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2011年6月6日月曜日

次への提言

現在、我々が対峙する日本を誰もがとても楽観的には捉えられない状況であることは明らかなことである。
無論、現在的要因として東北での大震災は核心的な事象ではあるが、根本的には戦後から始まりバブル以降、失われた30年といわれるあたりの社会に本質的な病巣があるのだと思われる。

そもそも、社会とは時代に包括されるものだ。
時代とは価値観のことである。
価値観は世界に依存する。
ある視点においては世界は社会と同義として捉えられる。
つまり、我々の生活する世界・社会は個々の価値観のめくるめく相互関係のうえで成り立っているのだ。

端的かつ平均的な見方をすれば、現在における価値観とは貨幣のことだ。
貨幣、お金とは物々交換の軋轢により生じたあくまでも価値の媒体物である。
しかし、それがいつしか価値そのものとなり、記号化され鬼畜的な速度を伴っていったところに問題意識を生じる。
もうひとつの大きな価値観の問題は時間にある。
現在の我々の世界は、身体的時間というものをはるかに逸脱した資本主義的時計概念に取り憑かれた世界である。
ある視点からみれば、これは異常かつ由々しき事態とも捉えられる。
個人的価値観の相互関係による集合的価値観が社会であるならば、社会とは根本的に人間的なものであり、それを逸脱した場合、概念と欲と思惑の独り歩きになるからだ。
事実、根本である「人間としての身体時間」を忘れ我々は混迷の時代へと突入した。

折しもリーマンショック以降の世界恐慌から相次ぐ国の財政破綻、失業、デモ、内紛そして中国の台頭や政治家への不信感などによる末期的・仏教でいえば末法的不安感の絶頂の中で日本では東日本大震災が起き、とくに東北においてはあまりに甚大な被害を受けた。
もしこれを啓示的に受けとるのであれば、受けとれないことはない。
資本主義経済による金本位的価値観の中で現代の人間は明らかに方向を見失っている。
いや、考えられないのだ。
考える時間が持てないうえにテクノロジーの引き換えとして実感覚をなくしていき、教育の方向・方法さえも瓦解している。
皆、何か間違っているような気がしていながら考えられず見つけられず止まることもできない中で必死でもがき苦しんでいる。
そんな中、ARTはといえば商品性を増していき投機的理由から鬼畜的な資本主義速度に次々と呑まれていった。
それは商品としての速度だけではなく、芸術の価値観さえも揺るがした。
あろうことか提言をするはずの表現の世界においても資本主義の速度には対抗の術を持たなかった。

そして我々は速度と引き換えに歴史を失った。
連面と紡ぐように受け継がれてきた概念・精神・思想的世界の過去は、もはや紡ぐ時間を失い現在の独り歩きになる。
それは、未来や新しいものがあたかも無から発生するかのように感じられる世界観を生み出した。
我々は情報により突然あらたなテクノロジーや政治家による国家の提言を知る。
そこには連面と受け継がれてきた過去がない。
生活的浸透性の速さは必ずしも精神的な浸透性と比例するものではない。
目に見える事象的にそれらが組み込まれたのだとしても、ただ違和感が増えただけともいえる。

そもそも無から有へは発生ではなく変転である。
間違っているのならば立ち止まり考えなければならない。
提言は批判的視点からしか生まれない。

東日本大震災で顕著になった原発の危険性や矛盾、政治家や責任を持つべき人間達の怠慢、他人同士による相互扶助の優しさと大切さ、命、死生観。
それらを踏まえ、原点回帰が謳われるのは必定だ。
もともと「間違っているような」感覚の中で生きてきた人間達にとって東日本大震災による地表の瓦解は表面的価値観の瓦解をも示唆している。
あまりに偶然に我々は考える猶予を与えられている。
日本の在り方と世界の在り方との不可思議な関連性を意識せざるを得ない。
なぜなら我々は世界でもただ一つ、なかば隔絶された文化史を持ち、その中には極致的な人間美としての武士道がある。開国当初、世界は日本を絶賛し、憧れ、模倣した。
しかし、日本もまた西洋に焦がれ自ら進んで呑まれていった。
また、我々の国は唯一原爆を落とされた国であり、今またチェルノブイリ並の放射能被害を抱えている。
鬼畜的な世界の在り方は日本の在り方でもあった。
原発を推進する先進国においての放射能被害は他の推進国の末路を示唆している。

日本は世界を体現している。

東北の再生から、我々はまた過去を取り戻そうとしている。
再生は過去と現在を繋げる裁縫的作業だ。
それは、現在の我々が忘れかけ欠けていた、より善き未来へ向けての必要不可欠な作業である。

日本は今、偶然にも「止まっている」のだ。
止まっているということは、考えられるということだ。
我々はまた日本が回復し、走り出す前に十分に気力を整え万全な備えをしなければならない。
日本藝術は、じきに走り出す日本に先駆けて新たな「在り方」を提示しなければならないと考える。

今、日本は皮肉にも世界の歪みとして色々な方面で注目されるホットスポットになっている。
世界は日本の提言を待っている。
新たな啓示を日本に求めているのだ。

我々はただの原点回帰ではなく、「あるべき未来への原点回帰」をしなければならない。
原点を探り個を得、多様性を掲げた時ようやく本来的な意味でのグローバリズムに辿り着けるのではないだろうか。
グローバリズムは全ての事象を単一的に染め上げることではなく、多様性が個に浸透することであると考えるからだ。

藝術においては、今の懐古趣味的な和様では未来は語れず社会的提言には成りえない。
藝術で提言をするには、藝術が鑑賞者を提言に導く装置でなければならない。
原点回帰の視点で見れば、かつての藝術は装置としての機能を十分に持っていた。
藝術が在る場所には必然性があった。
私は「あるべき未来への原点回帰」をコンセプトとして挙げる以上、作品を「歴史的現在年としての日本」へと導く装置としたい。
それは、奈良の浄瑠璃寺や京都の平等院鳳凰堂にみられるような、極楽浄土への誘導装置の見立てである。
世界は個人的時間の蓄積による、記憶の世界に始まり身体的自然選択による結果へと帰結し、土へと還る。
土は本質の象徴である。
それは個人的記憶をも取り込み、「歴史的現在年としての日本」そのものを体現している。

在るべき世界を探すため、真実を、本質を探す旅を続けたい。

より善き未来を生きるため。

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