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2014年3月20日木曜日

渋谷の松涛美術館で開催されている「HI-RED-CENTER 直接行動の軌跡 展」を見てきた。
まず、この時代が羨ましく愛すべき日本がまだここにはあった気がする。
時代の香気をふんだんに含んだ展覧会だった。そして今も確実に在るARTの本質もここにはある気がする。
やはり、人は人に感動するのだ。ものであれ何であれ、そこに"人間"を感じるから人は感動をするのだ。ARTは神のものではない。人間のものだ。明恵上人が仏教だの経典だのではなく釈迦という美しい一人の人間を信じたように、ARTには、"美"には本来そういった求心力が備わっているはずである。
HRCの直接行動の中に形象としての美はないが、デュシャン以降の観念の芸術、鑑賞者に"なにか"を喚起させることが意義である芸術を踏襲した社会的芸術活動として、非常に価値があり意義深いものであると私は思う。これらの直接行動を担保するのはひとえに覚悟のみである。その覚悟が、武士道の人間美とつながるように思えるのは言いすぎだろうか。いわば武士道の人間美におけるパロディー、観念のPOP化だと私には思えたのだ。
中でも秀逸なのはやはり赤瀬川原平の千円札だろう。何より馬鹿みたいに裁判までして世間の注目をARTに集めたこととして、勝ったのは間違いなく赤瀬川原平だ。ただひとつ残念なことは裁判に負けたということだけ。この阿呆くさい勝手な威信をかけた鼻息の荒く田舎臭い警察や官僚の直接行動は、そもそも日本が世界から見てなんとなくダサい理由の一つだろう。猿山の大将が大好きなのだ。まず笑いがないというところにおいて、大人としてのたしなみができていない。
日本は笑いと祭りの国である。その根本を直接行動として持ち出す能力に最も長けた人、それが赤瀬川原平であると私は思う。
国民国家以前の日本の気候風土、そこから生まれる民族文化の香り、これらを正しく踏襲するからそれは初めて日本の現代ARTといえるのであり、欧米のアートマーケットで扱われるからといって現代ARTになるわけではない。
日本の最後の現代ARTはモノ派で終わっている。村上隆は間違いなくある種の天才であるがそれはひとつ時代の悪役(ヒール)としてであり、悪役には対する正義が必要だ。
しかし人心は流れやすく若者は自分で考える能力を殆ど失っている。モノ派の時代には皆がモノ派ちっくなものをやっていたし、ダダでもシュルレアリスムでもレディ・メイドでもPOPでもインスタレーションでもなんでもだ。
悪役は正義を渇望する。自身を殺してほしいと願いながら殺人を犯すサイコ野郎のように。しかし、それは自身の存在を担保するのが鏡像関係を結ぶ正反対の他者であるということを感覚的に理解しているからだ。それは自己複製機能を持ったDNAの相補性に起因するものであり、森林多神教の我々はじっくりと座しそこから多くの関係文化たるものを築き上げてきた。その一つが能であり、シテとワキの関係の中に幽玄へ誘うのが能である。茶道もまた極めて関係的で、人対人だけではなくそれはひとえに日本人が何が得意であるかを示している。それは"間"といわれる360°の空間感覚である。それは彫刻的な空間感覚とは別物で、たゆたう風のような目線から捉える体感的なものである。まるで空気の流れを感じるようなこの感覚は、湿度の高い気候風土によるものではないかと私は思う。

さて、脱線に脱線を重ねた話を戻せば、ある才覚を持ち社会への問題意識の高い若者たちが芸術運動を行った。批判もすれば面白がる人もいた。邪魔しようとすれば擁護する人もいた。ここで確認できるのは、今の若者の良い子ちゃんすぎる体たらくと官僚、行政など国主体のものはいつの時代でもろくでもないということだ。この国では文化芸術は育たない。価値観も育たない。だから、せいぜい文化を担わんとする前衛がしゃにむに戦って時代や価値観を形成さていかなければ我々の故郷は本当にいつか個を失い国旗と共に言語と文化と領土を収奪されてしまうに違いない。危機感のあおりは選民政治と国軍を生み情報統制と洗脳がはじまる。

芸術は、こんな時に生まれる。その胎動を感じるからこそどのような悪態も邪魔も蔑みも無理解も耐えられるのだ。
全てに反対してやろう。時代に反発してやろう。

私にとっては文化的な戦いこそが、人生だ。


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