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2013年5月17日金曜日

20130408

2013年4月8日(月)、私は犬を庭に埋めた。
その日の前夜、母のフルートの発表会後のささやかな打ち上げから帰ってきたとき、私の犬は既に身体を固く強ばらせ横たわっていた。
身体はまだ温かさがのこっていたが、尻尾の方には小便と糞が置き土産のように置かれていた。
目は開かれていたが、そこにはもう光はなかった。
15年と8ヶ月。
卒業式の常套句である“長いようで短かった”が、これほどに胸に迫ってきたことは一度もない。
本当に、長いようで短かったのだ。
人間で言えば105歳ほどだそうだ。
大往生である。
葬儀は当初、ペット葬儀屋に火葬を頼むつもりだった。
しかし、あまりに安っぽくチンピラ臭いペット葬儀屋のシステムと火葬、成仏といった図式が動物には似つかわしくないように思われた。
私達は話し合い、土へ還すことそれもうちの庭に埋めてそこに花を植えることを決定した。
なぜなら、うちの犬はうちとその周辺の散歩道と病院が世界であった。ならば、その世界の中で地球へ還っていくのが我々が考えるせめてもの“幸せ”であった。
翌日、私は一時外出しその間に母と姉が段ボールで柩をこしらえ花を添えた。
私の役目は帰ってからの穴堀だ。
柩の大きさは縦670×横850×高さ300(mm)。私は大体の検討をつけると、思い切りスコップを土に突き刺した。スコップは案外にスムーズに差し込まれ、地表にいる芝生達の世界を無慈悲に破壊した。
掘ること1時間ほど。
私の膝ほどの深さのある、中々に見応えのある穴が出来上がった。
しかし、弛みきったサボり気味の私の身体には中々に堪える仕事量だった。
だが、何より驚きどことなく喜ばしいことは、今埋められようとしているその屍の質量を実感できたことである。
私はその生きていた屍の、魂の入れ物としての身体の、我々の3次元世界においての指標たるものを、まさに身体で感じ取ったのだ。
万物における“生きている”という事実の一端が、私の中に溶け込んだ。そのように記述できるであろうことを“体感”したのだ。

確かに火葬は楽である。まして業者に頼むのならなおのこと、しかしそこに「生の質量」たるものの実感はない。
死んだことの実感ではなく、一個の生命が生きるということの量を感得する。
それが言わば、死の持つ意味の一つであることを、私は命を通し教わった。

やすらかに、そしてありがとう。

おやすみなさい。

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