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2014年7月14日月曜日

Statementの元のもの。

ただ、世界をより善くしたいと思うのは私が世間知らずの若僧だからなのだろうか。
学生の頃から自身で制作した作品を手に単身で企業の方々を相手に営業じみたことをやってきているけれど、私は「人生とは思い通りにいかないものだ」とか言う気にはなれない。
何故なら努力と本気は必ず報われるものだと信じているからだ。
身を切る努力と勝負をしたことがない人間だけが、自身の慰めとしてしたこともない努力と勝負の結果を宣う。
おそらくただの妄想とプライド故に。
勝者や勝ち組などくだらないことだと言ってはいるけれど、実際に優秀で人の上に立っている人達はそんなことを言う人はいなかった。
いまだ力及ばずお金を動かす力は持ち得ないけれど、心温かい応援は確実にお金よりも価値あるものとしていつも自身を励まし、原動力となってくれる。
誰かが自分に期待をしてくれているならば、それだけで生きている価値がある。こんなとこで死ぬわけにはいかんのだ。

以前、オリンピック誘致のため福島の原発に対しアンダーコントロールとか夢にもならないことを言った首相がいた。
阿呆も阿呆だがコントロールしなければならないのは、数字に象られた蒙昧な社会ではなく自分自身であるということだ。この場合、数値上でも完全にコントロールを失っているところは失笑に値する。

人間は、いや、生物は、世界は常にせめぎ合いの動性そのものとして存在する。
つまりこの宇宙においての現在とは、動的平衡の現在状態をあらわす。

幸福の観念とは盲信である。
すべての観念的な要求は資本主義社会を保つための洗脳にすぎない。
ただ揺るぎなくあるものは、たゆたう存在の不確かさ、ただの動性そのもの、実は固有名詞など世界には存在しないということである。
社会という虚蒙から逃れることが、少なくとも私には"幸福"に感じられる。
とはいえ、社会活動が苦痛だというわけではない。
小中高大就職結婚出産出世の婉曲した意味を付与された「人生」という空語を押し付けられるこの国の"正しさ"の在り方が、私は唯々気に入らない。

人間という生物がもし本当に「高等」なのだとすれば、倫理・道徳を基軸とした今よりむしろ熾烈な競争原理というものの実現が可能なはずである。
言葉で言うのは簡単だ。「他者をいたわりサボらない」―
組織を統括する者が搾取をするのでなく、今よりほんの少し身をやつせばよいだけだ。
プライドとステータスにまみれた努力知らずのボンボンがのさばるから日本は組織力で世界に太刀打ちできない。
それは明治維新このかた日本が抜け出せないジレンマだ。
無論、そもそも小さな島国らしくしていればそれでもよかったかもしれないが、国民国家として世界に打って出たいと野心を燃やし、国民を担保にできもしない賭けをおこなう無能な輩は今も昔も変わりはしない。
馬鹿は死ななきゃ治らない。もしそれが本当ならば、この国は滅亡以外に道が無くなる。

闘争は生物を構成する一部である。喜怒哀楽の怒をぬかすことはできないのだ。
かといって、平和は幻の理想主義では決してない。
しかし平和とは暴力を手放すことではなく、戦争や犯罪の代わりとなる何らかの暴力を用意することだ。
なぜなら本質的な怠慢や飽きが暴力と戦争を生むのだから。
戦争で利潤をあげるだって?財政的危機感より先に停滞した数字の動きを見ていることに、ただ飽きただけだろう。
そういった意味で、資本主義は十分に暴力的であるから一見してこの理論上では他者を蹴落として儲ければ儲けるほどストレスは無くなりハッピーになるはずだ。そうすれば余裕が生まれ、気まぐれだとしても他者へ優しくしたくなるはずである。
しかし、資本主義の精神的な弱みは神経を磨り減らす暴力の勝負に身体の痛みが、身体性が抜けているために資本的勝敗は実感覚を伴わないということだ。
脳の経験値としては極めて希薄な事象で、記憶と連想による想像・創造力はある一部分しか機能しない。
つまり、そこで結果的に示される暫定的な答え、未来というものは、人間という一生物存在が導き出した答えとしては極めて不完全なものである。
そこには単一な演算と結果の鬼畜的なスピードを伴った連続しかなく、せいぜいそこに感情の波形が見てとれるほどのことでしかない。
3次元に生きながらにして2次元でしか生きていないのだ。
飛んできたボールを掴むことはできても、それは人として生きているとは言い難い。

先日、3次元の近くにあるはずの意識や意思の次元の話をした。その時、それは図で表すとすれば何軸かという話になった。
誰かがいう。それはL軸じゃないのかと。
LOVEのLだそうだ。
なんだか拍子抜けしたような気持ちと妙に腑に落ちた感があった。
かつてJESUSとJAPAN、2つの「J」で悩んだ内村鑑三を思い出したから。
案外、祈りを真面目に考えるということは愛とかくだらない盲信だと断じているものも拾わなければならないのかもしれない。何故なら例えば生物の母性は理屈では解ききれない"なにか"があると感じるのは事実なのだから。
そして内村鑑三は言っていた。武士道に足りないのはキリスト教でいう「愛」の概念だと。
儒教だとそれは「仁」に踏襲されているが、やはり武士道には儒教のほかに道教つまりタオイズム的な精神があり、禅という個人的な精神の錬磨が基軸となっているからそこは必ずしも不犯ではないにしろ、不犯的が故に異性や隣人といった生活臭のする愛の概念が芽吹かないのだろう。
日本人男性はたいがい夢見がちで思い込みが強い。
それ故に武士道さえ超越したような歴史に名だたる剣豪が幾多も生まれたのだろう。
彼らは皆一様に、見えないものが見えていた。
伊庭八郎だったか、彼は誰かが自宅へ向かってくるのが分かったという。
チベットの高僧では今でもそのような僧侶がいるらしい。

社会と縁を切らず、目に見えないものを見ようとし、人として大事なことを裏切らない、そんなささやかな夢を一人の若者が見ることを、世界は赦してくれるだろうか。


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