実感がなくなる
警鐘がなる
僕のたかだか26年間において、実感覚の喪失が一番顕著な思い出として例をあげ
るとすれば、それは駅の改札が自動改札機に変わったことである。
夢の国ディズニーランドも同様である。
そして今、本がなくなろうとしている。
いかに本が大事であるか。
政治家は由々しき事態とよく口にするが、何が由々しき事態を招くかを分かって
言っているのだろうか。
これでは結果に対しただ「由々しき」をつけただけにすぎない。
「由々しき」は由々しき事態が起こる前に、それが既に由々しきことであるとわ
かっていなければ世の中はたいへんなことになってしまう。
事実たいへんなことになっているし、本がなくなろうとしているこの現状は、既
に由々しき事態だ。
僕は装丁やデザインという目線や印刷・出版業からの目線で語られる本の電子化
についての警告も大事だと思うが、一個人的には本と人との関係において重要な
のは、ページをめくることにあると考える。
触ることで実感が生まれ、目の前の物質を視覚と嗅覚と触覚で認識する。
そこから記憶や時間感覚までもが刺激される。
僕は古本屋さんや本、とくに古い本の匂いが好きだ。
そこに「懐かしい」を感じる。
こういった実感覚が、身体的スピードを越えた物凄い速さでどんどんと失われ、
時代と共に怠惰と速さにとって替わられていく。
速いことがそんなに大事だろうか。
楽を越えて怠惰に足を踏み入れてはいないだろうか。
考える。
耳をすませる。
警鐘が聞こえる。
明治維新から、戦後から、もしくは1987年から、僕には分からないが、どうやら
僕の生まれるずっと昔から鳴りつづけていたようだ。
このままではいけないと。
昔予備校でデッサンをしている時に先生が言っていた。
『行き過ぎろ、行き過ぎて戻れ、行き過ぎて戻るとちょうどよい。そうして人は
適当な感覚を創るのだ』と。
それ以来、作品は『ちょうどよい』がいいと思う。
『どうでもよい』でも『なんでもよい』ではなく、適材適所、適格に、適当に。
時代と作品の関係を感覚的に言えば、まさに『ちょうどよい』なのだ。
世界中の多くの人間達が、社会や世の中が『前に進まなければならない』と思い
込んでいる。
しかし、時間は勝手に更新されていく。
概念や価値観は「見直される」ことがあってもよい。
それに順じて変化できるもっとフレキシブルな集合的価値観の育成は不可能なの
だろうか。
僕は変化を受け入れられないのは、ただ不安感が強いとか怠惰であるだけだと思
っている。
変化はどこにでもある当たり前の現象だ。
砂漠の砂は一日として同じ表情の日はない。
昨日あった山が翌日にはごっそりとなくなっている。
今、人類の歴史の中で何度かあったのかどうかはわからないけれど、またそもそ
もの根本や根底を探るような動きや価値観が総体的に出てきてもよいのではない
かと僕は思う。
僕が製作のテーマに掲げる実感覚とは、受け手の感覚や記憶をいかに反応させる
かにある。
僕は僕の実感覚を作品を媒体にして訴え続ける。
本来的な人間の身体的な様々のサイズを伝えたい。
作品では伝わらないのか。
では、言葉だったら少しは考えてくれるのだろうか。
松岡正剛が日本は小さくなるべきだというように、我々はまず極小な生き物であ
るともう一度認識すべき時がきているのではないか。
高村薫がこれからは仏教だというように、我々の存在は小さくもあり大きくもあ
るという価値観を知るべきではないのだろうか。
僕はこれからも人間の本質を考える。
もっと分かりやすく、鮮明に。
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2011年4月7日木曜日
警鐘が聞こえる
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