私という現象は、国民国家以前その後日本と名付けられたこの島の、気候風土の産物である。
その現象を創出するのは、温暖湿潤の豊かな環境が生み出したこの島の色と香りと時間である。
この島には是か非かということは似合わない。
物事を断定することが苦手で、かつて大江健三郎がいったような、"あいまいな日本としての私"としかいうことができないものだ。
なぜなら、この島の本質は生と死、陰と陽、内と外、彼岸と此岸、それらの「あいだ」にこそ在るからだ。
だから、我々の歴史の中では常に外来の文化習俗を捏ねて編集をしてきたのだ。
それが、私の発生した日本という場なのである。
明治維新後、国民国家となり西洋世界のお仲間に入れてもらった日本は、言わずもがな激動蒙昧な戦争史へと突入することになる。
狂いはじめてブレーキのいかれた日本は、司馬遼太郎をして本来を失った"異胎の国"と言わしめた。
日本の本来は、言い抜けてしまえば唯々海からこんもりと頭を出した地球の表面の一部であるというだけにすぎない。
それだけに、豊かで妖しい森林を背景とした多神多仏で禅めいた香りがひとつ確信を持って感じられるのだ。
分かりにくければ、本来を失わずに漢字を導入し、やがては平仮名を生み出した日本の歴史を思い出してもらいたい。
それが、この島の気候風土が促した選択なのだ。
しかしその本来を失ったまま戦争という事実だけを置き去りにし、いまだ我々は異胎の児としてゴキブリや鼠と共にコンクリートの上を這いまわる。
日本の本来を取り戻すということは、個人の本来を取り戻すということだ。
それは自分の魂と脳と身体に向き合うこと。
身体を使い鼓動に耳をすまし脳を使って想像し、自らがどのようなものであるかを感得するのだ。
気候風土に象られた匣に宿りし多次元存在は如何なるものかということを。
敢えてその場に対極的な相対性を生み出すならば、そこには必ず「あいだ」があり、そこを淡く感じられるのはこの島の湿度ゆえである。
蓄積されたその現象と記憶のただ中に、土塊だった私が在るのだ。
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