思うところあり、今後、政治・思想的発言を控えようかと思っている。
結局のところ、自身の保有する時間と生命を維持するための糧を得るために一番合理的なことは、用意された規則の中で適度に欲望を持ち用意された選択肢の中でその欲望を満たし、生の儚さに保険をかけ万が一の時にそれまでの所得の積み立てでサービスを受けられるようにするということが生命維持と種の保存において最も有効であるという見解を持ち得た。
血沸き肉踊るようなドキドキやパッション、まさに生きている!という躍動が大好きである私は唯々現行の社会とは相反するというだけのことであり、洗脳を受けない代わりに厳しい自由を手に入れたとしても何ら他者との関係においてその差し引きの構図上では同一的な結果であると考えた。
よって、これまで作品制作活動で行ってきた身体性による現象の蓄積は個々が個々で保有するものの差異を感得し、より善き集団的理念を持ちうるのだという思想もしくは理想のためにあるのではなく、三次元の束縛を肯定的に捉え多次元空間におけるエネルギー体としての存在を彼岸として、此岸においての観念的な在り方をある意味、諦観し生ききるまたは認識しきることが三次元における個のできうることの最大値を示すという方向で考えていきたいと思っている。
つまり、我々の身体は匣でありそこに生命エネルギーが張り巡らされ脳は三次元の束縛においての感覚・思考器官であるから、肉体の死は生命エネルギーを多次元に解放するための存在の多次元化である。
むしろそこにこそ本当の在り方があり、我々はいたずらに匣に閉じ込められた哀しい存在である。
まさに祈りはそこから生まれ、この世界の危うさ、人間の不安はすべてこの中途半端な低次元下でしか生きられない我々のあまりに不確かで限りある生へのおののきであると、天気の良い日曜日の昼間に思ったのだった。
三次元の鍵を握るのはまさに重力下に敷かれるこの身体とその世界をのみ感知し合理的に演算する我々の脳である。
多次元空間を観念的に理解できないから、我々は現行の社会システムに抗えないのだ。
誰が悪いのではない。
この三次元の中でしか生きられない我々の限界が皆もどかしいのだ。
この身体が生み出した現象を脳が感知し、進むべき方向を定められた時間によって蓄積されていく。
これが、窮屈さを逆手にとり流れに身を任すことで生を生ききるための、私の考える「人間の行う三次元の純化」である。
おそらくこの三次元下における生き方次第が次の生命エネルギーの解放時における在り方にかなり影響をしてくると私は考える。
脳と身体を飛び越える。
そんな考えに夢中になっている今日この頃。
晴れた夏空がそうさせるのか。
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