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2012年6月2日土曜日

池澤 夏樹著 「春を恨んだりはしない」を読んで

以前、仙台へボランティアへ行った人の言葉を聞いた。
ボランティアにも色々いるし、場所により全てが相当に違う。

それを踏まえた上での話だが、彼らは配給時にもらいに来た被災者らの不遜な態度に愕然とし、淡い怒りを抱いていた。被災者は施しが当たり前であると考えている、と。

心の蟠りと衝撃、所詮は外部の帰るところのある人間、おまえらに何が分かる、しかし、もちろん有り難さもある、それでも何かそこに当たり散らしたいような蟠りを抱えている。その、感情の微妙な卑屈さと被災・被害者であるという受けて側の気持ちと、あまつさえ勿論感謝されるであろうと考えていたことへの裏切りの気持ち。

是でも非でもない。
それが、距離なのだ。

どこにでも距離がある。
距離を埋めようとする者もある。
距離をさらに広げようとする者もある。

東京が被災地になったらどうなるのだろうか。
起こるまでは誰もわからない。
ただおそらく神としか呼ぶことができぬある種の必然は、我々にその無慈悲を突きつけるだろう。

その時、僕やあなたはどうするだろう。

東北を忘れてはいけない。
確かにそうだが、何かそこには無理が潜むような気もする。
行かなければわからない、行くべきだ。

この微妙なズレは何なのだろう。
何も知らずに突如として被災した人達と同情もしくは使命感により動く人達。
繋がっているようで遠い。
しかし、密接な繋がりもよくドキュメントされている。
しかし、一方では醜悪と思われるであろう被災地での諸々の状況もある。
それらはある所である人間が情報を裁量し、取捨選択をする。
その情報の在り方として、政治家や原発やアメリカや韓国や中国や沖縄をめぐるプロパガンダと異なる部分はどこなのか。
震災以前と震災以降では確実に何かが変わっているし、被災地においては尚更だ。
しかし、被災の度合いが少ない地域では何も変わらない。

その距離。

日常の幸せが過ぎ去った後の余韻で胸が痛む。

それが今の日本であるのに、そこの距離がうまく測れない。

南へ下れば阪神淡路の傷痕、さらに下れば沖縄の基地、掘り起こせば日本全土の棄てられし戦争や炭鉱の歴史。
日本は複雑で、人間世界は更に複雑だ。
なぜなら、その複雑怪奇な人間世界が、国というものを作っているから。
国民なるものを作り国民を利用して他の国民を殺すための国民国家。
自然はそれを拒否している。
しかし、それを我々は受け取らない。
恥や苦しみを「無かったこと」にすることで、「忘れた」ことにすることで、表面的に逃げようとする。
何も変わりはしないのに。
あるのはいつも、それぞれの現実だけ。
しかしその見えている現実の影には、想像を絶するような現実も隠されているのだ。
どんな意味にせよそこを想像することは、やはり人間として生まれたからにはそうしなければならない、そうするべきだと思わざるを得ない。

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