男の胃袋を掴むのが女の料理だとすれば、多くの労働者、サラリーマンの心を掴むのは、"金"だ。
彼らはあらゆる理由で万物換金主義を肯定する。
彼らにとって100年後の日本も地球も知ったこっちゃない。それは息子娘や孫の話であって自分の世代にはなんら関係がない。
こういったところ、現代の日本の官僚主義と酷似している。
究極的に自分本位な事なかれ主義だ。彼らはおおよそ30代くらいからは脳が硬化し始め40代には"完成"する。
しかし、芸術はその労働者、すなわち多くの死んだ目をして電車に揺られちんけなストレスを発散し無事に無難に一日をやり過ごすことだけに腐心するくだらない日常を送る人間のために在る。もしくはその側に在る。本人にはくだらなくないのかもしれないが。
私が求めるのは一貫して現代における宮沢賢治の言うところの「芸術の労働者における必然性」だ。
そしておそらく、これは正しい。何故なら民主主義は本来字義通り国民による国家、つまり国民国家であり、国民国家を形作るのは官僚の傲慢ではなく民衆の意識だからだ。
Artとは表現である。表現は自由に担保されており、自由は意識の産物である。
そして、Artは意識形成に対し大いに関与し社会の形成粒子の中核に関わる重要な機能である。
社会によって人間の意志や尊厳が圧迫されるのであれば、それは社会の在り方が間違った方向を向いているのであり、その舵役として諸芸術が存在する。芸術は常にその時代との鏡像関係を結び個人から導き出された"正しさ"を標榜する。
その正しさこそが芸術が芸術たる指標である。それこそが崇高さを育み芸術を芸術たらしめる重要なエッセンスである。
逆に、理解の得やすさは必ずしも芸術としての質が高いとは言い切ることができない。
何故なら、芸術はその時代との鏡像関係を結ぶため、渦中の人間、すなわち鏡の中の住人にはすこぶる認識しづらいものであるからだ。
鏡の中の住人は、苦労して鏡から出たところで如何なる醜悪なものがそこに映っていたとしても、そこを自身のバックボーンとして受け入れなければならない。
我々はそもそもそこから生まれ落ちた、あまりに小さい生命粒であるのだから。
だからこそ、我々は我々の身体を使い意識を創ることが可能であるし、人間が人間で在るための重要な確認行為としてArtという表現活動がある。
日本においてその必然性はまだまったく認知されていないが、私は最近心に誓うことがある。それは、私こそがその伝道師たるということだ。
もう誰にも期待しない。無論、自身の先輩、政治、行政、法律。そしてあらゆる人間の戦後の欺瞞を、私は決して許さない。
私はまだ明確化できていない何らかの使命を持つ。
それを全うするまでは絶対に死ねない。
たとえそれが、世界で一番の凶悪な都市であったとしても。
0 件のコメント:
コメントを投稿