人間を人間たらしめるものは"智"である。
それを傍受するための資質を知性という。
よって、知性には資質的な向き不向きがある。
知性がないからといって、それは集団生活においては確かに少々野蛮じみたものであるには違いないが、しかし、原始的な運動能力に秀でそれはスポーツというかたちで社会に貢献されるかもしくは運動的能力が必要な仕事に従事したりすることなどで、十分に我々人類の集団的秩序・調和に貢献しているなくてはならない存在だ。
それでなくとも類い稀な純粋さを胸に秘め人を感嘆させることもあるだろう。
つまり、私は良し悪しの話をしたいわけではないのだ。
智において特に我々人間生物として秀でたものを"叡智"という。
例えばそれは、アマゾン奥地の少数民族が持っている山や川の知識、ミクロネシアの人々が持つ海や航海の知識、はたまた科学や料理、この世のあらゆるところに叡智たるものは存在する。
しかし、どのような智にしろ"何"を選択するのかということが重要だ。
これまでの先人たちの創意工夫によって、現代の我々の身の回りにはあまねく智が無造作に転がっている。
文明的教育とは、その選択力を養うことにある。そこに向き不向きはない。
皆それぞれにできることとできないことがある。その自分の資質を知るために、できる限り多彩な経験というものが必要なのである。
その多彩な経験を示唆することと、経験を得るためのあくまで補助的な推進力をほんの少しだけ協力することが、文明的学校教育の意義である。
つまり、教育とは社会および資本主義秩序を保持するための体のいい労働力を作り上げるための洗脳ではないのだ。
知識とは、我々人類が根元的に"生きる"ために生み出されたものだ。決して小中高大学校に入り就職をするためのものでは断じてない。
より自分らしい人間的な生を全うするために知識を選択し、学び、編集し、ただの知を智にまで高めしむること。
それがこれからの、少なくとも我々日本人が持つべき教育の在り方というものであると私は思う。
願わくは、我々日本人の一人一人が人類の叡智を持って平和の一助たることを。
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