人は、他者を顔で認識しています。
しかし、その顔への認識たるやへのへのもへじのバランスを変えただけでも知り合いや自画像のように見えるものです。
還元すれば極めて少ない点と線まで削ぎ落とすことが可能で、こと単なる顔という認識であれば傍線を2本横に並べたものを目だと言えば、― ― 目に見えるでしょう。

では、我々は他者の顔の何を見ているのでしょうか。
我々は他者の顔に"全体"を知覚しています。それは五感にとどまらず第六感の範囲にまで及びます。相手の"顔色"をうかがうとはよく言ったものです。
まず顔をみた時に、目鼻口などそこに視覚的に写し出される二次元的な要素は全て朧と霞の中に消え、我々はその人全体の雰囲気を捉えています。肝心な眼光や目つきでさえそれは全体を表す暗喩にしかすぎません。
初対面ならばどのような人で何をやってきて何をしている人なのか。友人であれば体調や気分、恋人であれば尚更気にするところは増えていくでしょう。
そこに至りはじめて細かい表面的なパーツに目がいくこととなります。目・鼻・口とはっきりしてくるにつれ、そこにたち現れてくるものは一体何でしょうか。

"Who"の肖像は、"誰か"と鏡像関係を結ぶ肖像です。
誰しも人は他者と鏡像関係を結んでいます。自分という存在は他者に発見されることで初めて自分になるのです。つまり、個の萌芽は他者の認識から始まるということになります。
そこにある他者への様々な感情も観察による思い込みも、自身を映し出す鏡に他なりません。そのめくるめく鏡の複雑に林立する様を、人間は社会と呼んでいるのです。
鏡像関係を認知することは個の萌芽という意味以外でもとても重要なことです。なぜなら、鏡像関係とは人と人にとどまる関係性ではないからです。
例えば、時代は価値観と鏡像関係を結び、地球は宇宙と鏡像関係をむすんでいます。大は小と、全体は部分と、陰は陽といった具合に。
しかし、これらは観念であり実感覚として体感はしづらいものです。
ですから、生きるには様々な意味でも"他者"が必要なのです。
あなたはわたし、わたしはあなた。
そのようにして観てみることで、人によってはいささか世界が真逆に見えることもあるかもしれません。
そんなふうに捉えてみることで、もしかしたら世界はいまより少し平和になるかもしれません。

ARTは社会における立派な機能の一つだと考えます。そしてそれは観る人に"何かしら"を喚起させる装置でもあります。
それがたとえ作者の意図するところでないとしても、むしろそれが他者との交感であり表現の始まりなのです。

皆さんも、どうぞ壁に掛かっている"誰か"を探してみてください。
もしかすると、それは"自分"かもしれません。

橋本 仁



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