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2014年8月12日火曜日

コンセプトスケッチ

万物は表裏一体、そしてその「あいだ」とで構成されている。
生と死。陰と陽。中と外。彼岸と此岸。
すべての相対的関係には「あいだ」が介在し、それぞれに幅と深度と多様性が多次元的に構成されている。

我々は理論上で三次元以上を扱うことはできるが、知覚することはかなわない。
なぜなら、我々が世界と触れることのできるこの身体は三次元で発生し回帰する物質であり、脳もまた同じであるが故に知覚は三次元の域を出ることはない。
俗に言う第六感というものは知覚器官としては脳を使用しているが、それを傍受するのは多次元の名残である意識体であると考える。
意識体とはいわゆる魂として古来から信じられてきた、語弊を恐れずに言えば、霊的なものである。
それらは三次元の周辺の多次元空間で一つの次元を構成していると考えられるが、ある時、匣としての身体に宿るのだ。おそらくそれは、振動するブレーンを行き来する弱い重力のように。
だがしかし、これは場合によってはかなり"危ない話"である。余談だがこの場合、一線を越えるキーワードは"輪廻"である。

さて、私は長らく「Memory Code」と題して身体性と現象と記憶を扱ってきた。
主に素材として鉄を用いてきたが、それは鉄が気体・液体・個体にまたがるもので、その現象性を克明に記述するもので、鉄そのものに宇宙の記憶が潜んでいるからだ。
鉄の内在的記憶と私が付与した外在的記憶は私の身体的記憶と呼応し、私はまさに、「生きている」ということを自覚する。もしくは感得する。
その結果物を私の身体が属する三次元空間に実現させることにより、私は私の歴史を作り始める。
三次元空間での「生きる」とは、かくも重く積み重ねられるものだということを時代や情報の速度や軽さに惑わされ、「生きる」ということを忘れかけた人達へのメッセージを持って、それを作品の社会性としてきた。
大事なことは、自然と人間という一神教的な相対関係ではなく、その「あいだ」の哲学であり感覚であるということを、日本人である私が言える最大限の示唆であり啓蒙であると考えた。
しかし、物体としての私の結果物は固定観念の壁を破ることはできず、ただの無意味な"彫刻"として時に評価され片付けられてきた。
私は唯、そこに自己という存在を表出し第三者はその結果物に自己と他者を投影しうるという普遍的鏡像関係を作り、鑑賞者に内在する"なにか"に語りかけたかっただけなのだ。

私は「記憶の暗号 ― 虚構の被膜 ―」2013年作 から身体性を隠すように、視覚的にきらびやかに、下品に、より表面的な塗装を施すようになった。
重さを隠し汗の香りを隠し時間を潰した。
何故なら、私は努力賞が欲しいのではないのだし、ARTは常に逆説的に捉えられる理想の提示であるからだ。
ARTは情報と同じくして、きっかけであり入口である。目の前の良質なARTには明確な"先"が設定されており、鑑賞者は鑑賞という作者との交感を経てその"先"への道程が拓けるようにプログラムされている。
故に、ARTの真の社会性は見えざるものであり、見える者にはもはや言葉という記号はいらないのだ。
そういった意味で、実はARTはデュシャンが否定したにも関わらず、魔術的で儀式的でオカルトな媒体物であるという一側面を拭えない。

私の大学修了時の作品における社会性は東洋哲学、とくに西田幾太郎の二項同一、陽明学における知行合一に影響を受けている。
是が非かではなく、是も非も受け入れてその「あいだ」で結果を形成してきた、日本という風土の歴史哲学を私は表現したかった。
そのために匣に表面的な装飾をした作品と内側に世界を創った作品を並列し展示をしたのだし、匣の内側には入口を示唆するような異次元的な奥行きと映像的で曼陀羅の様な止まらない現象的色彩を配したのだった。

しかし、私は売れない芸術家。
呪われた詩人。
役に立たない思想家である。

今日も無駄の塊を虚しく世間に吐くだけなのだ。



日本に

ART難民幾千人

増えるだけで声は発せず



革命と歌とはセットである。
やはりARTも歌い謡い唄い詠い吟い謳い唱わねば。

誰かに、届け。

火星の寒空の下、今も誰かが地球を嘆く。


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