芸術家とは破綻していなければならない。
なぜなら、社会との"相対性"を保つため。
大学までは"好きなコト"をして、卒業して就職し帳尻を合わせる。
あとはいかに過剰にならずに平穏無事に時を潰していけるかが問題だ。
暇は脳を鈍らせ判断を誤らせるから、異性が必要だ。
性質の違いがもたらす適度ないさかいは日常の重要なスパイスである。
それでもお互い相手の操縦の仕方が分かってくると関係が膿んでくる。
となれば、次はイベントだ。
これは一度しか使えない最後の切り札だ。
なぜならその選択如何で死ぬまでの時間のおおよその雰囲気が決まってしまう。
それはつまり、死に際に最もシビアにのし掛かってくる問題であるということだ。
ちなみに二回目からは只の儀礼である。
さて結婚というイベントも効力はほんの幾日だ。
これから10年20年と生きなければならないので、うまく時間が潰すことができる暇潰しが必要だ。
無論、子供である。
最も効果的な用い方は、ある程度5年以上の間隔をあけてできれば男女互い違いにすることだ。
どちらが先などどうでもいい。
何故なら人生とはただの暇潰しのことなのだから。
遅かれ早かれそんな人間だけが地球上を跋扈していたら我々はすぐさま化石となってしまうだろう。
何億年後かの知的生命体に発見されるまで我々は土の中で眠り続けなければならない。
一番避けたい暇の極致に自ら埋もれていくわけだ。
しかし、我々は奇跡的にこの世界で滅びずに種を増やしながら生きてきた。
何故か。
それは多様性に起因する。
それは誰かがその扁平な人生に相対して不安定で動的な多様性を負っているからに他ならない。
だから、ゴッホは耳を切らねばならなかったのだし、岡本太郎は結婚するわけにはいかなかった。
ピカソは90を過ぎてもセクシーだったし、マティスも死ぬまで絵を描いた。
画狂人北斎は言葉通りの変人であったろうし、一休も利休も十分に婆沙羅で傾きであったのだ。
そんな彼らの藝術は、癒しどころか人々の心を粟立たせた。
ソワソワさせた。
そこには、あまりに不均衡で不可解な事実しか横たわっていないからだ。
彼らは忠実に5W1Hを思う。
しかし、彼らは不快な衝撃を受けながらも実はそうまんざらでもないのだ。
そう、暇潰しが増えたから。
命を懸けるにたる多様性に、その動性についていくためには命を削るような行動が伴ってくるものだ。
時に自身を傷付け、自殺未遂などしてみながら。
そんな一つ一つが彼らには突拍子のないものに映るのだろう。
それが何かしら嬉しいのだろう。
だから、不良や死に憧れる。
当の逸脱者逹は只々内的なバランスを保とうと必死なだけなのに。
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