人知れず、人と文化が交わる場所― 美容室 Overlandでの個展は今月23日(月)まで延長させて頂いている。
そして本日、林檎のデッサンパフォーマンスの最終日を迎えた。
たいした感慨などないのだが、ただ経験としていくつかの重大な経験をさせて頂いた。
捕捉として、たいした感慨がないというのは決してネガティブな意味ではなく、ただやるべきことをやっているという自負に他ならない。
一つ、デッサンには終わりは無いのだということ。
絵画でも彫刻でも同様であるが、デッサンの根源性は宇宙の根源性に似てまるで一粒の砂粒が存在するには一つの宇宙が必要であることに基づいて、宇宙を再構成しているようである。
一つの林檎にはまさに一つの宇宙が内包されている。
林檎のデッサンも、1億枚あればARTになるだろう。
いつかトライしたい。
聖書によれば、善悪を知る林檎を食べてアダムとイヴは地上に堕とされたらしい。
地上の楽園のうえに造り上げたふしだらな世界のケツを拭くのは今一度、善悪とはなんであるかを見つめ直さねばなるまい。
そいうことを"智性"という。
お受験勉強は知識であって智性ではない。
智性とは個人の精神規範と行動規範にまで及ぶものだ。
知識過多の人間は、無意味に哀しい。
デッサンというのは、対象と自分に没入するなんとも丹念で愛しい行為である。
そういった意味で、描くという行為は祈りであって懺悔に等しくもある。
そして俗に言う、「林檎が描ければなんでも描ける」は本当かもしれない。
林檎ひとつの中にデッサンとしての全てが在ると思われた。
生きた自然物であり球体であり食べ物でもあり色が鮮やかだ。ヘタに木の幹と大地を感じる。
基本を学ぶうえでも最適なモチーフだと考える。
次に、電車賃を払い常に赤字を出しながら無意味な労働としてのデッサンをただただ一生懸命にやることで、ようやく私は久々にMemory Codeの感覚に入り込んだ。
無意味で激烈な労働性。これぞARTだと思わずにはいられない。
生産性と非生産性のあいだに在り、万物換金主義と時間の有用性に真っ向から対抗しうる現代アート、プロレタリアの芸術的革命である!
現に私は肉体労働で糧を得ている。
徹頭徹尾、私は身体性に埋没できているのだ。
幸せである。
身体で稼いで身にもならないことに必死で金を使う。
これぞ、ART。
ARTはひっそりと激烈に日陰で花を咲かせるのだ。
どうか僕を幸福にしようとしないでください。
それは僕にまかして下さい。
アンドレ・レニエ「半ばの真実」
ただ官僚と役所の阿呆を食わせるために小中高大就職結婚出産出世という生き方を"幸福"だと押し付け洗脳し、そこからはずれた生き方を選択する人間にはすこぶる生きにくい日本社会である。
私はこじきのようで構わない。
良寛のように、西行のように、明恵上人のように在りたいのだ。
幸福がそんなにみじめなものなら、幸福から私を救ってください。
ジャン・ジロドウ「間奏曲」
かつてROCKが、PUNKが生き方そのものであったように、ARTも本来は生き方そのものなのである。
個の判断基準が何かしらの結果として作品化されたもの。それがARTの源泉たる表現である。
それが社会的になんらかのポジティブな作用を持つものとなり、ARTとなる。
ARTはその根本において反逆ではあるが、反戦争、反差別、反自然・固有の文化習俗の破壊なのである。
それは、ARTの源が生命に基づく人間の源に起因するからだ。
生命に基づく人間の源は、細胞膜の内と外という彼岸と此岸の境界線以外では、地上の悲惨でくだらなくて腹立たしい人から人への被害の全てを包括する。
まるで観音菩薩のように。
言葉上、説明をするために現実の社会問題に言及せざるをえないが、本来、私が信じるのは宗教以前の神、国民国家以前の風土である。
ただし、ART以前のARTはない。
芸術も然り。
なぜなら、それらはすべて祈りや呪力の象徴であり手段であったから。
この世界に機能や意味のないものなど何もない。それ以前の原宇宙的なものは、"この世"のものではない。
ただ、我々が愚かすぎてその機能の正しい扱い方を知らないだけなのだ。
むしろ機能はただただ待っている。
いつか人間が自己の過ちに気づき、正しく世界を起動させるのを。
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