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2014年6月6日金曜日

反、反捕鯨

楽天が鯨肉の販売を「禁止商材」に指定した。
海外にもマーケットを持っていて、更に拡大を目指すためには企業としてやむを得ない選択であったことはまず前提として頷ける。
しかし、メディアの伝え方は的を得ていない。
これではただ、まるで鯨肉が悪いかのような印象を与えるかもしくは浅薄なシーシェパードや反捕鯨団体批判しか生み出さない。
無論、シェパードや反捕鯨団体は暇すぎて自身の攻撃性をどこに向けてよいやら分からない精神病者と金銭目当ての弱いものいじめを生業とする暗い陰惨な連中ではある。
しかし、原発問題しかり物事を是か非かで二極化し論じ歴史的に失敗をし続けている日本である。
そこに情報の速度が加わりただでさえ島国から外を見据えた思考が不得意な日本はもはや白痴の判断力に落ち込んでいる。
だから、ここにおいてこそメディアの姿勢というものは極めて重要なのである。

どう扱ってよいか分からないから取材もしないなどジャーナリストも半チク以下だ。
地産地消している食材の在り方をただありのまま伝えれば、あとの判断は自ずとされる。
いくら学問から精神規範と行動規範が喪失し判断力が低下しているとはいえ、我々はまだ思考能力を失ってはいない。
現代の私達にまず必要なのは情報に対して足を動かすこと。
指先でチャラチャラと情報をこねくりまわすのではなく、できうる限りきちんと裏をとること。
実は情報とは個人にとって真実ではなくただのきっかけにすぎないのだ。
実感覚を伴わない情報に意味は発生しない。
捕鯨に関していえば、まず見に行くこと。そして食べること。
もしくは、それ以前にまず自身の周辺を拡大し興味を持つこと。
いずれは宇宙の感得にまで至る。

完全なプロパガンダ映画を見てただの狩りと食事を非人道的などと言うスーパーナンセンスな発言は夢遊高次元の人間様のとるに足らない妄言である。
大義名分をこしらえて食べもしない殺戮を同種でしまくっている非生産性に、一神教的合理主義は気づいていないのか。
もしくは正面から見据えられない自らの弱さを、より弱者に怒りや批判としてぶつけることで逃げているのか。

脳内に無意識に入り込み現代の人間性を構築してしまう洪水のような情報をコントロールしなければならない。
そういった意味で捕鯨にまつわる文化的視点や企業や国の判断、反捕鯨団体の表裏は我々日本人にとって情報を実感覚を伴って思考し、島外の意識を捉えるためのよい実践題材的現代社会の問題の一つである。

そして、鯨肉は美味い。
美味くなければいくら栄養価が高かろうが保存がきこうが文化にはならないのだ。私には対外的に示す文化的正統性など、どうでも良い。
ニタリ鯨、イワシ鯨、ツチ鯨、ミンク鯨の差が分かるほどに私は鯨を食べた。
ちなみに私が知っている美味い鯨肉が食べられる店は、湯島の「海鮮居酒屋 一心」と神田の「くじらのお宿 一乃谷」だ。
鯨肉を食べようと思った動機はシーシェパード及び反捕鯨団体のあまりに押し付けがましく失礼極まりない振る舞いと、資金力を背景としたプロパガンダに政治経済的な意図を感じ怒りを覚えたからだ。
「何処かに鯨の肉を食べている人がいて、なんか外国人が批判している。鯨は昔給食に出てたんだって」
では、私の意識は赦せないのだ。
そこで赦してしまっては思考性は育たない。
自身の思考性を育てるのは自分自身である。
何故なら我々は本質的に自由だから。
自由とは自らを負うことだ。

そして最後に、これら諸問題はArtistとして社会存在(末端とはいえ社会を構成する一部)としての"私"に踏襲される。
何故なら、ARTとは自由に担保された時代の鏡像、未来の示唆であるから。

幾度かひいているが、やはり今でもセザンヌの言葉は光彩をはなつ。

「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」

時代と芸術が切り離せないものである以上、時代を構成する意識や速度や情報といったものとも切り離せないのが、芸術およびARTというものである。
故に、捕鯨問題しかり原発しかり集団的自衛権しかり日中、日韓、日米関係しかり情報統制しかり、環境、食料問題しかり、私は常にARTの視点でもって思考し答えられねばならないのだ。

社会存在としてのArtistは違うが、ARTは普遍で自由だ。

そこがいい。


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